「水がつめたくて気持ちいいアルな」

 ゆらぐ水面に白い腿を浸しながら、チャイナは気持ちよさそうに目を細めてみせた。彼女の着ている制服のスカートは大胆に捲り上げられていて、そこから赤色のジャージのズボンが覗いている。俺に言わせてみれば、情緒もクソもありゃしない色気のない格好だ。

「こんなときくらい脱いだらどうでィ」
「溺れさせてやろーか」

 死ぬがヨロシ、と言って挑むような視線をぶつけてくチャイナに、「自意識過剰だろィ」と肩をすくめてやる。チャイナは勘違いをしている。ここは学校のプールでもないし、捲り上げるくらいならいっそスカートを脱げばいいのに、という意味で俺は言ったのだ。
 しかし今さら言い訳をしたところで、あちらはどうせ聞く耳を持ちやしないだろうからと、俺は誤解を解くのを早々に諦めて会話の流れをぶち切った。

「それにしても、人いねーなァ」

 ぐるりと首をめぐらすと、見渡した海はしずかに凪いでいる。あたりには俺達以外に誰もいやしなくて、電車を乗り継いで一時間のところにある地元の海はひと気が全くなかった。
 世間では夏休み真っ最中だというのに俺たちが制服姿なのは、今日が学校の補習日だったからだ。幸いなことに今日の補習は午前で終わったので、勉強の合間に俺とチャイナはこうして息抜きにやって来たというわけだった(午後の予定を補習の監督だった銀八に言ったら、「お前らいつも息抜きしてるようなもんじゃね?」と言われたのは記憶に新しい)。

「人がいないのはクラゲのせいじゃないアルか」
「クラゲ?」
「うん。堤防のとこにクラゲ注意って。看板あったの私見たヨ」
「マジでか。気をつけよ」

 人がいないのはそのせいかと俺は足元を注意深く見る。足首が浸かるくらいのこんな浅瀬にクラゲが現れるわけがない、と思いつつも、白くてぶよぶよしたそれが見当たらなくて安心した。

「あーなんか身体がべったべたすらァ」
「海だからネ」

 仕方ないアルヨ、と横で苦笑いするチャイナとは反対に、俺は制服のシャツの湿っぽさにちょっとだけ嫌気が差していた。太陽から降りかかる暑さはもちろんだが、シャツの上からまとわりつく潮風が煩わしい。しかも、体中から潮の匂いをぷんぷんさせて明日の補習に出るわけにはいかないので、帰ったら制服を洗濯しなければいけなかった。
 洗濯すんの面倒くせえなあ、と渋面をつくる俺を尻目に、べたべたになるセーラー服のことも、クラゲのことも気にしてないのか、チャイナは海に足を入れてずっとニコニコしていた。

「チャイナ」
「うん?」
「楽しいかィ」
「まあまあアルな」

 そっけない感想を言いながらも、チャイナの声色は明るい。この海をたいそうお気に召しているようだった。
 素直じゃねーな、という俺の呟きがすっぱり無視されて、チャイナの足はジャブジャブと波を蹴る。

「お前はどーヨ?」
「まあまあだな」

 答えると、あっちも笑って「素直じゃない奴アル」と返してくる。
 だけど俺は嘘を言ったつもりはなく、電車で一時間の遠くの海だって、家の近くの河原だって、学校のプールだって、どこもおんなじくらいのテンションで楽しんでやる自信があった。
 それでもチャイナがこんなに楽しそうに笑っているのを見ていると、俺もなんだか気分がいい。
 学校から寄り道せずに来たので着替えもないし、そもそもクラゲが出るから泳ぐこともできない。今日の俺たちができるのは浅瀬に足を入れるくらいだが、チャイナが楽しそうなら俺もそれで満足だった。

「沖田」

 ぼうっと視線を漂わせていると、不意にチャイナが俺のシャツの袖を引いた。

「なんっ、ばっ!?」

 振り向くと、待ち構えていたらしいチャイナが水を浴びせてきた。口に入った海水がしょっぱい。塩辛い唇をぺろりと舐めながら、こんにゃろう、と息巻いた俺はすぐさま海の中に両手を突っ込んだ。それからすぐ濡れた手でチャイナの頭をひっつかんで、ぐしゃぐしゃに掻き回す。ぎゃああ!と大きな悲鳴が上がる。

