朝からどよついていた天気が次第に灰色を塗り重ねていくと、澱んだ空から雨がぽつりぽつりと降り出すのに時間はかからなかった。昼になって降り出した雨は江戸中に降り注ぎ、雨足は弱まる気配を知らない。

 手掛かりとなる「魘魅」の情報を探そうにも、星に残った者はほんの一握りだ。退廃した街ではお天道様が照る空の下でも人がほとんど見当たらないのが普通で、それが雨の日となればなおさらだった。

『こんな天気なのだ、お前たちは見舞いに行ってやれ。』

 見舞いに行け、と言い出したのは桂だったか。
 それから皆が口を揃えて言うものだから、万事屋三人だけが病室に揃うことになった。
 新八と神楽は現在席を外している。病室にひとりだけ残った銀時は、さてこれからどうしよう、と思案に明け暮れながら、雨の降りしきる窓硝子の向こうへ一瞥をくれた。

 本来ならば自分たちは、天気が雨だろうが晴れだろうが関係なく、江戸中を駆け回っていなくちゃならない立場だ。世界全体を脅かす病の正体と、一人の女、どちらを優先しなければいけないかは明白だろう。
 けれど、それでも、どうしても。もう長くはないと誰もが思っている。過ごす時間はあるだけあればいい。縁起でもない、と誰かは言うだろうが念頭に置かねばいけない考えだった。
 他の者たちも、今日は時間を割いて見舞いに訪れると言っていた。もうじき病院に到着する彼らを迎えに行くのだと言って、新八と神楽が銀時を病室に残して行ったのはつい先ほどのことだ。

「銀さん」

 雨音に掻き消されてしまいそうな声だったけれど、銀時はそれを聞き逃さなかった。弾かれるように伏せていた顔を上げる。

「……どうした?」
「いえ。ただ新ちゃんたちを待っているのも退屈ですから、なにか話しませんか」

 とんとんと掛け布団を叩いて、ベッドに身体を横たえる妙が銀時を呼ぶ。窓際の椅子から立ち上がって妙のもとへ近づくと、そこで改めて目の当たりにした女の姿に銀時は目を細めてしまった。
 年相応の肌艶を失い、その瞳は精彩を欠いている。色素が抜けきった髪の毛も、銀時の記憶の中の妙とずいぶん食い違っているので困惑させられた。
 いつもは離れた席から三人の談笑する声を聞いているだけなので、ついつい忘れてしまいそうになる。こうして目の前に立てば、女が死を間近にした病人だという事実を銀時は嫌でも突きつけられるのだった。

「なんだか久しぶりですね」
「そうか? 最近じゃけっこう顔合わせてんだろ」
「そういうことじゃないですよ」
「だったらなんだよ」
「こうして二人きりで話すことが久しぶりねって意味です、銀さん」

 銀さん。自然に呼ばれた名前に銀時はハッと大きく息をのんだ。
 この世界で、源外や登勢以外にその名前を完全に信じて呼ぶのがこの女だった。何を言ったらいいか逡巡したあげく、銀時はやっと口を開いた。

「仕方ねえだろ。こっちにも事情ってもんがあんだよ。珍さんとかいろいろ」
「誰ですそれ?」

 妙は怪訝そうに、それでいて、わりと楽しそうに尋ねてくる。

「あーいや、気にすんなって。こっちの話」

 手をひらひらと振って、銀時は話の先をはぐらかした。
 妙の言う通り、銀時がこうして二人きりで話すのは珍しい。もちろん、それは意識的に避けてきたのだから当然の事だ。
 妙の前で自分は「銀時」を名乗ることは許されているが、名前を偽る自分がぽろっと下手なことを言いやしないかと、見舞いの最中は神楽に睨まれっぱなしであったし、銀時本人しか知らないような話を妙が振ろうものなら、すぐさま新八に話題を変えられてしまうことが多々あった。
 けれど、そんな二人も今は席をはずしている。

