※R−15


 しこたま酒に酔った勢いでホテルのベッドに雪崩込んでセックスをした。あれが銀時との一度目の夜だ。二回目以降からは妙は素面のまま銀時に抱かれている。もう止めよう、これを最後にしようと、どちらかが言い出すのを待っていたら、今日までなんとなく続いてしまった。
 身内と関係を持つくらいなら行きずりがいい。面倒だから。そんな最低な発言を酒の席で銀時がしていたのを、妙は盗み聞いたことがある。あれが事実ならば、なし崩し的に妙と肉体関係を持ったことは彼の本意で無いだろう。
 それなのにセフレとも言えるこの関係がいつまでも終わりを迎えないのは多分、身体の相性がよかったからだ。妙は銀時以外の男を知らないけれど、それを差し引いても、まるで欠けたピース同士がぴったりと嵌るように互いの肉体はよく馴染んだ。それだから銀時も自分を手放せないのだろう。それ以外に理由なんて思いつかなかった。
 きっと今日もおんなじだ。
 妙は熱に浮かされたふわふわした頭で思考した。はあ、ふうと呼吸するたび、裸の胸が上下する。
 場末の安いラブホテルで身体を求め合うのも、幾度目になる。
 暗闇に目が慣れてきた妙の前に、鍛え抜かれた胸筋が惜しげもなく晒されている。ところどころ古創のある銀時の肌に、ぷつりと玉のような汗が浮き上がっては、前後する腰の動きに合わせて妙の胸にぱたぱた落ちる。
 妙の上では、切なげに眉を寄せた銀時が、ひたすら快感を追って一心不乱に腰を振っている。普段は飄々として腹の底の読めない男が興奮を隠そうともしないで、己の薄い身体に欲情している。その様子を目の当たりにして、これが自分だけの特権だと思ったら、なんだか妙は気分が良かった。
 ふと、妙を追い詰める腰の動きが不意に止んだ。妙の下腹部からずるりと熱が引き抜かれて、喪失感に見舞われた矢先のことだ。

「……ええぇっ!?」

 ひどく困惑しきった声が妙の真上から降ってきた。妙が首を動かして仰ぎ見ると、覆い被さる銀時にまじまじと顔を見つめられていた。キスがしたいとも、もっと激しくしたいとお伺いを立てるともまるで違う、目の前の光景が信じられないとでもいうような。怪訝そうに眉をひそめる銀時は、少なくともこんな時――情事の最中にする表情では到底ないだろうと妙は思った。
 おそるおそる、といった様子で銀時が口を開く。

「貴方は……誰ですか?」

 妙を見つめる銀時の目が下へと移動していって、ぴたりと停止する。お互い体液にまみれて全裸なのは今さらなのに、わああと声を上げた男は顔が真っ赤だ。誰だこの人は。ついさっきまで妙を抱いていた銀時は一体どこへ消えた。

「と、とりあえず! 服を! 服を着ませんか!」

 男は布団の横でぐしゃぐしゃに丸まっていた銀時の着流しをひっ掴むと、妙の剥き出しの肩に押しつけた。ギュルンと首を明後日の方角へ向けて、素っ裸の妙を極力見ないようにつとめる紳士な彼は、目と眉がちょっと近づいて、黒目が少し大きいような気がした。



 あろうことか情事の最中に記憶を喪失した男は、はじめましてと銀時そっくりの顔で妙に挨拶した。
 銀時の着流しを羽織る妙の目の前に、トランクス一丁で間抜けた格好の男が正座している。背筋をぴんと伸ばし、きりりと締まった顔を見ていると別人みたいだ。

「なるほど、僕は以前にも記憶を無くしたことがあるんですね」
「あの時はたしか交通事故だって」

 過去の記憶喪失のエピソードを妙が話してやれば、男は真剣に耳を傾けた。医者曰く、あの時は強い衝撃が脳に作用したらしいが、今回の原因もそれなのだろうか。交通事故ならともかく性行為が強い衝撃に分類されるとは驚きだ。今はただデリケートにも程がある銀時の脳みそを哀れに思うほかない。

