いつまでそこにいる気かしら、といい加減呆れたくもなる。
 洗濯物をつかんだままの手を止めて、妙が後方を一瞥すると、縁側にぼうっと突っ立っている銀時の姿が視界に入る。
 洗濯物を干すためにサンダルを引っ掛けた自分が屋外に出た時から──もうずいぶんと長いことそこに居て、庭先にいる妙をじっと見つめている。
 用があるなら銀さんのほうから声をかけてくるでしょう。最初はそう考えて放っておいたのだが、待てど暮らせど話しかけてくる気配が一向に無いから困ってしまう。
 向けられる視線は男女間の色っぽいそれとまったく別物だというのも余計たちが悪い。仮に、男がこんな真っ昼間から不埒な行為に及びたくて熱視線を送って来ようものなら即刻しばき倒していた。
 実際には、今この瞬間も銀時から妙へ注がれる視線には下品さも無ければ、濡れた夜の気配も微塵と感じられない。どこか生ぬる温度をした"それ"に、あえて名前を付けるなら「憧憬」だろうか。いずれにしても、どんな感情が視線に伴っていようが、ずっと見つめられている方はたまったものではない。ぴしぴし頬に刺さるそれを素知らぬ振りでやり過ごしていられるのも、そろそろ限界だ。
 何がしたいのかしら、アレ。
 新手の嫌がらせ?
 何かを咎められている?
 あの男が一体いま何を考えているのか、妙にはさっぱり分からないでいる。

(もしかして、そういうプレイなのかしら?)

 ハッと思い至ってから、すぐに首を振って否定した。
 プレイとは何なのだ、プレイとは。
 近頃なんだか思考がいやに下品な方向にいくからいけない。
 いやだわ、きっと銀さんのが移ったのね。夫婦は一緒に過ごしていると、段々と言動まで似てくるって言うし────そう結論づけて、それからやや時間差をおいて、「夫婦」という単語に勝手に熱くなった頬を銀時に見られないよう手で覆い隠した。

 結局、洗濯籠に詰め入れた衣類やシーツをすべて干しおわる頃になっても、振り返れば先刻と変わらぬ場所に、銀時は相変わらず突っ立っていた。動いた形跡が一ミリもないので、いっそ目を開けたまま寝ていると説明されたら信じてしまいそうだ。
 ちょうど洗濯物もなくなったことだし、話しかけるなら今このタイミングだろう。
 行きと比べると帰りはずいぶんと軽くなった洗濯籠を両手に抱えて、妙は銀時のいる縁側へと近づいた。

「銀さん。何かご用ですか」

 軒下に立つ銀時と庭の地面に降り立つ妙とでは目線がだいぶ違う。
 ふたりの身長差も関係して、妙はほとんど見上げるように銀時と目を合わせた。

「じっと見てないで、何か仰ったらどうなんです」

 銀時の目がゆっくり二度三度と瞬きする。話しかけられるまで妙が近くに来ていることにまるで気付いていなかったかのように、銀時は惚けた顔でこちらを見返した。

「お前、なんでそんな不安そうな顔してんの?」
「え。私、そんな顔してますか」
「してる、してる」
「だって……。じゃあ聞きますけどね、ひょっとして私、気づいてないだけで銀さんに怒られるようなことしました?」
「してねえけど。なんで?」
「だって銀さんったら何も言わないから、怒ってるんじゃないかしらって思ったのよ。穴が空いてしまうんじゃないかってくらい、こっちを見つめていたでしょう」
「あー、別に。俺は怒ってもねえし、呼びつける用があったわけでも……」

 そこまで言いかかって、銀時が口を覆った。

「いや、悪い。やっぱりあるわ、用事」
「銀さん?」
「な、ちょっと、それ退かしてくんない?」

 頼むような口振りのくせに返答を待つ気はさらさら無いらしい。「わっ」いきなり目の前に銀時の顔が現れたので驚く。向こうが近づいてきたのではなくて、自分が引き寄せられたのだと気付くのに時間がかかった。
 土足であがっては廊下を汚してしまうと思考が働いたのは我ながら褒めてやりたい。腕を強く引かれ、体勢を崩しながらも敷石にサンダルを脱ぎ捨てることに成功する。
 倒れ込むように庭から縁側へ上がった妙を銀時が抱き留めた。せめて何の用かを明かしてから行動に移してくれないかしら、と力強い腕の中で妙は思った。
 抱えていた洗濯籠が取り上げられて、邪魔だと言わんばかりに銀時の手ずから乱暴に放り出される。カランと音を立てて、洗濯籠が廊下を転がった。

