ピアノの鍵盤に指を滑らせる時間は、緑間にとって心落ち着く瞬間の一つだ。
趣味というものは大小の差はあれど心に安らぎを与える物なのだから当然かもしれない。
バスケや将棋も当然"趣味"の括りには入れる事が出来るのだろうが、其処に緑間にとっての"安らぎ"は然程多くは含まれていない。

まず、バスケ。これは極めるべき物だと緑間は認識している。
誰が何と言おうと己の武器は唯一絶対の長距離スリーポイントシュートであり、それを確実な物とするには揺るぎない努力が必要だ。
そこに妥協をするつもりは一切無い。百戦百勝――それを理念とした帝光中に所属するのだから尚の事。
気付けば己やその周囲は"キセキの世代"等と呼ばれているらしいが、そんな呼び名に関係なく上を目指すのが緑間にとっての常だった。
――ただひたすらに極めるべき事柄、それが緑間にとってのバスケなのだ。

そして将棋。これに関しても出来るならば極めたいと思わないでもない、というのが緑間の心中だった。
とは言えバスケに全力で人事を尽くす以上、他には多少の妥協は要るものなのであって。
加え、日頃共に将棋を指す相手がどうにも手強いと言う事実が、将棋から安らぎという要素を差し引いてしまっていた。
緑間のような負けず嫌いにとって負けが嵩む事ほど気分が盛り下がる物はない。

こうした理由もあって、緑間がバスケや将棋から心の安らぎを得る事はあまりないのだ。とは言え好きな事ではあるのだから、全く心が休まらないという訳ではないが。
件の二つからは安らぎと言うよりは寧ろ高揚感や達成感、充実感を得ているような気がする。だからこそやめられないし、好きなのだ。

椅子に腰掛けピアノを前にした時、眼前に並ぶ白鍵と黒鍵は最早緑間にとって見慣れた物。
これらを叩いた瞬間に響くピアノの音色が緑間は好きだった。己の裁量一つでその音は色を、表情を変える。
時には繊細に優しい手付きで、時には手首を使って力強く。
弾くと決めた曲が己の思う様に完成した瞬間の達成感は堪らないし、ピアノを弾いている時間はその音色が好きな事もあいまって本当に落ち着く。
だから、かもしれない。少し疲れた時や休みたい時、気付けばその足はピアノの前へと向かおうとする。
自宅にいる時にその衝動に駆られる分には一切問題無いが、学校でそうした状態に陥ると行先は音楽室しかない。
と言っても日頃、放課後の音楽室は音楽系の部活動が利用している訳で、結果としてそれらの部活動に所属していない学生が使えるのは試験期間中のみとなる。
試験期間に音楽室を借りて少しピアノを弾いてから帰る。これは緑間にとって半ば習慣と化していた。
成績が良好な事も手伝ってか音楽室の鍵を借りたいと言えば否と言う教師はいない。緑間にとっては非常に好都合だった。

* * *

「――…、少し冷えるな」
試験を控えた現在、12月。辿り着いた音楽室は授業中の名残から廊下程寒くはなかったが、それでも多少冷えていた。
小さな身震いと共に吐き出した独り言は静かな室内に溶けて消える。
後ろ手に教室の扉を確り閉める。廊下からの冷気を少しでも減らしておきたい。
僅かに漏れ聞こえた外の喧騒も扉を閉めた事でシャットアウト。
この学校の音楽室の防音性には常日頃感謝している。お蔭で一人でゆっくりピアノを弾く時間を得られるのだから。
完全な防音ではないとは言え、多少防音性があるだけで全く違う。物珍しさに人が多量に湧く心配がなくなると言うのは大きな事だ。
幸い外の天気は良好で未だ陽も完全に落ちていない。電気を点ける必要もないだろう。