「なにかヒントになるかもしれません。前回の僕はどうやって記憶を思い出したんですか」
「ええと、さあ、どうだったかしら」

 妙が答えを適当にはぐらかしたのは「前回の僕」のことを思い出したからだ。妙の手首をがしりと掴み「必ず貴方のことを思い出します」と誓ってみせた、あの真摯な眼差し。まさかまた会えるなんて思ってもいなかった。ぽっと火照る頬を両手で隠した妙を見て、銀時によく似た男が首をかしげる。当然だが一度目の記憶喪失のことも男は覚えていないのだった。
 それにしても、と男が感慨深げに言った。

「本当に何も覚えてなくて……気が付いたら僕は全裸で、あなたと……その、布団で、えっと、驚きました」

 気きまずそうに苦笑する男は、性行為の単語ひとつ言いよどむ。やはり銀時と何もかもが違う。つられて妙まで恥ずかしくなってしまった。思わず俯いて、羽織った着流しの合わせ目を握る妙の手にぎゅっと力が入る。この人は銀さんであって、銀さんじゃない。銀時以外の男に裸を見られたことが恥ずかしい。その上、なし崩し的にはじまった爛れた恋愛に他人(?)を巻き込んでしまったことも。
 もしも彼に、記憶を失う以前の銀時と妙がどういう関係だったのか尋ねられたら絶対に困る。死んだ魚のような目とは正反対の、きらきらした純粋な目を見ていると、セフレですなんて口が裂けても言いたくない。しかし事実だから仕方ない。なんせ取り繕いできないくらい、以前の銀時とはインモラルでアダルトな関係なのだから。
 しかし記憶喪失の銀時は妙の想像の斜め上をいく発言を落とすのだった。

「記憶をなくす以前の僕は、こんな綺麗な方が恋人だったんですね」
「こッ、恋人……?!」

 絶句する妙を差し置いて、羨ましいな、といって男は微笑んでいる。勘違いだという指摘は喉奥の寸前で飲み込んだ。

――ああ、この人は。本当に何も覚えていないのね。

 記憶と知識は入れ物が違うという話を聞いたことがある。リンゴが果物である知識と、リンゴを食べてどんな味がしたかという記憶は別物らしい。今の銀時はまさに前者しか持たない状態だ。セックスが親しい男女の営みという知識はあっても、経験がすっかり抜け落ちていた。銀時が妙と身体を重ねることになった経緯を、記憶喪失の男は一切覚えていないのだ。それだから、ひとつの布団で裸になって同衾していた事実から、妙と銀時が恋人であると決めつけたらしい。
 銀時から好意を言葉にされたことは一度もない。前後不覚でとろとろになった妙に向けられる声や眼差しがあんまりにも甘いから、勘違いしそうになったことは何度もあるが、記憶を失った今、銀時がどういう思いで妙を抱いていたか確かめる術は無い。それでも確実なのは、愛を囁きあったことがない自分たちは決して恋人ではなかった。
 だから記憶喪失の男が口にした、恋人という甘い響きは、自分と銀時の間柄を示すのにあまりにも滑稽に思えたし、妙は何だか鼻の奥がツンとした。

「恋人だと思って良かったのかしら」
「それはどういう……えぇっ!?」

 男が妙の顔を見て目を見開く。どうして泣いてなんか、と男から指摘されて初めて、妙は顎を伝い落ちる己の涙に気づいた。

「ごめんなさい。へんなところ見せちゃった」
「………」

 何も知らぬ彼を混乱させては申し訳ないと涙を止めようとするが、妙の意志と裏腹に、まばたきのたびに大粒のしずくが次から次へと溢れてシーツに染みをつくる。それはどこか妙の心に広がるもやもやに似ていた。
 実は、銀時がどうして情事の最中に記憶を無くしてしまったのか心当たりがある。記憶を無くすほどに、銀時が妙との関係を無かったことにしたいと後悔していたのだとしたら。もしそうなら、妙は今度こそ自分の頭をトンカチで殴ってくれと弟に頼むはめになる。銀時に忘れられて自分だけみっともなく傷ついていることを、ここにはいない銀時本人に知られたくない。
 記憶を無くしてまで自分との夜を忘れたかった銀時を、別に責めるつもりはない。忘れたいなら忘れたらいいのよ。こちらとて好都合。結婚するまで貞操を守りたかった自分にとってこれは黒歴史だ。無かったことになるならそれでもいい。まだ戻れる――などと自分に言い聞かせるあいだも、相変わらず涙はだばだば溢れた。
 銀時によく似た男は、ぱっと妙の手を取って男の両手で包み込んだ。泣き止む気配のない妙を慰めたかったのだろう。泣き腫らした妙の顔を、横から心配そうに覗き込む男の姿は子犬のようだ。

