今年最高気温を記録する猛暑日になるでしょう。こまめな水分補給を心がけてくださいね──今朝のお天気コーナーで結野アナが告げていた通りになった。額から流れる玉の汗はいくら拭ってもきりがなくて、照りつける夏の日射しに銀時は心底うんざりさせられている。怪我防止のために上下長袖のつなぎを着用したのは間違いだった。こんなん暑くて着てられるかバカヤローと銀時は脱いだ上着を腰に巻き、Tシャツ姿になる。
 今日の仕事は肉体労働だ。屋根の上に資材を運び、銀時は屋根瓦の修繕を進めていく。屋根職人である親方の息子が事故って骨折したとかで人手が足りないからと急きょ銀時が呼ばれた。暑いので日雇いのバイトが捕まらず、あんたが来てくれて助かったと親方から感謝された。銀時に言わせればバイトを断った者共のなんとまァ根性のないことか。万事屋は猛暑日だろうが空から槍が降ろうが困っている人には手を差し伸べますとも。そういうわけで今後ともご贔屓に。身も蓋もないことを言えばそれだけ必至になってでも金が欲しい。坂田家の家計は毎日が火の車なのだ。
 きりきり働いて作業は昼過ぎに完了した。容赦ない直射日光に銀時の視界が霞むなか、親方から報酬を受け取って作業場を去ろうとした時だった。離れた場所から銀時を呼ぶ声がある。見れば、向かいの茶屋のベンチに座る妙が手を振っていた。茶屋の軒下には「氷」と書かれた吊り旗が揺れていて、妙が手にするガラス製の器に練乳とイチゴシロップがけのかき氷が盛られている。銀時の足は甘い匂いに吸い寄せられた。

「アラすごい汗。暑いのにお疲れ様です」
「オネーサンさ、その手に持ってるやつ、」
「これは私のですから銀さんにはあげませんよ」

 一口ちょうだいと告げる暇も無かった。銀時から守るように器を遠ざけた妙に「卑しい顔してますね」と指摘される。そりゃあ卑しくもなるわ。炎天下の労働を終えてこちとら絶賛冷たいものが食べたいのだ。さてはこのお嬢さん、かき氷見せびらかしたくて俺に声かけてきたの? エスにも程があんだろオイと戦慄する銀時だが妙の話にはまだ続きがあった。

「どうせなら、ご自分で好きな味を選んだらどうかしら」

 一緒に食べましょうと相席を誘われる。奢ります、と言って茶屋のメニューを広げて見せる妙は随分機嫌が良さそうだ。タダで甘味にありつける機会を逃す手はないので、お言葉に甘えて銀時は宇治金時をひとつ注文した。年下の女に氷菓子をたかるなんて男としても恋人としても情けないと思わなくもない。けれども妙がメリットもなしに奢る女でないことを銀時は重々承知していた。