「ちょッ、と! 壊れてしまったらどうするの」

 睨みつけようとして、失敗した。
 妙の鼻頭が銀時の肩口とぶつかり息が止まったからだ。
 睨みつける相手の顔を見失い、しかたなく目線だけで洗濯籠の行方を追った。幸い、傍目から見た限りでは傷ひとつなさそうで安堵する。大事な家財道具なのだから、丁重に扱ってほしいものだ。
 妙がそちらに気を取られていたのを良いことに、いつの間にかお互いの体同士に隙間ができないくらい密着させられている。これが狙いだったのかと今さら気付いても遅い。
 ぎゅうぎゅう抱きしめてくる両腕をどう扱ったらいいものか、妙は少し考えてから、そのままにしておくことにした。洗濯籠を雑に扱われた恨みがあるので、そう簡単には背中に腕を回してやらないけれど。

「ひょっとしてお疲れですか」
「……俺まだ何も言ってねーんだけど」
「なんだか最近の銀さん、上の空みたいですから」

 ぎくりと効果音がつきそうなほど露骨に狼狽えてみせるから面白いったらない。
 上の空という自分の指摘はどうやら的確だったらしい。
 今日みたいに銀時が妙をじっと見つめてくることは、まだ始まってそう長くない新婚生活を掘り起こしてみると今までにも何度かあった。
 朝、起床してふと布団の横を見ると寝起きの銀時がこちらを見つめていた時は特に驚いた。起きていらしたなら声をかけてくださいなと言えば「あー、うん」と心ここにあらずな返事をして、何を考えているのか読み取れない顔で、妙の左手の薬指に嵌まった銀色を手持ち無沙汰に弄んでいたのは妙の記憶にも新しい。
 食卓でふたり両手を合わせていただきますをする時、事務所へ向かう銀時を玄関先で送り出す時、たまたま仕事帰りに出くわしてスーパーから家路につくまでの道すがら妙の方から手をつなぐ時──そんなとき決まって銀時は何も言わないで、じっと妙の横顔を見つめてくるのだ。
 あの時の銀時の表情を、何に例えたらいいのか分からない。強いて言うなら、スナックお登勢で働く家政婦の彼女がデータを読み込んでいる時の表情に近い。無機質な目に反射した愛しいものやひとを回路に焼きつけようとしている時、はたまた、頭の記憶を浚って宝物のような記憶たちをひとつずつ取り出している時の顔だ。
 そんなふうに銀時が近頃ぼうっとしていることが増えた原因を、妙は疲労からくるものではないかと考えた。秋風吹き荒ぶこの時期、最近雨続きだったし、季節の変わり目になると人間はどうも体調を崩しやすい。さっきの銀時の反応を見た限りでは、上の空だったことに対しては当人も自覚があるようだが、肝心の原因については予想を外したようだった。

「いやいや違うから。三十路の体力なめないでくんないオネーサン。俺は変わらず元気ですぅ」
「だったらこの状況はなんですか」

 ここまで弱りきった姿を見せておいて、それでもまだ虚勢を張る銀時に呆れてしまう。一回り年下の嫁にらしくもなく甘えているこの状況を見たら、男が疲労困憊で体調不良を訴えているのかと案じたくもなる。幸いにも杞憂だったようだが。

「それはだ、あー、つまり、俺は常々思ってるわけよ。夫婦間においていちばん大事なことってやっぱスキンシップだと思うんだよね、うん。だから俺は今こうして家事を終えたお前を労わるついでに積極的にスキンシップを取っているわけだ」
「はあ。わたしのことはどうぞお気遣いなく。銀さんのおっしゃる用事がこのことだって言うなら、早く離れてくださいな」
「えっ」
「銀さんはお疲れではないんでしょう。私もまだまだ元気ですし、スキンシップもじゅうぶん間に合ってますから」

 すげなく言うついでに、ああ、と思い出したように続ける。

「そういえば銀さん、お昼から仕事が入ってるんじゃないんですか?」
「あ、それは」
「こんなところで油を売っていて良いと思ってんですかコラ」

 何も言い返せなくなった銀時がぐぅと唸った。普段ならここで諦めた銀時が仕事に行くか、妙を抱擁から解放するかして話は終わるはずだった。
 けれども今日の銀時は動かなかった。離してくれと言っても、妙を抱き寄せる手も変わらずそこにあった。