――少し弾いて帰るだけだ。

試験勉強中はどうにも気が立って仕方無い。
試験を前にして努力を怠った事はただの一度もない。成績上位者に食い込むのもその結果なのだから必然だ。
だが、それでも赤司には今一歩及ばない。それが不快で仕方ない。
勝ちたい勝ちたいと努力を積み重ねてもあの男は緑間の一歩先を行く。
それが不快で悔しくて、…だと言うのに何処かで惹かれていて、今となっては所謂恋仲とやらに陥ってしまっているのだから正直自分がわからない。
いったい何処に惹かれたのだと全力で自分に問い掛けたい。
負けたくない相手なのだ。それまでは、ただの好敵手…と言うよりは寧ろ、己としては宿敵のつもりでいて。
だと言うのに、気付けばあの声で「緑間」と呼ばれるだけでどうにも心が騒ぐようになってしまっていた。
時折その横顔に宿る孤独だとか、浮かべた微笑がどこか寂しそうだとか、そんな風に思うようになったのは一体いつからだろう。

「…馬鹿馬鹿しい」

ピアノの蓋を開けながらぐるぐる巡る思考に終止符を打つべく舌打ちと共に独り言。
そもそもこうして赤司の事ばかり考えている自分が想定外なのだ。
己に触れる指先、名を呼ぶ声、試合中の芸術的にも思えてしまうようなパスワーク。
絶対的王者として君臨する一方で孤独な一面も持っている所。その裏にある解りにくい優しさ。
恐らく己があの男を一番理解しているのではないかと思う程。

――結局オレは赤司のことばかり考えているな。

試験前だと言うにも関わらず、だ。こんな事は昔はなかった。
今は試合前だろうが試験前だろうが気付けばあの男が思考の合間に姿を覗かせる。
どれだけオレを支配しているのだよ。
心中で溜息を一つ零し、人差し指で白鍵を叩いた。
小さく響く、ピアノの繊細な音色。何処か頼りなく聞こえたのは、自分の思考回路が余りにも乱雑で纏まらず落ち着かないからだろうか。
溜息を落としてから椅子に座り、鍵盤と向き合う。
そして、そこに添えるのは十本の指先。――触れた鍵盤は、冷たい。それでもそこから指先を離そうとは思わないのだから不思議なものだ。

瞼を落とし、深呼吸を一度。
弾く直前に抱く、緊張感に似た感覚。シュートを放つ直前に少しだけ似ている、と思う。
閉ざした双眸を緩やかに開くと共に、指先を鍵盤上に走らせる。
選んだ曲は某作曲家の夜想曲。
緑間はクラシック音楽が好きだったが、この曲はその中でも間違いなく上位に食い込むもので。
――変ホ長調のノクターンが静かな室内に響く。
幾度も弾いて来たお気に入りの曲を奏でるのは矢張り心地良くて、時折瞼を落としてもその指先は問題なく鍵盤の上で躍る。
穏やかな曲調が、試験前で些か磨り減った心を癒して行く。
部屋にピアノの音だけが響く数分間は瞬く間に過ぎて行った。
最後の一音を奏でてから終曲の余韻を味わう事暫し、緩慢と鍵盤から指先を離す。
その頃には最初鍵盤に触れた時に感じた冷たさは意識の外で、曲を奏で続けた指先は程良く温まっていた。心地良い熱だ。
一曲終えた余韻に深く息を吐き出す。もう一曲弾いても良いかもしれない、と思考を巡らせた――その瞬間だった。

「良い音だな、緑間」

鼓膜を震わせた声音に、思わず肩が跳ねた。
その声の主が誰かを悟る事なんて、容易い。――だが、何故此処に?いつから?脳内を疑問符が駆け巡る。
声の方――音楽室の入口へと振り返る。そこに立つ人物は、当然の如く予想通りだった。
…オレの思考を占めるだけでは、どうやら満足出来ないらしいな。
心中で独り言。言葉を紡ぐ代わりに、唇からは小さな溜息が溢れ落ちる。

「赤司か。いつの間に来たのだよ」
「お前がピアノを弾き始めた直後くらいからだ」
さらりと答える赤司。その内容に緑間は思わず両の瞳を見開いた。
「――ずっと黙って聴いていたのか」
人の気配に敏い方か否かは自分でも解らないが、まさか扉の開く音も耳に入っていなかったなんて。
どうやら思いの外没頭してしまっていたらしい。
「そんな不機嫌な顔をするな。演奏中に水を差すのもどうかと思ってね」
肩を竦めてそう答える赤司。常日頃と変わらぬ姿だ。
試験前だと言うのに、相変わらずの余裕。
赤司のそんな姿が少し癪に障る反面、顔を見る事が出来て嬉しいとも思ってしまう。緑間の心情は非常に複雑だった。

