寝癖なんだか元からなんだか判別つかない天然パーマが、窓から差す陽光に透けて白く光っている。その日妙は起き抜けに洗面所へ行くところで、ちょうど同じ頃に起床した銀時と出くわした。
 神楽曰く、お泊まり会と称して、銀時らは度々この家に泊まっていく。それだから妙は、家の洗面所の前を陣取る男の背中にも見慣れていた。
 蛇口の水で顔をばしゃばしゃ洗う銀時の近くにタオルが見当たらないので、脱衣場から清潔なタオルを一枚引っ張り出してくると、歩み寄る妙の足音に銀時が顔を上げた。

「おはようございます」

 使ってください、と手にしていた水色のタオルを妙が差し出す。受け取る銀時は「お早う」だか「おお」だか、眠そうな返事を寄こした。ぽたりと雫が滴る毛先はくすんだ銀色に変わっている。濡れた前髪を煩わしそうに撫でつけて、ふうと息をつく銀時と鏡越しに目が合った。

「みすぼらしい顔してますね」
「みす……ッ!?」

 妙の掛けた言葉によっぽど衝撃を受けたらしい銀時は絶句し、その場で目をひん剥いた。

「……言うに事欠いて、みすぼらしいはあんまりだろ。ホラもっとこう、ワイルドとか男らしいとかさァ、ちったあ言葉選んでくれたっていいだろが」
「だって本当にみすぼらしく見えたんだもの」

 妙が指摘したのは銀時の顎にぽつぽつと生える、産毛にしては色の濃いそれのことだ。手入れが行き届いているならまだしも、不揃いな髭面は不潔な印象を受けるし、むさ苦しい。妙の冷ややかな視線を受ける銀時はすっかり不貞腐れた様子になって、タオルで乱暴に顔面を擦った。

「それ、さっさと剃ってしまいなさいな」
「剃りたくても剃るモンがねえんだよ」

 顎に手をやりながら「持ってくんの忘れた。お前、剃刀とか持ってない?」と銀時が鏡を見る。
 忘れた、という彼の言葉の通りなら、この家に泊まることがあれば銀時は毎度こっそり剃刀を持ち込んで、人知れず朝に髭を剃っていたのか。
 寝巻きや布団から何までこの家のものを借りておいて、変なところで遠慮する男だと思う。

「お前も眉とか整える用に一つくらいあるだろ、それ貸して」
「私が持っているのは刃が細いから、髭を剃るのに向かないかもしれませんよ。薙刀ならお貸しできますけど」
「んなもん使ったら血だるまになるわァ!」
「なら諦めてくださいな」
「おめーの言うところの、みすぼらしい顔の銀さんのままでいろってか」
「髭があってもなくても大して変わらないでしょ」
「もしかしてさァつまり俺が普段からみすぼらしいツラしてるって言ってる?」

 返事するのも野暮だと思って妙が微笑むだけに留めると、がっくりと銀時は肩を落とした。

「ひとまず今はその、浪人みたいな髭面で過ごすしかありませんね」
「誰が浪人だっつーの。いい加減拗ねるぞ」
「もう、いい大人が朝っぱらからムキになってどうするの」

 誰のせいだと、とぶつくさ文句垂れる銀時を、妙はすっぱり無視して、「銀さん用の剃刀を買っておきますから、次からはそれを使ってくださいね」と続けた。

「えっ。いーの?」
「銀さんの歯ブラシだって用意があるんだから、一つくらい荷物が増えたって構いませんよ」

 この辺に置いておきますから、と妙は洗面所横の棚を指さした。神楽が髪を梳かす小さめの櫛もそこに置いてあった。剃刀だろうが櫛だろうが、彼らの荷物が増えてもスペースにはまだ余裕がある。元より弟と二人暮らしには大きすぎるほどの棚だから、ちょうど良かった。

「確かに、いまさらだな」

 妙の提案にはじめ戸惑ったふうだった銀時も、棚と妙の顔を交互に見比べてから、やがて、ふっと吐息まじりに笑った。
 この家で、弟と二人きりで長い間過ごしてきた。大事な家だ。親の形見でもある。そんな家だから軒下に住み着かれるなんてもってのほかだし、ある日突然見知らぬ第三者が現れて、我が物顔で出入りするようになったら、妙は抵抗を示すだろう。
 それなのに、どうしてか妙は銀時を受け入れてしまった。慣れ親しんだ家の景色に銀時が溶け込んだことを、嬉しいとすら思う。
 相手の脆い部分にずかずか踏み込む。そのくせ銀時自身どこか他人と線を引きたがった。この男一体どうしてくれようか、と妙は思案した。不器用な男を見ているうち、はじめて弟以外の人間を受け入れてみたくなったのだ。
 弟と可愛い妹分と三人で手を繋いだ輪の中に、銀時を引き入れることに成功したあの瞬間から、輪は四人分の大きさになった。常に四隅の埋まる炬燵も、客用にしては主張の激しい糖分と書かれた湯呑みも、いとしくてかけがえのない、当たり前にある光景と化している。
 ほんとうの家族とまではいかなくとも、少なくとも出会った頃に比べたら、自分たちはとても仲良くなれたと思う。洗面台に四つ並んだ色違いのコップがそれを物語っていた。
 同意を求めるように妙は銀時を見上げる。妙の視線の先で、眠たげに目を擦りながら銀時はあくびを噛んでいた。目が合うと、なに、と目尻を緩めた銀時の反応が、妙の心の柔らかいところに染み込んだ。手足がむず痒くなる感覚を抑えきれずに、妙は衝動的に手を伸ばした。