「それで?」
「で、ってなんだよ」
「本当は何がしたかったんですか、銀さんは。別に教えてくれたって減るものじゃないでしょう。急に抱きついてきたり、家事をしている私を視姦したりして、一体何が目的なんですか」
「オイ言い方」
「はいはい、そういうプレイじゃないんですよね。わかっていますよ。でも、これ以上、嘘っぱちの言い訳を重ねるつもりなら、今すぐ仕事に行ってもらいますから」

 銀時の仕事の時間まではまだ余裕がある。だからすぐにでも家から追い出すような真似はしないが、すべては男の態度次第だ。
 素直にならないなら薙刀を取り出すことも辞さないと言えば、諦めたように銀時が重々しい口を開いた。

「ここからだと庭が見えんだろ」

 密着していた体が離れて、名残惜しさが過っていった。スキンシップは間に合っていますとたった今言ったばかりなので、自分から強請ることもできず、もどかしい。
 銀時が指差す方向を一緒に見る。
 低い植え込みと物干しがぽつんとあるだけの殺風景な庭が広がっていた。洗濯したばかりの白いシーツや着流しが風にはためいて音を立てている。

「こっからお前を見てたんだよ」
「ええ。知っていますよ」

 あれだけ熱心に見つめられていたのだ。気づかない方がおかしいだろう。

「だから、なんだっていうんですか。答えになってないわ」

 尋ねたのは自分をずっと見ていた理由のはずだと指摘してやれば、ばつの悪そうな顔になって、銀時の眉間にみるみる皴が寄っていく。

「いやぁ……だからさあ、アレだよ。わかんない?」
「アレだのコレだの言ってたら分かることも分かりませんよ。ちゃんと説明なさってください」

 歯切れの悪い相手に対しては、とことん強気に出るべきだというのが妙の持論だ。「ここまで言ったなら最後までおっしゃい」「さあ早く」「おら言えよコノヤロー」と段々脅迫めいた台詞になっていけば、銀時も観念したのか、逸らされていた視線がようやっと妙に向けられた。

「すっごい馬鹿みてーな質問するんだけど」
「どうぞ。呆れませんから、言ってごらんなさいな」
「じゃあ聞くけど」
「はい」
「お前って、ホントに俺のもんだっけ」
「はあ、…………はあぁ?」

 一度目は、何を言われたのか分からなかったので。
 二度目は、投げかけられた質問があんまりにも唐突で大胆だったので。
 妙の思考がしばらく停止する。
 ようやくかかって意味を理解することができた頃、無意識に胸元へ引き寄せた両手で心臓を上から押さえつけた。

「あー、だから。つまりだな……」

 訪れた沈黙に耐えかねた銀時が言葉を続けるのを、妙は何も言えずに見守るしかできない。

「庭で洗濯物を干してる背中とか。ほら、あとは朝起こしにかかる声の甘さだとか。そういうの、全部。いくら見てても、いつも聞いてても、ぜんぶ俺のもんだと思っていいのか、わかんねえんだわ」

 質問の衝撃からいまだ立ち直れないで、それでもなんとか思考をかき集めて言葉の意味を理解しようとしている。
 混乱する思考の片隅で、庭で感じていた銀時から自分へ向けられる視線の温度を思い出していた。

「まだ信じらんねえのかもな」
「銀さん。信じられないって、それはどういう意味ですか」
「…………俺がお前に訊いてんだろーが」

 質問に質問で返すんじゃないよ、と銀時がうめくように言う。
 最初の質問の返事を急かされた妙だったが、どうにも唇はうまく動いてくれない。
 まさか、お前は俺のものかなんて質問が来るとは、考えてもみなかった。
 わかりやすく動揺しているのが相手にも伝わったらしい上に、銀時自身も己がなにを口走ったのか今やっと理解したようだった。うわ、と声を上げる。

「アレ、なんか恥ずかしいんだけど。何これ、何この状況。なんで俺こんなことになってんの? 俺になんてこと言わせてくれちゃってんのお前は?」
「言わせたって言い方はよくないと思うんですけど。そもそも今の状況ぜんぶ銀さんがキッカケじゃないですか」
「あーあー! もう知らねえ、俺は知らねえから!」