「はっ、ざまあみろィ」
「うがァァ!頭カピカピになるアル!」

 元はと言えばコイツから始まった戦争だというのに、さも俺が悪者みたいな、泣き出しそうな顔になってチャイナは騒がしく叫ぶ。けらけら笑ってやると、今度は怒ったように日射光に晒されている白い腕をぶんぶん振りまわしてみせた。コロコロ変わるのでコイツといるのは退屈しない。
 ただ、その白い腕やら、ほかの顔やら足やらを見ていると、俺はなぜだか無性に心がざわついた。
 たしかコイツは日焼け止めを塗っていなかった。俺はぼんやりとそんなことを考え、気がつけば自然と身体が動いていた。
 足元をバシャバシャ言わせながら浜のほうへと駆けていって、シューズや靴下と一緒に転がしてある学校の鞄から折り畳み傘を取り出す。そしてチャイナのところに戻って来て、俺は傘を差して頭上の光を遮る。

「なにヨ、これ」

 俺の顔をすっと見上げて、傘の日陰にすっぽり包まれたチャイナが不思議そうにする。

「普通の傘でも日傘代わりにはなるだろィ」
「たしかに私、生まれつき太陽浴びると肌赤くなりやすいヨ。でもそんだけアル。あんま私のことなめてんじゃねーぞコラ」
「いや、そういうんじゃなくて」
「じゃあ何アルか」
「なんか、ソワソワするんでィ」
「そわそわ?」
「落ち着かねえんでさァ。オメーが太陽の下にいて、海でバチャバチャやってんのを見てると、なんか、どうにも、ダメで、だから」

 説明不足なのは承知していたし、自分が何を言っているのか意味不明だった。だけど、今の言葉に一切の偽りはない。体育の時間や休み時間に校庭で走り回るチャイナを見て、俺がこんなふうに焦りを感じたことはなかった。だからやっぱり、太陽と海とチャイナ、この三つの組み合わせが俺をソワソワさせているのだと考える。
 ひょっとして、太陽の光があふれる海に入ってチャイナが死んでしまうとか思ってないだろうな。そんなのおとぎ話でも聞いたことがない。こんな馬鹿みたいな思考なんか今すぐ捨ててしまいたかった。

「おい」
「……あっ、悪ィ」

 かけられた声によって俺は現実に引き戻された。ぽたぽたと顔を滴る汗を手の甲でぬぐう。内心の焦りを悟られやしないかと、俺はチラリとチャイナの様子を窺う。
 傘の下におさまるチャイナはこちらをじっと見つめていた。今日の俺が変なのを呆れているのかもしれない。

「わかったアル」
「えっ、なにが?」
「お前が変な理由アル」

 チャイナの足の裏がぱしゃんと海面を叩く。とんできた飛沫が俺の脛までかかった。

「それってきっとデジャヴってやつヨ」
「デジャヴ……、既視感?」
「そうそれ。お前の前世は、私に世話焼く仕事だったアル」
「は?」
「お前はずっと私に寄り添って日傘を差してたアル。女王神楽様のお付きの人だったのヨ」
「テメーが姫さんなんてタマかィ」

 使用人呼ばわりされたのが癪で、俺はチャイナの手にずいっと傘を押しつけた。手を離したそばから、自分の行動を俺はとんでもなく後悔した。チャイナにはいつまでも傘を差している義理はないので、すぐに畳んでしまうだろうと思ったのだ。
 だが俺の予想に反して、チャイナは傘の柄を離さずに掴んでくれていた。

「涼しいからこのままでいいネ」

 日陰の中でチャイナはそう言って微笑んでみせる。安堵に似た息が、ふっと俺の口からこぼれるのを自覚した。
 一体、なんだってんだ。
 俺は俺の中の違和感に頭をかしげる。
 ラベンダー色をした安物の折り畳み傘を頭上にぱっと広げて佇むチャイナ。その姿がどうしてかしっくりくるから不思議だ。
 透ける紫色の傘、潮風にさらわれる皴まみれの紺色のスカート。はためく胸元のスカーフと、チャイナの履いている赤色の短パンが視界でちらつく。そこで思わず俺は目を細めた。
 別に、あれを脱がしたいとか思っているわけじゃないのだ。いや本当に、マジで。
 赤色。ただそれだけが俺の中で印象づいていた。
 なんて眩しい色なんだろう。

「チャイナ」
「何アルか?」
「……お前さ」

 おまえ、まんぞくか。
 海に身体をつけることができて満足か、と。
 なんでかわからないけれど、今の俺はどうしようもなくチャイナにその質問をしたくてまらなかった。




サムデイサマーアゲイン '130822

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