「落ち着きましたか」
「……はい。とても」

 ありがとうと言って笑えば男も安心したように笑った。指先からじんわりと広がる熱を感じながら、以前の銀時なら決してこんな真似はしなかったと、妙はこの場に居ない男のことを考えていた。せいぜい面倒臭そうに頭を掻きながら、嗚咽をこぼす妙の唇をその口で塞ぐだとか、そういう強引さで妙の涙を止めたに違いない。
 目の前にいる優しい銀時に目もくれないで、強引で自分勝手で、すけべで、それでもどうしても嫌いになれなかった銀時のことばかり考えている。馬鹿みたいだ。それでもどうしようもなく好きだった。

「記憶を無くす前の僕が、あなたのことをどう思っていたか、今の僕に知る術はありません」

 妙の涙を見て、ふたりが恋人でないことを悟ったらしい男が静かに声を掛ける。

「ただ、一つだけ知ってるんです」

 何を、と妙の言いたいことを先読みして「何も覚えていないはずなのに、貴方の顔を見ると、左ポケットにそれがあると当然のように分かるんです」と彼は立ち上がる。
 こんな話を聞いたことがある。
 知識と記憶の箱は別物で、知識は記憶を失っても忘れないと。
 そして、染み付いた思いが強すぎて、記憶が知識へと昇華されることもあるとも。
 トランクス一枚の男が銀時の着替えをがさごそ漁る。「ほら。やっぱりあった」ズボンのポケットから取り出したリングケースを、男はまるで中身を知ってるみたいに躊躇いなくパカリと開いた。装飾品と縁のない銀時が、リングケースに収まったプラチナの指輪を持ち歩いていた事実に戸惑う。

「貴方のことを本当に何とも思っていない男なら、こんなものを用意したりしない。なかなか言い出せないで、タイミングを失ったとか、そんなところでしょう」

 情けないな、と指輪を見ながら男は眉を八の字に下げる。布団の上に戻って来た男が妙の前に膝をついた。

「出会ってまだ一時間も経っていませんが、僕はあなたが好きです。おそらく元の僕はひどい男だったのに、それを隠して、会ったばかりの僕を悲しませまいとするあなたも、嘘をつけない優しいあなたも僕は好きだ。これ以上、あなたの涙を見たくない。記憶を失う前の僕には、たぶん勇気が足りなかった。でも今の僕は違う。僕にはあなたを幸せにする覚悟がある。婚前交渉の責任を取って、どうか僕と結婚し――あああああッ!」

 突如、男が電撃を浴びたような悲鳴を上げたものだから、びくっと妙は仰け反った。男は高く振り上げた拳で己の頭をガツンと殴りつけると「ふざけんなァァァ!」と叫んだ。
 自傷による鈍痛に顔をしかめてイテテと呟く男は、目と眉が遠くて黒目が小さい、いつもの銀時だった。

「痛ぇなコノヤロー」
「その様子だと戻られたんですね」

 よかったと安堵の息を吐く妙に、ちっとも良くないと銀時が恨めしそうに布団の上のリングケースを見つめた。銀時が頭を殴りつけた拍子に転がったそれから、指輪がコロンと飛び出している。それを銀時の指が慎重な手つきでつまみ上げた。

「そんなさァ人が意識飛ばしてる間にさァ? 俺が準備した指輪だっつうのに勝手に使いやがって、ふっざけんなよもう一人の俺。何コレ? 新しいNTRモノ? 新しい扉開きそうになったわ」

 ブツクサ文句垂れる銀時が、おめーもだ、と矛先を妙に向けた。

「俺以外の男に口説かれんな」
「どっちも銀さんですよ」
「違うだろ。あれは俺じゃねえ別の誰かだ。あの男にプロポーズされて、お前はOKしようとしたのか?」
「うーん、どうだったかしら」
「……なんで悩んでんの」

 悩む素振りの妙に、俺よりあいつのほうを選ぶのかと銀時は青い顔になった。
「だってあっちの銀さんの方が誠実そうだし、すけべじゃないし、顔もなんとなく格好いいし、」指折り数えていくと、突然、妙の手の上から骨ばった手のひらが覆った。するりと指の股を埋めるように互いの手指が絡んで、力強く握り込まれる。