 一度は離れたお互いの距離が再びゼロになった。何を言っても不利になるとわかった途端に、相手に抱きついて黙秘を決め込むなんてまるで子供のようだ。しかも図体は大の男のひとだから、余計扱いに困って面倒くさい。それでも、そんな男の態度すら可愛く思えるのだから自分も相当重症だ。これが惚れた弱みというやつなのだろう。
 二度目の体温を受け入れながら、銀時の顎が妙の肩に乗った重みがいとしくて、くすくすと思わず笑い出したくなる。

「重いです」
「お前も俺に乗っかったらいいだろ」

 どういう理屈だと思いながらその言葉に従って、妙も銀時の肩に頭を預けた。重いと言ったのは照れくささから自然にこぼれ出たもので、実際はちゃんと銀時は力加減をしてくれていた。
 洗濯籠の件はまだ許していないが、今度こそ妙は銀時の背中に手を回してやることにした。
 妙の着物は陽のひかりを吸い込んであたたかいのに対し、屋敷のひさしの陰にいた銀時は日差しの恩恵を授かれないため触れるとすこし冷たい。おずおずと妙が腕をまわした背中はひんやりと感じられて、目映い白の着流しは体温の高い妙の指先にやわらかく馴染むようだった。
 心なしか、さっきより抱きしめるときの強さが違う。男の手のひらが、頬にかかる髪が、体温が、本当はもっと早くにこうしたかったのだと叫んでいる。
 庭先に立つ妙を縁側から見つめていた時も、こうして今みたいに抱き締めてしまえたら、と思っていたのかもしれない。
 妙が洗濯物を干している間、そばに近寄らないで手も伸ばさないで、遠目から見つめているだけしかできなかった男の心情はどんなだったろう。触れたいのに、触れられない。妙が自分のものかどうかわからないから、触れられない。

(そんなに心配しなくてもいいのに。)

 まだ信じられない、と。
 男は確かにそう言っていた。

「私はあなたのものですよ」
「…………え?」
「さっきの質問の答えです。自分から聞いてきたのにもう忘れてしまったのかしら」

 自分が何を質問したのか忘れているなら、いつかの記憶喪失の時みたいに脳外科医に見てもらったらいいのだ。

(わたしが誰のものかだなんて、そんなの決まっているわ。)

 何をされてもいい。好きにしてくれていい。すべてを委ねてもいいと思える相手くらいにしか使わないような、最上級の殺し文句。
 自分は貴方のものだ、なんて。
 それを告げることを許しているのは、銀時が相手の時くらいだ。

「それ、もっかい言ってくんない?」

 すっごい元気になるから、と銀時が付け加える。
 まったく調子がいいんだからと妙は大げさに肩をすくめる。
 告げるのにも意外と勇気がいるのと恥ずかしいのと色々な理由から、二度目の殺し文句の出番はなさそうだ。あと、ただ単に銀時のペースに乗せられるのが癪だというのも理由だ。

「さっき銀さんは、信じられないって言いましたよね」
「ああ、言った」
「じゃあ私たちが今こうして触れあっていることも、まるで軌跡みたいなふうに思って話してるんですか」
「……そうなんのか?」

 そうかもしれない、と不確かな返事をよこす。自分の感情でしょう。ちゃんと責任持って管理してほしい。
 もしも銀時の言葉通りなら、妙はひどく困ってしまう。奇跡みたいな日が毎日続いたら、それはもう日常と変わらないのに、銀時はずっといつかは醒める夢の続きのように考えているということになる。

「これが日常なんだってこと、早く自覚なさってくださいな。私たちが結婚してから二週間が経つんですよ」
「まだ二週間?」
「もう二週間です」

 ああ、と思わず口をついて出る。
 こんなところでお互いの認識の相違を知るだなんて馬鹿だ。

「二週間も経つんです。そんなに時間が経ったというのに、私との結婚が信じられないってどういうことですか」
「そーだね、ホントそうだね。何やってんだろうね」

 まるで他人事のように銀時がぼやいてみせるので、妙はカチンときた。こちらが真剣に話しているというのに、その言い方はなんなのよ。思わずそのクルクル頭を引っ掴んで振り回してやろうとして妙が手を伸ばす寸前、銀時が言葉を続けた。

