「妙」
「…………」
「たーえ」
「…………」
「こら。拗ねんなよ」
「拗ねてません」 
「声が完全に拗ねてんだろーが」

 拗ねているのではなく落ち込んでいるのだ。
 そこを履き違えないでほしかった。
 いつまでもベッドの上でむくれていると、そんな妙の様子を見かねたのか、隣に横たわる銀八が手を伸ばして頭を撫でてくる。本当ならその手を跳ねのけてやりたいくらいだけれど、いまは黙って受け入れるしかない。理由は単純、腰がだるくてたまらず、指先一本さえ動かしたくないからだ。関節の至るところが軋みを上げている。もしも自身の体力メーターが目に見えたなら、きっと真っ赤で1ドット程もない状態だろうと思う。ゲーム用語に馴染みのない妙だがRPGの知識くらいは持ち合わせていた。
 全身がひどい様相を呈しており、その元凶たる男に頭を撫でられている状況で、志村妙はふと考える。
 こんなに近くで銀八と話すのは、学校以外では久しぶりではないか。しかもベッドの上で、頭を撫でられている。状況だけ見るなら仲睦まじい恋人たちの姿だし、事実ふたりは恋人だった。
 ずっと楽しみにしていたシチュエーションであるはずなのに、素直に喜べないでいる自分はおかしいのか──否である。ぜんぶ悪いのは銀八なのだ。



 一人暮らしの銀八の家を妙が訪ねるのは今日が初めてのことだった。
 アパートの部屋の前で出迎えてくれた銀八に促されるまま部屋へあがらせてもらうと、背後でサムターンの回る音がした。

「たえ」

 耳のすぐそばから情欲に塗れた男の声がした瞬間、思いきり抱きしめられた──後から理由を聞いたら「自分の家に彼女が来た状況がたまらなくなった」らしい。
 この男ときたら、堪え性がないものだから、抱きしめて拒否されなかったことに気をよくして玄関で好き放題した挙句、腰を抜かして座り込んでしまった妙を抱え上げると雪崩れ込むようにしてベッドへ直行したのだ。
 はじめこそ、お日様の明るいうちから性急に身体を求められることに困惑と抵抗を示していたものの、非常に困ったことに、銀八は「そういうシチュエーションのが逆に燃える」タイプなのだ。鳴かぬなら鳴かせてみせよう何とやらの精神を存分に発揮した銀八はそれはもうすごかった。
 気の乗らない妙をどうにかして快楽に引きずり込まんとする指や舌に誘われて、銀八のにおいがするシーツの上で意識から骨の髄まで身体中をどろどろに融かされてしまえば、何度目かの絶頂の末に、ほとんど気絶するように眠りに落ちた。
 自分が先生宅に訪問したのは昼過ぎだと妙は記憶しているが、目を覚ました頃にはカーテンの外はすっかり日が沈んで深夜近くになっていた。
 お陰で、彼氏の家に初めての訪問という一大イベントが台無しになってしまった。

「……ほんとうは、」
「ん?」

 ぽろりとこぼれた思いを聞き逃したくないとばかりに、頭を撫でる銀八の手が止まる。妙の顔の近くまで覗き込まれる。

「予定を立てていたんです。部屋が散らかっていると聞いていたからお掃除を手伝いたかったし、一緒にお夕飯も作りたかったのよ。それから、借りてきた映画を観たりして、まったり過ごしたかったのに」

 銀八はわりと忙しい身だ。休日に学校に出向くこともあるし、自宅でテストの採点や教材作りに一日費やすこともあると聞いた。学生である自分だって週末は小テストの準備や課題に取り組まなければいけない。お互いにタスクを調整して何とか捻出できたのが今回の週末だ。これを逃したら、お家デートに適したタイミングなど中々やってこないだろう。
 なのに、それなのに。
 部屋に入ってベッドに直行したら、貴重な一日が終わってしまったなんて。
 思い返すほどに残念な気持ちになって、妙はすっかり項垂れてしまう。それを見た銀八はひどく申し訳なさそうな顔をしたあと、ああと何かを思い出したように呟いた。

「そうだ、アイスあるけど食う?」
「気分じゃないです」
「まーまーそう言わずに」
「言っときますけど私、そんなので絆されませんから」
「ダッツもあるけど」
「…………何味があるんですか」

 妙が纏っている不機嫌オーラがほんの少しだけ薄まったことに気付いた銀八が、安堵にも似た息をふっと吐く。

「何味買ったっけかな」
「あら。ボケが始まったんじゃないですか」
「うるせーわ。……味は忘れたけど、とりあえず目についたやつ適当に買った気がする」
「そうですか」