「俺を選べよ」

 妙がドキリとさせられたのは残念ながら最初だけだ。トスンと銀時が額を妙の肩口に押しつけてきて「こっちの俺を選ぶって言ってくれよ。頼むから。お願い」と弱ったような声で言う。ばかなひとね。冗談も通用しないほどに弱気になっちゃって、と妙はくすりと笑った。

「冗談です」

 目と眉がちょっと近くなくても、黒目が少し大きくなくても。

「こっちがいいです」
「ん」

 妙なりに勇気のいる言葉だったのに、なんとまあ素っ気ない返事だこと。そう思って銀時を見ると、今にも泣きだしそうなほど目元が赤くなっていて、妙は何も言えなくなった。
 銀時が指輪をこちらへ近づけてくる。妙はお互い全裸に等しいこの状況をハッと思い出して待ったをかけた。

「あの、お互いこんなだし、かっこつかないでしょう。今日はもう遅いし、後日仕切り直しませんか」
「やなこった。また記憶無くして寝取られたくねーもん」
「そう、それですよ。銀さん、元はと言えばあなたが記憶を無くしたからこんなとになってんですよ」

 なんで記憶喪失なんかになったのよ。責めるように妙がジト目を向けると、あーそれねと思い出したように銀時が言い訳した。

「そりゃあお前、たぶん酸素足らなくて意識ぶっとびそうだったから」
「そんな理由で記憶喪失になってたまりますか」
「なってんだろうが実際! ヤッてる時は必死だったんだよそんくらい!」

 お前も知ってんだろ、と同意を求められて、妙はぶわわっと顔を赤らめた。銀時の情事の激しさを嫌というほど知っているから否定することもできない。

「で、でも……今日だけじゃなくて毎回あんな感じじゃないですか」
「そうだよ。毎回必死なワケ。好きな女抱くのに必死にならない奴なんていんのかよ」

 あ、と。
 ずっと欲しかった言葉が、呆気なく銀時の口から零れたことに驚いて、妙は口を開けたまま、身体をぶるぶると震わせた。
 へたり込むように崩れた正座のまま、妙が布団の上から動けないでいると、妙の左手を銀時が取った。サイズなんていつ測ったのだろう、誂えたように指輪は妙の薬指にぴたりとはまった。指輪ごと指を握り込まれる。泣き止まない妙の手をあたためた、彼と同じ体温だった。

「好きだ。……待たせて悪かった。不安にさせた。お前は酒の勢いだったと思ってるかもしれねーけど、俺は最初からだ。少なくとも俺は最初からずっと、お前のことが好きで、欲しくて、全部覚悟の上で手出した」

 そこんとこ勘違いすんなと念押しされて、勘違いして涙を流していた妙は救われるような思いだった。

「俺と一緒になって」
「はい」
 妙が頷くのを見届けて、よしと頷く銀時の声は、心の底から安心したような響きを伴っている。

「記憶喪失になったのは……私とのことを、なかったことにしたかったわけじゃなかったんですね」
「はああ? バッカお前、変な勘違いしてんじゃねえよ」
「あなたが……っ、いつまでも言葉をくれないから……っ」

 指輪をはめたままの手で妙がぽかりと銀時の肩を殴りつけると、その手首を取られて動きを封じられた。あのな、と呆れたようにため息を吐きながら銀時の顔が近づいた。

「忘れたくても忘れられねーだろお前みたいな女。忘れたいとも思わねーけど。もしまた、さっきみたいに全部忘れたとしても、お前のことだけは、絶対思い出すから」

 指輪に誓うとばかりに、薄い唇が妙の薬指に押しつけられた。緊張しているのか乾いた皮膚の感触がした。
 薬指に唇を押し当てたまま銀時が視線だけ妙に寄越した。さっきの台詞といい、熱っぽい眼差しといい、なんだかデジャヴだ。
 必ずあなたのことを思い出しますのでと言って、妙の心を射止めた、彼の眼差しを思い出す。思えば銀時のことを男性と意識したのはあれが最初だったかもしれない。妙の薬指でプラチナがきらりと光って、すべてのきっかけをくれたあの時の彼に「また会えましたね」と言われた気がした。


'2020.12.31 午前二時過ぎのプロポーズ
'2021.01.10 改訂
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