「手に入れんのに苦労しすぎて実感がわかねえんだよ」

 妙を抱き込む体勢を崩さないまま、銀時が苦笑まじりの吐息をつくと、ぬるい温度が首筋に触れる。くすぐったくて妙は小さく身じろぎを返した。
 手に入れるのに苦労したと言ったか?
 あんまりにもさらっと言い放つものだから聞き逃してしまうところだった。
 思わずバッと体を離して顔を見合わせれば、気まずい、と書かれた顔とぶつかった。

「苦労してくれたんですか?」
「まーな」
「そんな気配、ちっとも見せなかったのに」
「見せたらもっと簡単に手に入ってくれたのかよ? そんなタマじゃねえだろーがお前は」

 ストーカーだのシスコンだのやたら難易度設定の高いお前を攻略するのに俺がどんだけ苦労したと思ってんの、などとブツブツ言う銀時を、意外なこともあったものだと妙はおっかなびっくり見つめた。
 自分はただの小娘で、いつだって余裕綽々の男に翻弄されているばかりだと思って過ごしてきた。

「だってよ、これは仕方ねーよ。仕方ないわこれは」
「いやだ、何をひとりで勝手に納得してるんです」
「喉から手が出るほど欲しいと思った女が、朝起きたら家中てきぱき動き回ってんだよ。そんで、顔洗って来いとか飯ができたとか言うし、家出るときは玄関で手振ってくれて、帰ってくれば笑って出迎えるしよ。……え? 何これ、現実? 夢じゃねーのかっていまだに疑っちまうんだよ。馬鹿みたいなことしてるって言いたいんだろ。わかってんだよ、んなことは。けど、仕方ねーだろ。そうなっちゃったんだから。俺はここ最近、どうしたらいいかホントわっかんねえ」

 自分はとんでもない蓋を開けてしまったのかもしれないと、銀時の話を聞きながら妙は考えていた。
 妙が想像していたより百倍、億倍、とんでもないものを銀時は抱えて二週間もの結婚生活を過ごしていたようだった。
 色々と申し立てたいことはあったけれど、いちばん言いたいのは、奇遇なことに、銀時の悩みは実のところ妙にも身に覚えがあるぞということだ。
 銀時の言うその「どうしたらいいかわからない感覚」とやらは、妙にもごくごく身近なものだった。


 迎えに来なくてもいいと事前に言いおいて、遅番の日は一人で帰宅する。まだ朝日も昇りきらない暗闇の中、できるだけ静かに布団に潜り込むように努める妙の気遣いも知らないで、わずかな気配に気づいた銀時が落っこちかけた瞼をひらく。妙が隣で寝ている時以外の、男の眠りの浅さにはいつもびっくりさせられる。

「おたえ」

 宵闇の中で、とろんと惚けたような声に呼ばれる。寝惚けた状態のこの男はたちが悪い。声が甘すぎるのだ。

「起こしましたか」
「ん」

 否定とも肯定とも取れない返事だ。実は起きて待っていてくれたのかもしれない。そうだったら申し訳ないなと考えていると、不意に腕を引っ張られた。二組敷いてあるのに、男と同じ布団へと導かれる。
 やわらかい髪質の頭が目と鼻の先まで近寄ってきて妙の瞼に口づけをひとつふたつと落としていく。
 おかえりという声にただいまと返す。そうして眠りに落ちて、次に目覚めたらおはようを言い合う。
 そういう幸せを、妙は知っている。
 この男だって知っているはずだ。
 

 
「とっくに手に入れたものを自分のものか信じられないなんて、ただの馬鹿だと私は思うんです」
「もう少し言い方ってもんがあるんじゃないの」
「馬鹿は馬鹿としか言えないでしょう」

 ぴしゃりと断言してやければ何も言い返せなくなったらしい男は「はい」と大人しく頷く。よろしい。
 要するに、と妙はここで一つの見解を下すことにする。
 このひとは信じられないのではなくて、ただ慣れていないのだろう。さらに言えば、慣れることを拒んでいる。
 妙は銀時との口喧嘩の延長で「きっとこれまで爛れた恋愛ばかりして来たに違いないわ」と言い放つことがあった。銀時から一度だって否定されたことはないので、あながち間違いでもないのだと思う。
 妙よりも十年も長く生きているくせ、愛の慈しみ方ひとつ知らない。そんな男がいるのか。いるでしょう今まさに目の前に。自問自答して頭が痛くなる。