「………………なにしてんの」

 銀時の口元はひきつっていた。死んだ魚のようだと揶揄される瞳をカッと見開いて、覚醒した眼差しを妙に向けてくる。そんなに驚かなくてもいいのにと思う。銀時の顎に触れている妙の指先は、ちくちく刺さる感触を伝えてきた。

「銀さんって髭も白いんですね」
「ジジイみてーだってか」
「そんなこと誰も言ってません」
「……つーか、いつまで触ってんの」

 何とか絞り出したみたいな、弱った声で銀時が聞いてくるのが妙には不思議でならなかった。
 本当にただ触れているだけだ。引っ掻いたり、抓ったりするほど、指先に力を込めているわけじゃない。妙がいつまでも手を引っ込めないでいると銀時はますます表情を硬くした。

「もうちょっと触っていたいんです。髭が珍しいから」
「そんな珍しいもんかよ」
「だって新ちゃんには生えないから」
「オイ言い方。間違えてんぞ。まだ、生えてないんだろ。現実を見ろブラコン。もうすぐアイツにも生えるだろうよ立派な黒いブツブツが」

 想像してみろと銀時に言われて、妙は首を横に振る。かわいい弟の髭面なんて想像したくもない。絶対無理だ。こんな態度じゃブラコンと言われても仕方ないわねと内心溜息を吐いた。

「でも生えない人もいますから。新ちゃんもそうなのかも」
「いーや嘘だね男なら誰だって生えるね」
「真選組の沖田さんがそうなんですって。このあいだ触らせてもらったら頬ツルツルでしたよ」
「はァ? ちょっと待て。お前が? アイツの? どんな経緯でそうなったのか知りたいんだけど」
「ふふ、ふたりだけの秘密です」

 冗談めかして妙は唇の前に人差し指を立てる。実際のところ、秘密にしたいほどの事件が起こったわけではない。
 ある朝方のことだ。すまいるを出たばかりの妙は、夜勤明けの真選組の隊士たちと遭遇した。誰も彼も泥と煙に塗れた顔で、髭を剃る余裕もないのか疲労が目に見えており、事後処理に追われる男集団の中から、姐さん、と声をかけてきたのが沖田だった。
 お勤めですかィご苦労様です、という言葉をそっくりそのまま返した。江戸の平和を守ってくれてありがとうとも付け加えて。
隊 服の汚れが目立ちこそすれ、沖田は普段と変わりない小綺麗な顔をしていた。「あなた、髭がないのね」と指摘すれば「実は生えないことがコンプレックスなんでさァ」とぼやくものだから、本人の許可を得て妙は彼の陶器のような頬に触れた。されるがままの沖田を見て、弟属性という言葉がふと思い浮かんだ。そのあとすぐ「総悟ずるい! 俺もお妙さんに触ってほしい!」と飛び込んできた近藤を撃退したのも記憶に新しい。
 それが事の経緯だ。沖田の髭事情など興味がないのか、銀時はさも面白くなさそうな顔で突っ立っている。ざらりとした銀時の頬にぺたぺた触れていると、沖田の頬の感触など妙は記憶の彼方にいってしまう気がした。

「飽きねーな。触るのがそんな楽しいかね」
「楽しいかどうかはともかく、こんな機会はめったに無いですから飽きませんよ」

 店では同伴出勤もアフターの経験もない。当然朝寝をする相手も居ない妙には、他人の髭を間近で見たり触ったりする機会は皆無だった。かつて幼い妙を膝の上に抱き上げた父の顔に生える髭に触れたのが最後かもしれなかった。
 ああ、そういえば、と妙は思い当たる。
 目の前にいる男は父上と同じ性別だった。

「銀さんって男の人だったんですね」

 思ったことがそのまま口に出ると「そーだよ」妙が触れているあいだ視線を逸らしていた銀時が初めてこちらを見た。

「俺ァ男だよ」

 大げさに眉山を寄せた銀時の顔は、何を当然のことを言ってるんだと妙を窘めるみたいだった。
 銀さんだから大丈夫だと信じたかった?
 新ちゃんや父上と同じカテゴリなのだと確かめたかった?
 銀時に触れたくなった尤もな理由を必死に並び立てようにも、妙の理性は冷静に「違う」と告げていた。店に来た男性客の髭に触りたいだとか、そんなこと妙が思ったことは一度もない。それだから、なおさら今の状況の説明に困る。
 彼に触れたいという、自分の中に生まれた強い衝動は一体なんだ。
 ひとり混乱に陥る妙を放置して「男なんだよ」と銀時がもう一度繰り返した。
「知らなかったんだろ」
「しっ、知っていましたよ」
「へえ。ほんとうに?」