「…別に不機嫌なつもりはないが」
努めて真顔を装いつつ、ピアノの方へと歩む赤司を視線で追い掛ける。
不機嫌か上機嫌かと問われれば、今は恐らく上機嫌で――それに驚きが付随しているだけだ。
"不機嫌"との指摘は正直思いも寄らなかった。
「…、…此処、皺が寄っている」
ピアノの傍らで足を止め、赤司はとんとんと自らの眉間を軽く叩く。
どうやら緑間の眉間には皺が寄ってしまっていたらしい。
それを指摘する赤司の唇に描かれているのは小さな弧。
相も変わらず余裕面を崩さない男だ、と思う。
「オレはいつもこんな顔なのだよ」
飛び出た言葉は自分でも素っ気無いと感じる程だった。
心の奥底には赤司を大切だと思う気持ちがあるその一方で、どうにも素直になれず直ぐに意地を張ってしまう。
直したい、と全く思わないわけではないが、簡単に直る訳がないと言う事くらい自分が一番よく知っている。
――…そして、恐らく赤司も、緑間のそんな一面を全て理解しているのだろう。
それが悔しくもあり、嬉しくもあり、気に食わなくもあり、愛しくもある。

「…嘘を吐くな。もっと穏やかな顔も出来るだろう、お前は」
そう紡ぎながら赤司の指先が鍵盤を叩く。
ぽろん。ぽろん。
曲未満、単なる音が空気を震わせた。
赤司にピアノを聴かせた事は数回。いずれも自宅で過ごしている時ではあったが。
そうした時も赤司は時折鍵盤に触れていた。
その時に響く音も、今も、赤司の奏でる音と己が紡ぐ音とではその色がまるで違うと思う。
何がどう違うかと問われても答えられるとは全く思えないが、何となくそう感じるのだ。
「……唐突に何なのだよお前は。オレの安息を奪って楽しいか?」
ああ、違う。
別に突き放したい訳ではない。本当は――…、本当は。
必死に言い訳を繰り返す心中は紛れもない本音だと言うのに、どうにも実際に言葉にする事が出来ない。
気付けば緑間の唇は淡々と、悪態に近い内容を並べてしまうのだ。

「ああ、楽しいよ。…緑間のそう言う所も、オレは好きだ」
「――悪趣味だな」
「…成程。つまりそんな悪趣味なオレを好きな緑間も、悪趣味と言う事になるな」
「――…!!」
何処か嬉しそうに言い切る赤司を前に、緑間は絶句した。
悪趣味云々に言葉を失った訳ではない。"緑間が赤司を好いている"という事実を当の本人に言われた事に、絶句してしまっているだけで。
上手く言葉が出て来ない。
言葉が見付からず視線を伏せる緑間とは裏腹に赤司の口許には笑みが湛えられていて。

「どうした、緑間。オレはそんなに変な事を言ったかな?」

白々しくも聞こえる程に軽い口調に、伏せていた視線は鋭く赤司へと向く。
それでも尚赤司の表情が崩される事がなく、それがやはり少しだけ悔しくて、――それでもその表情はひどく美しいと思った。
…なんて、絶対に一生言ってはやらないが。
「…、…人を悪趣味呼ばわりしておいてよく言う」
「それは緑間もだろう」
…ぐうの音も出ない。今度こそ完全に返す言葉を失った。
今度は確実に眉間に皺が刻み込まれている自信がある。
ふい、と視線を背ける。言い返す言葉もなく、それ以上言い合いをしても正直勝てる気がしなかった。
赤司にいつか敗北を教えてやると言う意思は変わらないが、少なくとも言い負かす日は暫く来ないような気がする。
何故だか感じる言い様のない敗北感に思わず溜息が漏れた。
それを察したのか察していないのか、不意、緑間の頭を赤司の掌がそっと撫でた。
弾かれたように視線を上げると、緑間の視界に入ったのは何処か穏やかな赤司の眼差し。日頃の身長差と異なる視線の位置も相まって少し不思議な感覚だ。
「――子供扱いか?」
ああ、また間違えた。本当は、掌の暖かさが嬉しかった、と思っている癖に。
本当に言葉が儘ならない。
「…、いや、…強いて言うなら恋人扱いのつもりだ」
「…ッ、お前、は!」
照れもせずそう言い切られてしまっては、頬に熱が一気に上るのも半ば必然だった。
顔が熱い。堪らず再び赤司から視線を逸らす。
――…この男はことごとくオレを振り回したいらしいな。
表情を隠したくて仕方なくて、俯く。その間も緑間の頭を撫でる掌はそのまま。
優しい手付きで撫でられる感覚は思いの外心地良い、ものの、やはりそれを口にするなんて出来そうにもない。