「まあ、アレだ。今日はあいつらもいねえんだから、説教なりなんなり存分にぶちまけたらいいんじゃねえの」
「銀さんは私に説教をたれてほしいんですか?」
「別にそういうわけじゃねーけど、お前だったらそうすると思って」

 そこで妙がまんまると目を見開くので、何かおかしいことでも言ったか、と銀時は首をかしげた。
 怪我をこさえて一人帰って来た自分に、説教をたれる役目はいつだってこの女であったように銀時は思う。妙にしてみれば五年前で、しかし銀時にしてみればいつものことだ。「新ちゃんと神楽ちゃんを困らせたら、」という常套句と、包帯を巻く手際の良さは銀時の耳と目に焼きついているものだ。
 銀時の説教役はいつだって妙だった。
 だから、五年も留守にした誰かさんの謝罪を代理して述べる面持ちで、銀時は今こうして妙と向き合っていた。

「ええ、それこそ五年分ですから。銀さんには言いたいことが指折り数えちゃ足らないくらいあるはずなんです」
「……はず?」
「そう。はずだったの」

 でも、と続きを遮る唇が閉口を繰り返す。
 枕にうずめた頭をひねって妙が銀時を見上げてくるけれど、焦点が宙ぶらりんなので視線は合わなかった。
 視力がだいぶ落ちているのだとは聞いているが、こんなにひどいとは思っていなかった。どうにも見ていられやしなくて、銀時の視線は床に落ちて、自前の薄汚れたブーツだけを視界に映した。

「最近の新ちゃんや神楽ちゃん、他のみんなと話していたら、なんだか今の銀さんを責めることも質問することも全部お門違いな気がするのよ」

 言葉一つひとつが区切られて、選び取る言葉を大事にしているのがわかった。ベッドに横たわりながら周囲で気づいた違和感の正体をゆっくりとかたちにする、そんなふうに妙は喋っている。

「だから、全部終わるまで説教はお預け」
「お預けって。……それだとなんか俺がドMみたいに聞こえるんでやめてくんない?」

 精一杯言えた台詞はそれくらいで、我ながら情けなかった。しかし、ふふっと妙が笑ってくれたのでまあ良しとした。
 お門違い、妙はそう言ってみせた。
 別の時代に生きる自分が謝るべきことではないことを妙は見抜いているのか、それともさっさとすべてを終わらせろという意味か。
 前者後者のどちらにせよ、自分はまだ動かなきゃならないと銀時は自覚する。

(そうだ、自分はまだなんにも終わらしちゃいないのさ)
(他人の名前を借りて説教してもらおうなんざ無理に決まってる)
(それじゃあ、さっさと全部片づけて。帰ってきたらこの女に説教たたれて元通りになろうじゃないか。)

 足元まで落ちていた視線を引き上げると、すっかり弱ってしまって、けれどしたたかな女の顔がある。うろうろとする視線が気になって、ついに銀時は「オイ」と問いかけた。

「目は、今どれくらい見えてんだ」
「お日様が昇って沈むくらいならわかりますよ」

 つまりもう明暗しかわかるものがないということだ。途端にかなしくなった。曇った表情を隠すつもりもなく晒すと、こちらの表情を読めないはずの妙まで悲しそうにするので銀時には不思議だった。

「心配しないで、だって私、ちゃんと見つけたでしょう」

 そっと伏せられた瞼に向かって、何を見つけたんだ、と銀時が問うよりも先に、妙が続ける。

「あのとき、私、あなたの名前を呼んだでしょう」

 妙の声が呼び水となって、つい先日の、今日のような豪雨の日を思い出す。名前を呼ばれた。皆々の唖然とした顔の中で、「銀さん」と妙は確信を持ってその名前を呼んだ。
 三人で触れた女の手を思い出す。あたたかさとは無縁の髪色とは違って、あの手にはたしかに体温が宿っていた。
 今も手は布団の上に投げ出されているが、どうにも触れる勇気がなかった。煌々と照らす蛍光灯の下で、つかんだらぐしゃりと潰れてしまうんじゃないかってくらい生気の抜けた妙の細腕がそこにある。
 そんな折に、銀時の顔も見えていないはずの妙が手を伸ばしたのは唐突の出来事だった。あんまりにも迷いなく銀時の手をとってしまったから驚く。