 どうせなら自分でフレーバーを選びたいと妙は思い立ち、ベッドに肘をついて慎重に起き上がる。相変わらず節々は痛いが何とかいけそうな気がした。
 ずるっ。
 ずてん。
 ベッドから抜け出そうと腰を浮かしたが、生まれたてのゴリラもかくやの震える膝では立つこともままならず、冷たいフローリングの床に尻を強かに打ちつけた。

「…………あー」
「…………」

 なんと言って励ましてやればいいのか逡巡する相手の気持ちが痛いくらいわかってしまう。間抜けな姿を曝したことが恥ずかしいのと非常にお尻が痛いのとで妙は半ば泣き出しそうだったが、長女なのでなんとか耐えた。

「俺が取ってきてやるからオメーは休んでたら?」
「いいです! 自分で選びますから!」
「いや、志村が頑張り屋さんだってことはさァ俺もう十分わかったから、大人しくしてくんない。怪我されても困るし。頼むから、アレ、ねえ、聞いてる?」

 背後から聞こえる声は無視して、一人で立ち上がろうと躍起になる。
 足腰を使い物にならなくした張本人に頼る気はないと、妙がたまに見せる変なプライドが邪魔をしたために、さらに四回ずっこけるはめになった。


*


 最後には銀八に手を引いてもらうことで妥協し、二人して一人暮らし用の手狭なキッチンにやってきた。

「ほら、これやるから機嫌直せよ」

 冷蔵庫の冷凍室にしまわれた大量のダッツを見せられたら、……何だかもうすべてを許しそうになった。

「先生ったら、物量でなんとか許してもらう気でしょう?」
「要らねえなら俺が食うけど」
「誰も要らないなんて誰も言ってないじゃないですか」

 どんなに銀八が憎かろうともアイスに罪はない。ありがたく頂戴することにして、季節限定のフレーバーのカップを一つ選んだ。誰も足を踏み入れていない雪原を思わせる平面のひとかけを、スプーンに掬い上げてぱくりと頬張った。あまい。学生ゆえに滅多に食べることのできない高級な甘さが、いろいろな意味で疲労した体に染み渡るようだった。

「俺があんだけ撫でてもずっとむくれてたくせに、ダッツいっこで機嫌めちゃくちゃ良くなってんじゃねーか。物で釣った俺が言うのもなんだけど、お前ちょろすぎじゃない?」
「…………」
「えっ。無視?」

 味わうのに忙しいので妙があえて返事をしないでいたら、拗ねさせてしまったらしい。銀八は無言で冷凍室からあずきバーを取り出すと、しゃりしゃり食べ始める。大量のダッツにばかり気を取られていたが、銀八の家には安価な氷菓子も備蓄されているらしかった。

「先生は今食べてるあずきバーとか練乳いちごみたいな、和風な氷菓子を好むと思ってました」

 思ったことがそのまま口からついて出た。「ダッツもよく買われるんですか」と聞いたら、まさか、という顔を銀八がする。

「んな訳あるかっての。スーパーで見つけて、お前が食べると思ったから買った」

 平然と言われてしまえば、何も返せなくなる。妙を喜ばせようという魂胆もあったかもしれない。けれど、スーパーで発見したアイスから自分のことを連想してくれたのが純粋に嬉しかった。
 照れているのを悟られないように、黙々と食べ進めていると、突然妙はぐいっと肩を掴まれて銀八の方へと顔を向かせられた。目と目が合う。銀八の顔から下へと視線を動かそうとして、やめる。
 不自然なほど視線を急カーブさせて明後日の方角を見つめる妙に対して、くく、と銀八が喉で笑う声が深夜のキッチンに響いた。

「ずっとこっち見ねーなと思ったら、やっぱりわざとか」
「だって……先生がそんな格好でいるからです」

 ぽつんと点灯するキッチンの蛍光灯の下、(顔に似合わずと言ったら失礼だろうが)意外にも筋肉質な胸板が無防備に晒されている。普段じっくり見る機会がないので、その厚みにどきりとした。
 真正面に立たれると、銀八がどうしようもなくただの男性であることを自覚すると同時、相対的に己がどうしようもなく女の体なのだと思い知らされる。一応、銀八は下にボクサーパンツを履いているのだが、臍から下映えにかけてのギリギリの境界線をばっちり見てしまった妙は赤面し、視線をどこに向けたらいいか分からないでいる。

「こんな格好させてんのは誰だよ」
「わ、私ですけど……」

 ベッドから抜け出そうとした時に妙の着替えが見つからないので、近くにあった銀八のシャツをこれ幸いとばかりに上から被ったのだ。何も身に着けていない体で他人の家をうろうろするのは御免だ。
 妙が奪ってしまったために銀八は上半身裸なのだと一応は説明つくけれど、そもそもここは銀八の家である。替えなどいくらでもあるだろう。ではなぜ銀八は別の上着を着ないのか。塾考する時間も無駄なほど、答えは分かりきっている。
 妙が恥ずかしがるからだ。