「奢るかわり、銀さんがさっき受け取った報酬で新ちゃんにお給料払ってくださいね」

 パチに使うんじゃねーぞコラ、と釘を刺されて銀時は呻くようにハイと返事した。この女にかかれば銀時の行動などお見通しなのだった。
 それにしても偶然ね、と言う妙の声は弾んでいる。用事があって近くまで来たが、どうにも暑いので帰りに飛びこんだ茶屋でたまたま銀時を見つけたのだと妙は嬉しそうに言った。妙の機嫌がいいのは自分に会えたからかと今さらに気づいて、銀時は何だか照れくさい。
 日陰のベンチで雑談を交わしていれば宇治金時と麦茶のグラスを載せた盆が運ばれてきた。スプーンでひと掬いした氷のかけらは甘くて冷たくて生き返る心地がして、ここは天国だと歓喜する銀時に、大袈裟ねと妙は肩を揺らして笑った。
 銀時がスプーンで勢いよく氷山を崩す横で、頭がキーンとなるのが苦手な妙は、ほろほろになるまで溶かしたしろい氷をちびりちびりと口に運んでいた。つぅ、と垂れたシロップが女の口元を濡らす光景に思わず銀時の手が止まる。
 あ、やらしいな、と思った瞬間から、目に映る妙のすべてが銀時を煽る要素になった。
 しっとり水気を含んだ黒髪が艶をはなっている。それが額に張りついてすごく色っぽいのだ。丸い額にキスしたいと思ったら、暑さで溶けた理性の壁の中から欲望があふれだして止まらなくなった。汗ばんだうなじが白くひかって見えるのも結いだポニーテールからこぼれた後れ毛がぺっとり張りついているのも目に毒だ。
 着崩れひとつない藍色の着物を身にまとう妙の表情は傍から見れば涼しげだろうが、衿から覗く柔肌に目を凝らすと汗をぐっしょりかいているのがわかる。妙はわりと汗かきなほうだと銀時は知っていた。情事のときは特にそう思う。かいた汗で肌の滑りが良くなるせいで銀時は一晩で何度も女の両脚を抱え直すはめになるからだ。つい先日だって――いやいやいや昼間からナニ考えてんのォ、と銀時は己を叱咤した。
 頭を冷やそう。それがいい。かき氷の残りを平らげ、麦茶のグラスを勢いよく呷る。ぜんぶ飲み干しても渇きがまだ止まない銀時はグラスの底に残った氷を頬張って奥歯で噛み砕いた。
 忙しない銀時の行動を不審に思ったのか、女の長い睫毛がしばたいて、黒曜の瞳に覗きこまれる。顔が近い。情欲を悟られまいと銀時は咄嗟に目を閉じた。それがいけなかった。視覚にかわり鋭敏になった嗅覚が嗅ぎとるのは甘味の匂いとは別物だ。この女の肌の匂いだと気づいて、今すぐ妙の首筋に鼻を埋めてしまいたくなった。
 あつい。暑くて、熱くて、辛抱たまんなくなってきた。銀時は気休め程度にシャツの胸ぐらを持って風を送る。腰を中心にまとわりつく重たい熱は逃げない。当然だ。これは気温のせいではなく銀時の不埒な思考が生み出した熱なのだから。
 どうしたものかと銀時が眉間にしわを刻んでいれば、ふと横から視線を感じた。ぽやんとした目の妙がこちらを見ている。視線がぶつかると、どこか赤い顔の妙は慌てて目を逸らした。そのまま見つめ続ければ妙が視線を戻してくる。また逸らされた。それの繰り返しだ。落ち着きないのは妙も銀時と同様だった。アレ、ひょっとして、と銀時は一つの可能性に思い当たる。
 午後から仕事は入っているのかと妙に質問されたのは、そのあとすぐだ。

「今日はこれで終わり。おめーは?」
「私も用事が済んで帰るところです」

 その用事とやらには銀時を待つことも含まれていたのか。それを聞くのは野暮だ。偶然ね、と妙は最初に言ったがあれは嘘だと分かる。ここからもう少し歩いた先には茶屋なんかより席数が多くて全席冷房完備の喫茶店やファミレスがあるはず。それでも妙はこの茶屋を選んだのだ。避暑地とは言い難い屋外のベンチでわざわざ妙が暇を潰していた理由は明らかだった。
 銀時と会って、隣に座って、他愛もない話をして、触れあいたかったからだ。

「練乳ついてる」
「あ、……っ」

 妙に触れる口実を見つけた銀時は、妙の口角をかすめ取った指で唇をなぞる。乳白色の付着した指先は赤のルージュに溶けて鮮やかなマーブル模様を描いた。妙の唇がうすく開く。そこから指を差しこめば第一関節をあまく噛まれた。舌先をつつくと続きを期待する瞳。やっぱりそうだ。銀時の疑念は確信へと変わる。どうやら不埒な熱に思考を奪われていたのは銀時だけではなかったらしい。急かされるようにガタガタと席を立った。
 勘定を済ませた妙の手を取って店を出る。すでに銀時は脳内のタウンページをたぐってここから一番近い連れ込み宿を検索済みだった。
 そこへ思わぬ邪魔が入る。咄嗟に妙から手を離した。やあ銀さん、という声の主はお登勢のスナックの馴染みの客だ。つなぎ姿の銀時を見て、仕事かい、暑いのに大変だね、と話しかけてきた。性欲が振り切れて大変なんですとは流石に口に出せず、適当に会話をやり過ごした。
 顔見知りに話しかけられたことで、銀時は思い出したことがある。暑さで頭が馬鹿になっている場合じゃない。いつもの服装でないとはいえ持ち前の銀髪がやはり人目を引くし、ただでさえ器量良しの隣の女は人気のホステスとして名高く認知されている。ここからそう遠くないかぶき町で銀時も妙も顔が広い。そんな二人が白昼堂々とホテル街に歩いていく場面を目撃されたら色々とまずい。昼間だと顔がはっきり見えるので人違いですと言うのも厳しい。
 以前詐欺に遭いそうになった新八を助けるべく真昼間に妙とラブホテルのロビーまで押しかけたことがあるが、なんせ当時はお互い何とも思っていなかったし変な噂が立とうが別に気にしちゃいなかった。けれど今は違う。ホステスである妙に悪い評判が立つのは嫌だし銀時だって面倒事は避けたかった。
 ならばと万事屋へ足先をむけるも、いや待てよと思い留まる。