「ところで、緑間」
「――何だ?」
問い返すに併せて赤司の掌が緑間の頭から離れて行く。
それが名残惜しい、なんて絶対に言ってやらない。

「もう一度、お前のピアノを聴きたい」
「…、何を言い出すかと思えば。……一曲だけなら考えてやらん事もない」
相も変わらず視線は落とした儘、小声で答える。
あわよくば聞き逃した赤司に「二度は言ってやらないのだよ」と告げてやる心積もりで。
だが、赤司と言う男にそんな隙が簡単にあろう筈もなく。
「一曲で構わないよ」
そう答えるや、近場の椅子を引き寄せて腰を下ろしてしまう赤司。
どうやら既に緑間に拒否権はないらしい。

――まあ、オレの中にも断ると言う選択肢は微塵も無かったが。

互いの距離が僅かに離れた事で漸く視線を持ち上げる余裕も生まれて、緑間はなんとか顔を上げた。
赤司を直視しさえしなければ良いのだ。
「悪いが曲のリクエストは聞かないのだよ」
「ああ、緑間の好きにすれば良い」
暗譜で弾ける曲は正直な所、そう多くない。その内のレパートリーは一つ弾いてしまって、それは既に赤司に聴かれている。と、なると何が良いものか。
脳内で曲をリストアップ、その中から一つを選ぶ。
比較的穏やかな曲、を選んだつもりだ。そもそも此処には試験勉強の息抜きに来たのだから、激しい曲を弾いて疲れては意味がない。
漸く決断を下した所で、両手の指を鍵盤に添える。
視線は鍵盤に据えた儘、緑間は再度口を開いた。
「弾いている間、声は掛けるなよ」
「勿論。――オレは、緑間のピアノが好きだからな。…何故だと思う?」
唐突な問い掛けに緑間は思わず赤司を見遣った。
そして、見ない見ないと決めていたにも関わらずあっさり視線を向けてしまった事に、赤司の面立ちを視界に捉えてから気付く。
直視すると妙に心臓がうるさくなる。
こんなに心臓が騒いでいて、ピアノが弾けるものなのだろうか。全くわからない。
「そんな事、オレが知るはずがないだろう」
どくん、どくん、どくん。鼓動がうるさい。
視界に捉えていた赤司の唇が、弧を描いて行く。その動きがやけにスローモーションに見えた。
視界一杯が、紅に染まるような感覚。
彼が浮かべた微笑が、やたら綺麗に見えて、困る。
「お前のピアノは、すごく優しい音をしているから。――口では色々悪態ばかり吐くくせに、音は正直なんだよ。気付いていないだろう?」
そう告げた赤司の声はやけに穏やかに響いて、うるさく響く鼓動すら一瞬忘れてしまうよう。
――お前の声音の方が、余程優しい音だろう。
そう思いはしたが、やはり口にする気は更々なかった。
代わりになるかは全く解らない。
それでも、赤司が好きと言ったこの音が、己の心中を少しでも伝えてくれれば良いと、思う。

ぽろん、

小さく響く一音を皮切りに、再び指先が鍵盤上で躍った。



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この度は素敵なWebアンソロジーに参加させて頂きありがとうございました。皆様の素敵な赤緑を拝む時を今か今かと待機しつつ、そこに自分の文章が加わると言う事でどきどきしたりもしています。
赤司くんと緑間くんが一緒にいるだけで私は幸せでいっぱいなので二人も幸せになれば良いと思います。赤緑に幸あれ!洛山VS秀徳は心の聖書!最後になりましたが、この素敵な企画を主催して下さった恭也さんと、赤緑好きな参加者の皆々様に感謝を込めて。今回は素敵な機会を頂けて本当に本当に嬉しかったです。ありがとうございました!
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