「でもね、銀さんの言いたいことも分かりますよ。私だってね、銀さんと結婚してから信じられないと思うことの一つや二つありますから」
「そーなの?」
「ええ。たとえばね、真昼間から廊下で寝そべる銀さんを見ている時なんかに、これが私の旦那さまだと思うとなんだか情けなくって仕方ないんです」
「いやそれ違うよね。俺が言ってるのとは明らかに違うやつだよね。信じられないって言うか信じたくない系のやつだよねオイ」
「あら違いましたか」
「お前それわかって言ってんだろ!」

 冗談だよなと確認してくる銀時の顔色は青い。からかい甲斐のある反応をされると妙も大満足だった。
 これから大事なことを言うために、できるだけ会話を明るいものにしたかった。

「後悔はしてませんよ」

 それだけは勘違いされてはいけないので、ちゃんと告げておかねばならない。

「私、しあわせですもの。銀さんは後悔してるんですか」
「んなこと言ってねえだろ」
「そうでしょう」

 ええ、本当に。そうでしょうとも。もしも後悔してるなんて言おうものなら、弟や姉御と慕ってくれる少女、知り合いその他大勢にチクった上で離婚もかくやのリンチが始まる。そうならなくて本当によかった。

「後悔しているわけではないなら、早く私との結婚生活を実感してくださいな。まあ、それでも。どうしても信じられないって言うなら、手っ取り早い方法がありますけど」
「……へえぇ? どんな方法?」

 銀時が期待の眼差しを寄こすのに対し、にこりと笑顔を返す妙が右手で拳骨をつくる。

「ちょ、ばっ、何しようとしてんだ!」
「ガツンと一発ぶん殴ってやったら、少しは私と結婚した自覚ができるんじゃないかと思って」
「それで自覚できんのは痛みだけだから! 痛み以外の何も生まないから!」
「ショック療法です」
「荒療治にも程があんだろォォ! 家電じゃねえんだから、ただ一発殴っとけば解決すると思ってんのかお前は、つーかどっちかっていうと俺ァ別の一発がいい、ッッッでぇぇ!」

 空気を読まないで最低なことを言う男に制裁の拳を振り下ろしてやると骨が軋む良い音が鳴った。
 いでで、と銀時がうめき声をあげる。若干涙声だった。

「アレ? なんか怒ってる?」
「当たり前でしょう」

 察するのが遅すぎて、今度はその鼻っ柱を叩いてやろうかしらと思い立つけれど早々に諦めてしまった。男のこういうところは結婚する前から思い知っていた。

「別に銀さんが悪いわけじゃないのよ。私が勝手に私に怒ってるだけですから」
「オイそれ八つ当たりじゃねーかよ」
「そうですよ八つ当たりよ」

 フンと鼻を鳴らして開き直る。八つ当たりで何が悪い。
 妙に打ち明けるまでに二週間という時間を必要とした銀時に腹が立つ。
 それ以上に、今日まで銀時の心情に気付いてやれなかった自分に対してもっと腹が立つ。

「怒りの鎮め方がわからないんです。やるせなくて、悲しくって仕方ないのよ」

 てっきりもう、二人で幸せになれたものと思っていたから、やるせないのだ。今になってこの結婚が信じられないなんて言われて、妙はどうしたらいいのか分からない。

「銀さんには、早く私の旦那様だって自覚を持ってもらわなきゃ困ります。なぜって、これじゃあまるで私一人が新婚気分で舞い上がっているみたいじゃない。さみしいんです。あなたを置いてけぼりにしてしまうみたいで。せっかく結婚したんだもの。二人で幸せになりたいと思うんです」
「おい、」
「泣いてませんよ」
「まだなんも言ってねえのに。この強情め」

 ほら、と涙が滲んでいるのを見つけられて銀時から手が伸びた。伸ばされた手を妙は頭をふって小さく拒絶した。
 角膜にうすい涙の膜が張って、目の前の銀時の輪郭がぼやける。消えてしまうわけもないのに思わず伸ばした右手で、妙の指が銀時の耳たぶに触れる。形の良いそれを親指でなぞった。