「宿は止めとこう……けど、いまの時間ならきっと神楽が戻って来てる」
「うちなら誰も居ません」

 話が早くて大いに助かる。銀時はにやつく口元を隠しながら歩き出した。妙は天然なところがあるから宿を探していること自体そもそも伝わっていないのではと思っていたが杞憂に終わった。
 妙も同じ気持ちであることが知れて安心したし、その事実に馬鹿みたいに興奮している。
 行先は決まった。問題はたどり着けるかどうかだ。道中の暑さにげんなりしていると、こっちですと妙が先導したのは道場に向かう普段の道ではなかった。やがて交通量の多い道路に出る。アレと首を傾げる銀時を放置して妙が片手を上げた。目の前に停車したタクシーにぎょっとすれば妙がクイと顎で示した。

「代金は持ちます」

 それなら問題無いでしょうとばかりの目だ。自動で開いたタクシーのドアから妙が後部座席に乗り込む。別に金のことを心配したのではないのだが、まあいい。銀時も妙の後に続いた。
 金払ってまで早く帰りたいなんてオネーサン必死ですか、と。
 からかいを飛ばす余裕は今の銀時になかった。今だって垂れた横髪を耳にかける女の仕草に目を奪われて、タクシーの車内であろうと妙を抱き締めたくてたまらなくなっているのが証拠だ。
 妙が運転手に住所を告げてタクシーは走り出した。運転席付近のパネルが道場までの道順を示す。ざっと10分というところか。歩くより早いだろうがそれでも長い。冷房の効きすぎた車内で、かいた汗がみるみる引いていくのに、妙に近いほうの肩だけやけに熱い。内側から焦がすような熱が銀時の体からいつまでも引かない。こんな状態であと10分も耐えなきゃいけないなんて気が遠くなる。道場に続く景色が車窓から見えるのを銀時はただひたすら待っていた。
 


 今日は猛暑日になるそうだから、まだ日射しの弱いうちに用事を済ますべく朝早くに家を出た。しかし郵便局や銀行が混んでいて予想より時間がかかってしまい妙が自宅に帰る頃には太陽が本気を出しはじめていた。日傘を忘れたのは痛恨のミスだ。茹だるような暑さに耐えつつ妙はなるべく日陰を歩くようにした。かぶき町が近いので避暑ついでに万事屋に顔を出そうか。なんて思案に耽っていればカンカンと木槌を打ちつける音が妙を現実に引き戻した。
 見上げると、建物の屋根に見知った男の姿がある。真面目に仕事に取り組んでいるらしく向こうは妙に気づいていない。屋根を挟んでの会話は危険だし、銀時の邪魔をしたくない。
 声をかけるのを躊躇した妙は、建物の向かいにある茶屋に気づいて、これ幸いと暖簾をくぐる。人でごった返す店内は生憎と満席だった。今日みたいな猛暑日に冷房の効いた場所で冷たいものを得たいのは人類共通の願いだ。店の外なら空いてると店員に教えられて妙は頷く。外のベンチから銀時の姿がよく見えるだろう。
 かき氷をひとつ注文し、妙は茶屋の軒下に設置されたベンチで一息ついた。日除けの屋根があるだけマシだが、蒸し風呂のような暑さは外を歩いている時とほぼ変わらない。日陰にいる妙ですらこうなのだから、あちらはもっとしんどいだろうと銀時の体調を思い遣った。
 淡々と作業をこなしていた銀時が不意に立ち上がるのが見えた。梯子を伝って地面に降りてきた銀時に作業員がお疲れさんと声をかけている。
 仕事中でない今なら話しかけてもいいだろうか。道の反対側から銀さんと呼んでみる。手を振る妙に気づいて銀時が近寄ってきた。つなぎ姿の銀時を見るのは今日が初めてだった。グレイのシャツは全体が鈍色になるほど汗じみを作っている。銀時の仕事ぶりを知っている妙は労をねぎらってやりたくなった。かき氷を食べたそうにしていたので、奢りますよと告げれば、三十路近いくせに銀時はまるで少年みたいに瞳を輝かせる。そのかわり弟に給料を支払うことを約束させてやった。

