眼前に広がるのは黒々とした夜の海だ。のぞきこんだところで何も見えやしないが、真っ暗闇の水面はどうしてか興味をそそられる。
 夜中に海を訪れるのはこれが初めてだった。袂を抑えつつ妙が片腕を伸ばせば、ちゃぷんと音を立てて指先が海面に飲みこまれた。

「お前はわんぱく小僧か」

 声のかかった方を振り向けば呆れ顔をされていた。しゃがみこむ妙から少し間をあけた位置に、銀時が佇んでいる。

「誰が小僧よ、わんぱく娘にしてください」
「いや、こだわるポイントが意味わかんねーよ」

 ひとけのない廃れた船着き場であるから、二人分の声がよく通る。
 「落っこっても知らねーぞォ」と、波止場のふちから身を乗り出している体勢をとがめられて、妙は素直に海面から手を離した。付近に明かりはなく足元は闇に沈んでいたから、月明かりを頼りに妙は銀時の方へ近づいた。

「夜の海は結構つめたいんですねえ」
「日が昇ってねェからな」

 濡れた指先が夜の張りつめた空気に触れるので、このままでは寒かろうと妙は肩に掛けた羽織の端で手のひらをくるむ。

「水浴びでもする気だったかオネーサン。風邪引きたくなかったらやめとけよ」
「誰も水浴びなんて言ってません」
「あっそう」
「当たり前ですよ。何を考えてるのかしらイヤらしい。そんな理由で銀さんを呼んだわけじゃないですから、勘違いしないでくださいよ」
「俺だってお前の貧相な身体見るために海に来たんじゃねーから。勘違いしないでくださいよ」

 貧相な身体と言われて普段なら黙っている妙ではない。すぐにでも海へ放り投げても良かったが、妙をここまで連れて来たのは銀時であることを思い出してグッとこらえた。
 夜もずいぶん更けた頃に電話を掛けた。
 こんな時間に非常識だと、受話器の向こうで散々文句を言ったくせに、数十分後に聞こえてきた原付のエンジン音は妙の記憶に新しい。そうして妙は銀時に借りを作ってしまったのだから、ここは怒りをこらえなければいけない。
 妙の視線は足元の水面に向く。目を凝らすと、黒い海面をうねる幾重もの波の輪郭。生き物のようだと、妙はひとりごちる。

「なんだか残念だわ」
「残念?」
「夜の海はもっときれいなものだと思ってたので。こんなに冷たくて真っ暗だなんて、私知りませんでした」
「そりゃ、理想より現実の方が優れてるなんてこたァほとんどねーだろ」

 ぶっちゃけ結野アナはテレビで見たときの方が可愛かったよねウン。などと見当違いのコメントをして、銀時がうんうん頷く。
 どうして海の話からアナウンサーの話になるのだろうかと妙が馬鹿を見る目をしてやれば、視線に気づいた銀時が不満げに口を尖らせる。

「オイてめっ、そんな目するより、俺に対してなんか他にあんだろ。頑張って原チャリ走らせて連れて来たことにちったァ感謝してもいいんじゃない」
「別に、絶対に来て欲しいとは頼みませんでした」
「うっわ可愛くねえ」
「可愛くなくて結構です。言っておきますけど、銀さんを呼んだのは気まぐれですから」

 感謝しているのは事実だが正直に伝えるのが癪で、その代わりに呼び出しの理由を明かした。聞いてすぐに、うんざりしたような顔を銀時がする。

「そんなさァ、気まぐれでさァ、一時間も運転させられたのか俺は。ふざけんじゃないよ、勘弁しろよホント、明日仕事あんだよ」
「私は今日も明日も非番です」
「当てつけですかバカヤロー。一応訊いておくけど、なんで海」
「こういうときは海が相場だと決まってます」
「相場ってなに。もっと近場にしろ。ガソリンと睡眠時間を俺に返せ」

 お前ホントなんなの、とブツブツ文句を言いながら銀時が頭を抱えてしまったので、アラと妙は目を丸くする。雄大な海ではちっぽけな悩みなど気にならなくなるという話を聞いたことがあるが、どうやら目の前の男は例外らしかった。
 うだうだ唸っている銀時を妙がぼうっと眺めながら、続く言葉を口にする。

「非番の夜はいつもこうです。暇を持て余しているの」

 別に海でなくても良かったかも知れない。だが話し相手は不可欠だった。
 独り言のような妙の言葉のあと、なにか思うところがあったのか、銀時が首を持ち上げて反応を示す。

「あァ、眠れねーのか」

 あら勘の鋭い、と妙はひっそりと思う。

「ええ、体内時計が出来上がってますからね。すっかり寝つきが悪くなっちゃって困りものだわ」
「けど夜眠らずしていつ眠るってんだ。お前は昼間も起きてんだろ、身体壊したら世話ねーぞ」
「毎日が二日酔いの銀さんに言われたくありません」

 うぐと銀時が言葉を詰まらせた。揚げ足を取るんじゃないよという目をされる。そっちこそ、自分を棚に上げないでほしいものだ。

「じゃあ、非番の夜はいつもなにやってんの」
「眠くなるまで家事全般を。ただ、今日は昼間のうちに終わらせてしまって」

 今夜も仕事があると妙が勝手に思い込んでいたのがすべての元凶だ。そうじゃなければ今夜だって乗り切れたはず。洗濯物は畳んであったし、家計簿もつけ終えていてすることもなく、箪笥の整理を始めようにも、大きな物音で弟を起こしてはならないと思ってできなかった。寝つきの悪い身体になったことを、妙は新八に知らせていない。