「五年も経っていたから忘れちゃいそうでしたけど、それでも覚えていられたんだから、きっと大丈夫」

 驚きで何も言えないで固まっている銀時とは反対に、妙の声はいつまでもおだやかだ。

「このまま、何にも見えなくなって真っ暗な世界に私が消えてしまっても。見失ったりしません、絶対よ」
「ちゃんと、見えているわ、銀色よ」

 虚ろな瞳にもまだ見えるものはあるのだ、と告げる妙はしゃんと銀時の姿を捉えている。
 凛とした顔を見つめながら、ああ、と銀時は小さく返事をした。
 きっと最後まで女はそうなのだろう。たとえ完全に視力を失おうが、死ぬ瞬間が来ようが、希望は失わないのだろうこの女なら。
 妙が最後まで諦めないというなら、銀時だって最後の最後まで足掻き続けるつもりだった。

 言いたいことは言えたとばかりに、満足したように妙の指が離れていく。引っ込めたその手で妙は目もとを撫でて、ぱちぱちとまばたきを数回繰り返した。

「どうした、調子でも悪いのか」
「眠くなっただけですよ」
「だったら寝ればいいだろ」
「ダメよ。みんなが来るまで待っていたいから」
「眠いんなら素直に寝ればいいじゃねーか。無理して会われるあっちの気にもなれってんだ」

 そういえば先ほど神楽が手伝って薬を飲ませていた。気休めにもならない薬が睡眠欲を促すらしかった。
 次第にまばたきの数を増やしていく妙だったが、どうにもまだ起きていていたいらしく眉根をぐねぐねと動かして必死に耐えていた。大人しく寝ろよと銀時が繰り返し言っても、小さく首を横に振る。

「さっさと寝ちまえ、あいつらが来たら起こしてやるから」

 頑固なところは弟とそっくりだ。そこを指摘して笑ってやると、妙はむっと悔しげな顔をする。
 しばらく落ち着き払った様子でいた二十幾らかの女だったが、今の顔はあどけのない感じがした。思わず銀時の口元がつりあがる。
 やがてゆっくりと瞼が落ちて、長く揃った白い睫毛が痩せこけた頬に影を落とす。

「……ほんっと頑固者だよお前は」

 静寂が病室に戻ってくる頃、銀時はこっそり笑ってしまった。



*****


 扉一枚を挟んだ向こうから話し声がする。
 雨音にも負けてないほど耳を澄まさずとも響く足音なのだ。きっと大勢いるんだろう。
 「病院なんだから静かにしろ」と一喝する声。そんなこと言ってるお前が一番うるさいわ、いやいやお前が、と、終わらないツッコミが続くところになんにも変わっちゃいない懐かしさを感じてみる。
 江戸で散り散りになっていた者たちが勢揃いするのだから、数分後、病室はとんでもなく喧しいことになるに違いない。
 俺が起こさずとも嫌でも起きることになるだろう、覚悟しとけ、と銀時は寝ている妙を横目で見やる。
 この時代、この場所、この瞬間に自分がこの女のそばに居る意味を。銀時は正しく理解したかった。

 確かめるように、おそるおそる手のひらを丸い頭に乗せてみれば、触れる温かさは銀時にとって大事なものだと改めて気付かされた。護り通さねばならないものだと、心から気付かされる。

「……このまま」

 黙って奪われてたまるものか。
 ぽつんと呟いた銀時の誓いは、病室のすぐそばまで来ていた喧噪にのみこまれてしまう。しかし、それで誓いが消えるわけでもない。
 銀時が妙の頭からぱっと手を離すと同時に、騒がしい知り合いたちが病室に乗り込んできた。




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