「銀さんの事が好きです」
「……うん」
「貴方と。一緒になれたことが、何よりも私は嬉しいんです」
「………………俺も」

 嬉しい、と擦れた声を聞いた瞬間に、素直に喜べたらどんなによかっただろう。
 さきほどの会話を否が応でも思い出して、妙と銀時のあいだに確かに存在する埋まらない溝の存在を感じずにはいられなかった。手に入れた幸せをいつまでも疑ってかかるような男のことだから、いまの妙の言葉すらある日突然ついぞと消えてしまう泡沫の夢だと思い込んでいる可能性すらある。
 抱きしめてくる男をただ受け入れて、二人してだめになって、つかの間にやってくる幸福に甘んじて浸るという方法もあった。けれど、妙一人が幸せの絶頂にあっても、その裏で銀時が苦しむというのなら、そんな幸せは願い下げだ。

「私は御免ですからね」
 絶対に嫌ですからねと、念押しするように繰り返した。
「いいですか、今に見てたらいいわよ。あなたの思っているような結果には私は絶対させません」

 自然と声色がおびえたものになる。考えうる中で最悪の結末を、脳裏に思い浮かべてみたからだった。
 幸せの絶頂にある妙とは反対に、いつまでも妙との結婚を疑ってばかりいる銀時がいて、ふたりの心は重なり合わないで、そのまま何年も経ってしまったら──もしもの話をするのは非常に苦手だ。想像力は豊かなほうだと自負しているから、悲しい結末を想像するのにも苦痛が伴う。苦労の果てにようやく実を結んだ縁が、いびつに千切れてしまうなんてそんなの、いやに決まっている。

「わたしたちの結婚が信じられないなんてふざけたことを言っていられるのもきっと今の内です。せいぜい不安がってたらいいわ。すぐに嫌でも慣れさせてやりますから。しあわせだって、あなたの口から言わせてあげます。……ねえ。だから、覚悟していてください」

 ほんとうは内心で不安に押しつぶされそうだったが、己を奮い立たせてそう約束した。
 どんな結果になろうと、この男と添い遂げる覚悟を。
 しばらく銀時の顔に触れていた右手を離そうとすると、今度は銀時のほうから妙の手を取って握りしめてきた。

「そりゃ、おっかねーな」

 とんでもない女を捕まちまったと笑う銀時に、でも手放す気なんて無いんでしょうと返す。だったらちゃんと捕まえてくれないと困りますよとも告げる。

「我慢比べは得意なほうなんです」

 自覚できないのなら、自覚できるまで何度だって言ってやる。これが夢ではないと伝えてやることも厭わない。気恥ずかしさに耐えながら、銀時の耳にたこができるまで愛を囁いてやる。
 この幸せがいつか終わりを迎えることはあっても、それは明日や明後日訪れるものじゃないんだと、世界がやさしいことを理解できるまで、ずっとだ。
 そんなことを説教のようにつらつらと一息に言ってやると、妙の目の前にある銀時の目がみるみると丸くなっていった。

「なんかお前変わったな。籍入れてから」
「そうですか?」
「うまく言えねーけど、なんか余裕があるっつうか楽しんでるよな」
「確かに、そうかもしれません。でも、はしゃいだっていいじゃないですか。だって私たち新婚でしょう?」
「もう二週間なのに新婚?」
「まだ二週間です」

 さっきと真逆の問答をしていることに相手は気付いているだろうかと、妙の口から自然と笑みがこぼれる。

「時間はたっぷりあるんですから、焦らなくてもいいのよ。ちょっとずつ慣れていきましょう。ねえ、旦那さま」
「その、旦那サマって呼び方、くすぐったいから普通にしてくんない、なあ、奥さん」
「…………たしかにちょっと恥ずかしいですね」

 ちょっと、というか、かなり恥ずかしい。こんな調子で大丈夫だろうか。お互い赤面しながら呼び合っていたらかぶき町中の知り合い全員から呆れられてしまうことだろう。
 でも、そんな新婚ほやほやのバカップルみたいな空気も今のわたしたちにとって必要なことだ。こっぱずかしい呼び名で呼び合うことも、毎日続ければ、いつか当たり前になったらいい。積み重ねていったものが真実になる。
 じゃあまずは、と妙から一つの提案をしておく。何事も、はじめの一歩が肝心なので。

「……とりあえず、おはようのキスからはじめてみませんか」




'2019.11.04 とびきり幸せになるお覚悟をどうぞ

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