「暑すぎて、さっき熱中症になりかけてさァ屋根の上で一瞬天国見たわ」

 追加で注文したかき氷が届き、一口食べた銀時は神妙な顔で語るのだった。

「けど違ェな。こっちが本当の天国だったみてえだ」
「ずいぶん安い天国だこと」

 大真面目に何言ってんですか。大袈裟ねと妙が笑う。銀時はスプーンでかき氷をシャクシャク食べはじめる。その横顔をなんとはなしに眺めた。
 こんなところで会えるとは思っていなかったから、嬉しい。妙は銀時と話がしたくて茶屋のベンチに座ったのだ。なのに、こうして銀時が隣に来てくれたら、話すだけじゃ物足りなくなった。やだ、暑さにやられて頭がおかしくなったのかしら。妙は火照る頬を手のひらで覆う。ここが冷房の効かない外のベンチで助かった。顔が赤いのは夏のせいだと言い訳ができる。
 途中から異様なスピードでかき氷を食べ進めた銀時が妙より先に完食してしまう。喉が渇いているのか、銀時は勢いよく麦茶のグラスを飲み干した。ごくごく上下する喉仏に男性を感じた。
 目を閉じて銀時が何やら考え事をしているので、妙は隣を堂々と盗み見ることができた。まるで頬紅をうっすら刷いたみたいに銀時の目の下の皮膚が赤く色づいている。単純な日焼けと周囲の熱気にあてられたせいだろう。銀時は肌が白い。風呂上がり、風邪で熱を出したとき、酒を飲んだとき、それから情事のとき。今と同じ色に染まることを妙は知っている。
 銀時が胸元のシャツをパタパタ扇ぐ。浮き出た鎖骨に沿って汗が胸板を滑っていく瞬間をまさに目にして、妙は硬直した。ばっくり前の開いた普段の服装のほうが露出度は高いはずなのに、変にドキドキしてしまう。汗で濡れたTシャツは銀時のがっしりした肩幅と鍛え上げられた胸板の厚みを強調するから目に毒だ。
 汗で滲んだ服の色濃い場所から銀時の体臭がする。妙の肌の匂いとは明らかに違う、濃くて動物的な匂いだ。最後にこの匂いを近くで嗅いだのはどこだったか思い出したら、ぶわわっと妙の中で熱が膨らんだ。
 突然銀時が視線だけ寄こした。弾かれるように妙は目を逸らした。ちらと隣を覗き見すると、銀時はまだ妙を見ていた。何度も目が合ってしまい、何か喋らなくちゃ、という気持ちで「銀さんは午後も仕事ですか」と聞いた。

「今日はこれで終わり。おめーは?」
「私も用事が済んで帰るところです」

 そーなの、と相槌を打つ銀時が目をすがめる。妙の口元に銀時が手を伸ばした。

「練乳ついてる」
「あ、……っ」

 まるで唇のかたちを確かめるみたいに銀時が指を這わしてくる。閨での触れ方をされて、なんてことするの、と喚きだしそうになる。力が抜けて開いた口に指が入り込んでくる。氷によって冷やされた舌先を熱い指がつついた。
 情欲の炎に火を付けたのは紛れもない妙自身だったが、こうして一気に燃え上がらせた原因は銀時のせいだ。いますぐ責任を取って欲しいと思って、咥内に差しこまれた指を噛んで挑むように上目遣いした。
 それが相互間での合図だったみたいに、ふたり同時に席を立つ。会計のあと妙は銀時に手を握られた。くんっと前に強く引かれて妙はつんのめりそうになる。指を絡め、親指の腹で手の甲を撫でられた瞬間にぞくぞくしたものが背すじを駆けあがった。
 てっきりこのあとは連れ込み宿のひとつに行くものと信じていた。しかし店を出たところですぐ銀時の手がぱっと離れた。どうして、と悲しく思ったのも一瞬、銀時の顔見知りらしい男の存在に気づく。銀時は妙を隠すように男の前に立った。
 銀時が男と会話しているあいだ、さっきまで不思議と耳に入らなかった街の喧騒を妙は意識した。茶屋がある区域はかぶき町から近い。かぶき町新四天王である妙や銀時はこの辺では良くも悪くも多くの者に顔を知られている。今みたいに急に声をかけられることは多い。真昼間から連れ込み宿に向かう姿をいつ誰が見ているか分からない。
 それに加えて、妙はこれまで日の高いうちから施設を利用したことがないので、いかにもという城や看板を昼間に目にするのが恥ずかしい。何を今さら、と銀時は言うだろうが。
 声を掛けてきた男と別れたあと、ホテルに行くのはやめませんかと妙は告げようとした。どうやら向こうも同じようなことを思っていたらしく、やめようと言ったのは銀時が先だった。

「いまの時間ならきっと神楽が戻って来てる」
「うちなら誰も居ません」

 銀時は頷くと妙の自宅がある方角へと歩き出す。迷いない銀時の足取りに妙は安堵した。
 勇気を出して、妙は銀時の手を引いて大通りに導いた。タクシーを停める妙を見て銀時は虚をつかれたような顔をしたが、後部座席に収まったあとは何も言われない。
 どんだけがっついてんの、とか。
 そんなに俺が欲しい? とか。
 いやらしい顔した銀時が妙をからかうだろうと身構えてた。はしたないと言われたって文句は言えない。
 だが、いつもなら飛んでくる銀時の軽口が今日は無い。それが意味するのは、妙と同じくらい銀時もまた情念に駆られて余裕がない証拠だった。
 運転手が無口なので、タクシーの車内は終始無音だ。目的地である我が家にたどり着くまでのあいだ、妙は窓側に頭を寄せて銀時から距離を取った。ほんとうは手をもう一度つなぎたい。けれど、手をつなぐだけじゃ済まないほどに衝動は膨らみきっていた。触れたい。触れられたい。キスしたい。いますぐ性急な口づけが欲しい。男らしい喉仏に噛みつきたい。雄臭い顔で見下ろされたい。タクシーがカーブに差し掛かり、肘が銀時にあたりそうになって妙はぎゅうと両腕を抱えた。触れたら最後、くっついて離れられなくなりそうだと、狭い車内で二人ともそれが分かっていた。
 
 タクシーの窓から恒道館の屋根が遠目に見えた瞬間、ハイそこ曲がったとこで止めて、と運転手に告げたのは銀時だった。メーターが停止する。妙が財布から札を取り出すより早く、銀時がポケットから手を出してコイントレーに小銭を載せた。丁度なので釣りが発生しない。タクシーに乗ろうと提案したのは妙で、代金はこちらで持つと言ったはずだ。妙は隣を見るが、文句を言う相手はすでに後部座席から降りていた。

「レシート要りません」

 運転手に頭を下げて妙もタクシーから降りた。タクシーを振り返りもしないで、妙も銀時も自然と急ぎ足になる。
 競い合うように道場の門をくぐり、家の玄関までたどり着いた。鍵は妙が所持している。巾着から取り出した鍵を鍵穴に向けた。手汗で鍵を持つ指が滑る。カツン。カツン。穴の無い場所に鍵が突き刺さり、つい舌打ちが飛び出す。ようやく差しこんだ鍵を回して家に入った。
 飛びこんだ先で、ガラララと玄関が閉じるのと、鍵を持つ妙の手が掴まれたのは同時だった。引き寄せられてタクシーの車内で決して触れ合わないよう気をつけていたのが嘘みたいに身体が密着する。ぐっと体重を掛けられて玄関扉に体を押さえつけられた。扉と銀時の間に挟まれるかたちになり妙の背後でガシャンと音が鳴った。そんなことしなくたって逃げやしないのに。だってずっと欲しかった。

「っん、ぅ……はっ、ァ、む」

 一心不乱に唇を重ねた。妙の頭の後ろに銀時の手が回って口づけがより深いものになる。妙は両手で銀時の髪をぐしゃぐしゃに掻き回した。

「……?」

 ふふ、と妙が呼吸を漏らしたせいでキスは中断された。なに笑ってんの、と銀時は拗ねた声を出す。至近距離にある銀時の目元は相変わらず色づいている。
 冷房のよく効いたタクシーの車内に居たから、お互い頭も身体もじゅうぶん冷やされたはずだ。妙が銀時を求めるのも銀時が自分を求めてくれるのも熱気に頭をやられたのではない。そう思ったら、なんだか、嬉しくて。

「ふ、ふふ……っ」
「そんなに笑ってたら舌入れられねーんだけど」

 無理やり口づける手段もあるのに銀時は律儀に妙の笑いが収まるのを待っていた。弱りきった声で「なあ」「お妙」「そろそろさァ」と言うのがまたさらに可笑しい。

「あの、俺ね、すげえ我慢してたの、わかる? だからさ、焦らすなら今度にしてくんない」
「はい。わかってますよ」

 ごめんなさいと妙は素直に謝った。お互い盛大に呼吸を乱しているのが可笑しくて、嬉しくてたまらないだけなの。

「私もです」

 我慢して、我慢して、我慢したのだ。
 目の前にある薄い唇に噛みつきたいと思っていた。きっとその衝動は屋根の上にいる銀時を見つけた時から確かに妙の中に存在していたものだ。欲望をそのまま口にしたら、好きにしたらいいと銀時は笑った。両手を広げてどーぞと言われて、背伸びをして妙からキスをした。今度は、止まらなかった。


'2021.05.15 このあと滅茶苦茶
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