 布団にくるまってひたすら朝が来るのを待つことに疲れた頃、妙の脳裏に浮かんだのは、よろずの願いを引き受ける商売の名前と電話番号だ。

(誰にも迷惑はかけたくないくせに、依頼というかたちなら甘えられるんだわ。)

 わかりやすい自分の行動に妙は笑い出しそうになる。つくづく自分は可愛くない。銀時に言われるまでもなく最初からわかっていた。

「寝れねェで誰かに頼ったのは初めてか」
「でしょうね」
「そうかい、そうかい」

 心底うんざりしたようだった男の瞳に、別の感情が垣間見えた気がする。ただすぐに眠たげに瞼が伏せられてしまって、その正体を妙が知ることはない。
 風にあおられて暴れる着流しの襟を片手で押さえて、はっ、と銀時が短く息を吐く。呼吸のようなそれが妙には溜息のように思われたし、呆れたような溜息はまぎれもなく自分に向いている気がしている。居心地が悪い。

 なぜ自分を起こさないのか、仕事もシフトを減らしてもらった方がいい。弟だったらそんな説教の一つや二つ唱えるかもしれない場面で、銀時はじっと妙を見つめているだけだった。
 けれども、今はどんな説教よりも妙はこの視線が耐えられなかった。いっそのこと責めてくれたら楽なのに。男は見守るような目を向けるので、妙は逃れるように視線を落とした。

「……そろそろ帰るか」

 声をかけられても頷いたままでいると、着物の袖を引かれた。仕方ねえなあ、という声が聞こえたような気がして、ますます顔を上げられなくなった。そうして妙の視線はコンクリートの地面にいつまでも縫い付けられてあった。


***


 長居し過ぎたのか、潮の匂いはすっかり着物や羽織に染みついてしまった。隣を歩く男の白い着流しからも同じ匂いが流れてくる。変な勘繰りをされなきゃいいけれど。妙が思い浮かべるのは銀時の勤め先の従業員二人の顔だ。

「まァ、あれだ、お前はもっと欲張ってもいいんじゃねーの」

 さきほどの途切れた会話の続きにしては、銀時のそれは脈絡がまるでなかった。堤防沿いの国道に停めた原付に跨り、ヘルメットをかぶった銀時が妙を見据えてくる。

「私、欲望には正直なほうですけど」
「なーに言ってんだか」

 ヘルメットを渡されて、乗れよと促される。妙がシートに腰掛けると、首を捻った銀時が顔の半分だけを妙に向けてくる。

「遠慮しなくっても、行きたい場所へ行く足くらいは用意してやる」

 傷が目立つ車体の側面を銀時が蹴ってみせれば重厚な音がした。見かけによらず頑丈のらしい。行きたいならどこにでも、と銀時は口端をニィと持ち上げる。

「まァできれば海はもう勘弁してほしいけどな、遠いし」
「それじゃ次は山にします」
「ふざけんじゃないよオイ。少しは考えて物を言え。……あっ、金さえ払ってくれれば問題ねーか」
「いやだ、お金取るんですか」
「そんなわけで次回から頼むわ。今回は初回サービスってことで半額にしとくから、よかったな」
「よくねーよ」

 妙が声を低めて言っても悪びれる顔ひとつしないで、銀時は鍵をちゃりんとポケットから取り出している。欲張ってもいいと言われたが、この男の方はただ漏れの欲を自重すべきだろうと妙は思う。

「金取られたくねーなら、」
「……ないなら?」
「お前が夜眠れねェとき、今度からもっと気軽に来ればいいし呼べばいいだろ。万事屋でもお前んちでも。オセロくらいなら付き合ってやるさ」

 がちゃがちゃ鍵を挿し込んで、「アレ? かかんない? え、マジで?」と悪戦苦闘しながら銀時が言う。言葉をゆっくり嚥下して、意味を考えるのに時間を要した。オセロなんて、妙はもうしばらくやっちゃいなかった。

「……はい」
「ついでに新八や神楽も叩き起こしてどんちゃん騒ぎでもするか。お前は知らないかも知れねーけど、アイツらけっこう夜更かし大好きだから」
「そうなんですか」
「おー。だから、迷惑とか思わねーよアイツらも」

 ほんとうに迷惑だとは思わないのか、頼ってもいいのだろうか、ねえ大丈夫かしら。そういう性分なものだから、妙の胸は不安と安堵でいっぱいになるのだった。息が詰まりそうなのを深呼吸で誤魔化した。
 
「おっ日の出」

 銀時の声につられて海を視界に入れると、光にあふれる水平線が見えた。海沿いの道路はまだ暗がりが続いているが、遠くの街は朝を迎えているだろう。
 黒一色だった海に青色が満ちていく様子はたいそう美しいと思うが、妙の目を引いたのは、もっとそう、身近なものだ。ヘルメットからこぼれた銀色の髪がひかりを吸い込む。まばゆく光るそれに、妙は目を奪われた。

「……銀さん、」
「あァ?」
「連れて来てくれて、ありがとうございました」
「こんにゃろ、ようやく言ったな」

 朝のひかりをたっぷり含んだ銀色の髪が動いたと思ったら、ぐりぐりと上から押しつぶされる。ぎゅうと頭を押されて、ずり落ちたヘルメットが妙の視界を遮った。なにするのと声を上げると手は離れていって、そこでようやく自分は撫でられていたのだと気付かされた。

「礼を言うのが遅すぎるわボケ」

 クレームを寄越す声は笑っている。銀時の機嫌は良いようだったし、その胴に手を回す妙も自然と笑い出している。これが深夜のハイテンションかと気づきながらも流されてやることにする。
 ようやくかかったらしいエンジンが朝の空気に音を響かせて、そうして夜明けの世界を二人きりで走り出した。



夜明けの足音が届く頃 '130902
title 弾丸
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