「というか、先生の方こそ……」
「俺がどうしたって?」
「あんまりこっちを見ないでください」
「いや見るだろそりゃ」

 銀八の上半身付近から目を逸らしているから彼が実際どんな表情をしているのか、妙には判断つかないが、ニヤニヤと厭らしく笑っているのだろうと思った。そういうところが本当に性根が悪い。
 見られていることに意識が向いた途端、借り物のシャツの合わせ目が気になりだす。布一枚の下は何も身に着けていないので、当然ながら素肌に直接触れる布地の感覚がむずがゆい。もじもじと恥ずかしくて俯いていると、妙の手元がまったく動いていないことに銀八も気付いたらしい。

「もう食べた?」
「あ、はい」

 ご馳走様でした、と言う隙に空のカップとスプーンを取り上げられる。

「あっ、」
「もーいいだろ。そろそろこっちの相手もして」
「も……?」
「アイスとばっかキスしてんじゃねえよ」

 先生がこれを食べて機嫌直せと言ったんじゃないですか。
 ていうか無機物相手に嫉妬なんて馬鹿ですか。

「ん、んんっ!」

 文句を告げる前に言葉は呑み込まれて、口の中のアイスの残りを探しているみたいに咥内の至るところを舐め回してくる。信じられないほど甘い声が己の鼻から漏れた。じゅっと舌を吸われながら、ああ、と気がつく。
 この人はアイスに嫉妬しているのではなくて唇に触れる口実が欲しかっただけなのだ。
 舌と舌の触れ合う境目が溶け合い、呼吸さえも奪われてるような錯覚を覚えてきた頃、元々限界だった足腰が支えていられなくなる。銀八に寄り掛かるように体を預けると、妙の着ていたシャツの下を無骨な手がまさぐりはじめる。
 肩で息をしながら、これはまずいぞ、と妙の中で警鐘が鳴る。
 これ以上はまずい。また繰り返してしまう。
 玄関で好き勝手された数時間前の自分と、同じ結末を辿るのが見えた。
 妙がふるふると首を横に振るけれど、甘く低く擦れた声で「ここでするのとベッド戻るのとどっちがいい?」と囁かれたら、思わず首の動きを止めてしまった。
 どちらの選択肢も同じではないかと睨みつけてやれば、「ひっ!」シャツの中身を縦横無尽にまさぐる指が不意に胸の飾りを掠めて、甘い痺れが波紋のように広がり全身が大きく跳ねる。

「ッ、はッ、ベッド。……ベッドが、いいです」
「よしきた」

 急に肌寒さを感じたことに気付く。借りたシャツが銀八の手によって剥ぎ取られて、寝室に続く廊下に落とされてしまったのだ。銀八が妙の体を支えてベッドに戻ろうとするので、熱にうかされた思考が今この瞬間だけ明瞭になものとなった。
 シャツまでキッチンに置いていかれたら、次に起きたとき自分は何を着たらいいのだろう。

「あのっ、……はぁ、待ってください。ん、……私が着ていた服と下着は、結局どこいったんですか」
「しらねーよ」
「先生が脱がせたんじゃない」
「朝になってから探せばいいだろが」
「下がスースーして寝られないんです」
「じゃあ寝なきゃいいだろ」

 朝までヤってもいいけど、などと教師にあるまじき発言をするので頭が痛くなった。学生は睡眠不足に気を付けなさいと保険だよりにも書いてあるのに。もう眠いのに。体力どうなっているんですか。寝室へと確実にじりじりと距離を詰めつつ、銀八から啄むようなキスをされるたびに、言うべき言葉が炭酸の泡のようにぷつぷつと浮かんでは消えていく。
 気付けば、ベッドの上に転がされていた。

「他に言うことは?」
「…………あんなにダッツがあるんですから、先生にも一個あげてもいいですよ」
「一個だけかよ」

 負け惜しみのように妙が言えば、困ったような、それでいて愛おしいものでも見るような目を銀八が向ける。
 かわいくねーな、と言って笑う顔がすきだと思う。
 楽しみだった週末の計画をめちゃくちゃにされたって、その気持ちは変わらないのだから、どうしようもない。
 残された週末の時間で何をしたいかを考えた時にまずはアイスを一緒に食べたかったし、ビデオ屋さんで借りた映画だって今度こそ観たい。しかしまずは服の行方だろうか。せめて下着はつけさせてほしい。
 あの時、自分のパンツはどこで脱がされたのか。
 恥ずかしい記憶を必死に思い出そうとしたが、考え事を許さないとばかりに次々と降り注ぐキスの甘さに気を取られて、最後にはパンツのことなど忘れてしまった。



'2019.12.11 たぶん玄関あたりに落ちている
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