 知っててこんなことしちゃうんだ、と唸るような低い声が耳のすぐ近くから聞こえて、妙の肩が跳ね上がる。一体いつの間に銀時は動いたのだろう――否、銀時の髭に触れたくて不注意に距離を詰めたのは他ならない妙自身だ。

「出会った頃に比べたら、ずいぶん俺に甘くなったよな。おめーが俺のことを受け入れてくれんのは、まァ悪くはねえよ?」

 でもな、と言葉を切った銀時に、妙は不安な面持ちで続きを待った。家族のような扱いを受ける現状に何か不満でもあるのだろうか。もしそうだとしたら妙は悲しい。こんな関係がずっと続けばいいと、一人舞い上がっていた自分が馬鹿みたいに思えるから。
 しかし銀時からは、妙の予想だにしない言葉が続いた。

「警戒心まで無くすのはどーかと思う」

 朝の爽やかな空気に相応しくない、獣のような眼差しだった。それに全身を射られた妙は、弾かれるように銀時の頬から手を離した。妙の脳内で今頃になって警鐘が鳴り出すが、遅すぎる。だってこんなに距離が近い。今さら逃げ出せる訳もなくて、後ずさる妙の腰に片手が回る。

「手ぇ放しちまっていいのか。折角だからもっと触っていけば?」
「もう結構です」
「遠慮すんなよ」
「してません」

 相手の身体を押して遠ざけようとしたら逆に手を取られて、もっと触れとばかりに銀時が頬をひたりと押しつけてくる。妙の手の甲がサリサリ音を立てた。
 綿毛のような見た目ほど柔らかくない鋭さが皮膚に突き刺さり、身の毛がよだつとも違う、じんじんと痺れるような感覚に襲われた。熱い。とても熱い。今すぐにこの手を離してほしいと思うのに、離さないでほしいとも思う。相反する欲が交互に顔を出すので妙はもうどうしたらいいか分からない。

「いい機会だから、俺が男だってこと、よく思い知ったらいいじゃねえの」

 あろうことか銀時は、すり、と妙の手の甲に大きく頬を擦りつけた。

「〜〜〜っ!」

 混乱と羞恥から首筋まで薔薇色に染め上げた妙が、声にならない悲鳴を上げる。どうしてこんなことするの、と訴えるように涙目の妙が睨むと、不意に銀時が目の前から退いた。妙に頬を触らせていた手も、妙の腰に回していた手も離してしまって、その両手を目の高さまで持ち上げた銀時は降参のポーズをとる。

「……………………あっぶねー」

 ぐったり洗面台に半身をもたれて冷や汗をかいている銀時に、なにが危ないの、とはさすがに聞けなかった。聞いたら今度こそ、妙が大きな悲鳴を上げるようなことをされそうだと思ったのだ。

「言ったからな俺は。警戒しろって。だから次にお前がどういうつもりで俺に触れてこようが、俺の都合のいいように解釈するぞ」

 二度目はない。わかったか、と必死な形相をした銀時に言われて「は、い」妙の喉から驚くほどか細い声が出た。
 妙の返事を聞き届けると銀時はおぼつかない足取りのまま洗面所を出ていった。残された妙はひとり洗面台の鏡の前に立ち尽くしている。
 銀時の存在を家族という枠組みに定義づけようとした妙に、待ったを掛けてきたということは、彼は別の何かになりたいのかもしれなかった。
 家族のままではだめなのか、と思う。鏡に映る妙は途方に暮れたような顔をしていた。
 髭剃りを買わなくちゃいけない。不意に妙は銀時との約束を思い出した。銀時は髭の生えるような男性だった。妙が今さっき嫌というほど、身をもって体験した事実だ。銀時は男で、そして妙は女だった。
 二度目はないと釘を刺された。だから次、もしも妙が彼に触れたいと思って触れることがあれば、銀時を家族としてではなく一人の男性だと認めた時だ。そしたら今度こそ銀時は妙をその腕の中に抱き込んで、絶対に逃がしてくれないだろう。
――ねえ、私ったら、どうしてあんなことをしたの。
 妙のほうから触らなければ、銀時だってあんな行動をしなかったのに。後悔しているはずなのに、妙の心臓ときたら本人の意志とは無関係に「もっと銀時に触っていたかった」と激しい鼓動と共に伝えてくるから、たまったものではなかった。


'2020.10.25 二度目はない
'2021.01.10 改訂
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -