※二人が二年になった時の話です。中学時代、WCやIHの勝敗の捏造を含みます。




こんな夢を見た。

葦の野原に自分は立っている。
葦は秋の色に染まり、節々の色を濃くしながら風に揺らめいている。近くに川が流れているのか、漣の音が鼓膜を震わす。空は遠く遠くに青く、晴れ渡っているというのに太陽はどこにも見当たらない。見上げた目を葦の野原に戻すと、辺りは暗くなっていた。しかし空だけは相変わらず燦然と輝いている。まるで青い水の底から空を見上げるように、高く揺らぎながら輝いている。
昼と夜とが天と地とで異なる。
ああ、これは夢だと、その瞬間に思う。
ふと、足元が何か熱い気がする。いつ自分は歩いていたのだろうか、自分の足跡が葦を折りながら道を作っている。そしてそれは遠くから次第に燃え燻るように火を灯している。
ずっとそうだった。と、唐突に思った。
こうやって、燻っていた火は自分のあとをずっとついてきたのだと。
火は音を立てることも無く、されどその勢いを増していく。それはどんどん自分の方へと近づいてくる。このままでは自分も焼かれてしまう、と、川の音がする方に走る。先ほどまで無かった音が、緑間の視界から火が見えなくなった途端に聞こえてきた。パチパチ、パチパチと。
枯草を揺する風の音、葦の茎が互いに擦れあう音、自分の足が草を踏み分けて行く音、そして、後ろから近づいてくる火の音。
川に出た。水の中に足を入れて振り返る。埋もれ火は既に炎と化している。しかし不思議と熱くは無い。それは暗くなったあたりを照らしながら、葦の枯草を次々に焼いていく。もう一歩、緑間は後ろに下がる。緑間が辿った足跡は既に炎の中に埋もれ徐々にこちらに近づいてくる。熱さは感じないが、燃え広がっていく火の勢いにもう一歩後ろに下がる。
ふと、片足が深い淵に嵌った。自分の体が後ろに倒れていくのをとめることができない。それはとても緩慢に感じられた。縋り付くものが何もないのを理解してはいても、反射的に手が宙を掴む。すると、空の色が徐々に変わっていくことに気付いた。
緑間の体がゆっくりと倒れているのに対し、水に食紅を溶かしこんだように変わっていく。それは炎の色だった。緋色の炎が、明るく揺れる空の青を染めていく。背中に水の感触を感じる。表面張力が極限に達し、緑間の体を沈めていく。その間にも、炎は緋色に空を染めていく。薄い紫から鳥の子色へ、髪の毛が水に浸かる時には既に天上は緋色に、そしてそこから徐々に濃く紅色に染まっていた。顔が水面に浸かる。息ができず、伸ばした手だけが空気に触れる。水の中から見た景色は揺れて、揺らめいて、けれど消えることが無い。
自分の体が沈んでいく。それでもその色だけは鮮やかに、漣と共に揺れている。
忘れはしない、その色を。
陽の光に透けて、あんな風に緋色と紅色に彩られた色を。

そんな夢を見た。

緑間が目を覚ますと、いつも起きる時間よりも三十分ほど早かった。鳴るであろう時計のアラームを止め、カーテンを開ける。ナイトキャップを外し、眼鏡をいつも通りにかけると、窓の外がわずかに赤みを帯びている。
あんな夢を見たせいか、気になって窓を開ける。朝の秋風は寝起きの体には些か冷たい。しかし、空には緋色が射している。朝焼けは雨。今日は傘を持っていった方が良いかもしれない。朝焼けは東側に雲が無いために、西から雲がくるかもしれないという予測に基づくものだ。西。そしてあの緋色。
今、彼の住んでいる所に雨は降っているのだろうか。
 
朝食を済ませ、顔を洗い、歯を磨く。鏡に映る自分はいつも通りの顔をしている。ふと洗面台の横に備え付けてある棚を見ると、赤い櫛が置いてある。いつもそれを使っているというのに、今日はやけにそれが目につく。いつもより丁寧に髪を梳く。じわりとそこから熱が伝わってくるような気がする。おは朝の時間になり、テレビを見る。今日のかに座の運勢は六位。まずまずといったところだろうか。ラッキーアイテムはだるま。ああ、また赤だと思う。家にあるため調達にさほど苦労しなかった。母親にだるまを持っていくことを伝え、テーピングを巻く。忘れ物が無いかチェックし、弁当をその中に入れる。左手にだるまを持つ。手の平におさまる程度のそれは、今年の初詣の時に父が買ったものだ。特に願掛けをするわけでもなく、ただ何となくと購入されたそれは右目だけが黒く塗られている。何の因果か、今日はそういう日なのか、それならば些か偶然が過ぎるとも思う。
道行く途中夢と今朝の朝焼けが頭の中で反芻する。左手に持っただるまは掌の上でころころとしている。道路の標識、道行く人のネクタイ、郵便ポスト、車のライト、信号機、やけに目につく赤色が、緑間の眉間に皺を作る。
違う。この赤ではない。この左手にあるものや、朝焼けや、道すがらにある赤ではない。
あの夢の中の緋色と紅色、そして水面に揺れる様、それを。
教室に着けばいつものざわめきが戻ってくる。高尾がいつものテンションで教室内に入ってくる。まったく朝からうるさいものだと外を見る。荷物を置けば案の定こちらにやってくる。
「真ちゃんおっはよー!」
「うるさいのだよ」
「何々、今日はご機嫌斜め?おは朝の占い最下位だったとかー?」
「六位だ。良くも悪くもないのだよ。ちなみに今日のラッキーアイテムはだるまだ」
「へぇ、今日は割と普通だな」
机に置いたそれを、高尾が指でつつく。高尾の指の動きに合わせて、それはコロコロと動く。
「片目が無いけどなんか願掛けしてんの?」
「いや、父がなんとなく買ってきたものだそうだ。特に願掛けなどはしていないらしい」
「へーえ。じゃあこいつ、いつまでも片目のままなんだな」
「……そうだな」
「片目書いちゃえばいいのに」
「父親の物をそうそう勝手に扱うことはできないのだよ」
「でもなんとなく買ったんだろ?」
「……まあ、そうだが」
「何だったら俺が願掛けしちゃおっかな〜」
高尾はニヤリと口角を上げて笑う。こういう笑い方をする時は大概緑間にとってろくなことがない。
「真ちゃんが俺にデレますよーに!」
 パンッと両手を合わせて高尾がだるまを拝む。そらみたことか、緑間の眉間に皺が寄る。
「高尾……」
思わず低い声が出てしまう。高尾は「だって見たいっしょ」と軽く言うと、目を細めて笑った。
この笑顔を、何度見たことかもはやわからない。インターハイが終わってからか。段々と、彼は自然な笑みを見せるようになっていった。
自分は元々笑う方ではない。だというのに、惜しみもせずよくやるものだとそう思う。
返してやれるものなど何もないのに。
 
自分に何物かを与えてくる人間は、少し苦手だと思う。


***************


自分は、誰かに何かを与える人間ではなかった。ただ、自分から発される何物かを「受け取る」と勝手に認識することについて取り立てて制限を設けるということはしなかった。すなわち、自分にはそういった一種の横暴さがあった。
自分と接して、勝手に感謝をする人間も、勝手に哀惜する人間も、さしたる興味は抱かなかった。それらは彼ら自身が行った選択であり、その選択に対して自分には何の責も無いからだ。
けれど、面白いなとは思っていた。特に、それを自分にぶつけてくる人間に対しては。
唇が薄く弧を描く。その程度の滑稽さはあった。
別に、自分は自分を神だと思っているわけでは無い。ただ絶対的に自身が自身を律するための掟があり、それは既に代謝として体に組み込まれているだけなのだ。自分はそれを自分の為に必要であるから代謝として組み込んだ。自身に合う技能習得の方法を考え、実践し、常に改善策を求めて探求する。ただそれだけのことだ。
そういった自身との対話を成立させ、時には能力の高い者からの話を聞いて、自分の中に組み込んでいく人間がいかに少ないかについては、既に小学校を卒業する時には身に染みてわかっていた。けれど、それに対して特に寂しさは感じなかった。ああ、少ないんだな、という情報としてインプットされた。なぜか、というのは、考える必要のないほど感じていた。あの平穏を求める空気を纏った人間。つまりそこから、君たちは出る気が無いんだ。そう、選択したんだ、と。
小学校という縮図のコミュニティーの中でそうだから、きっとこの先社会に出た所でこの割合というものは変わらないんだろうと思った。だから中学にもさして期待はしていなかった。絶対数が増えた所で、自分のやることはさしたる変化がない。
けれど、帝光の中学バスケットボール部に入部した時、自分が少し感動を覚えたのは確かだ。自分の心を揺らす他人の心があった。それはしなやかで、まっすぐで、美しく、自分はそれを大事にしたいと、彼らが彼ら自身が光り輝きながら、それを共有する感覚を大事にしたいと、そう思った。隔たることなく美しくその色を交わし、染まりながら、美しい虹を描く様を見ているのが一等好きだった。
月日は流れる。桜は春の長閑さをよそにせわしなく散っていく。その桜が地上の影に埋もれれば、見上げる空に緑が宿る。鳥の鳴く声も、日を追うごとに変わっていく。流れる雨の熱さが、次第に冷えてくるそんな頃には、もう自身の帝光における地位というものは揺るがず、そしてバスケットボール部においても、自分の心を揺らした人間が自分の周りに揃っていた。一人問題のある人間もいたが、実力は伴っていたのでまあ良しとした。
そして一つ、今までしたことのない経験をした。
自分の、傍に居ようとする人間が一人。
 
向かいの席に座る人間は時折こうやって自分に勝負を挑んでくる。それは当然のように自分が勝つのだが、彼は何度も、何度も挑んで来る。緑に輝く髪は、夏の深緑の色というよりは、例えば椿のように艶を帯びた常緑樹の、奥にひっそりとひそむ完全な形をした葉の色に近い。瞳の色は髪の深い緑よりもわずかに薄く、光にその色を変えていく。瞳の奥には美しい炎がある。風に揺らぎながら、絶対に消えることのない炎。それが自分に向かってくるのは、好ましいと言うよりも、愛おしいという感覚に似ていた。肌の色は白い。日焼け止めでも塗っているのかと聞いてみたこともあるが、塗っていないという。比較的白いと言われる自分よりも白いものだから、時折心配になる。体格は自分よりもはるかに大きい。今は180pほどだと言うが、この先きっともっと伸びるだろう。体格の良い人間が揃っているバスケットボール部の中でも、彼は際立っていた。足もそれに倣って長いが、かれは性格に反して意外とゆったりと歩くので、早歩きの自分と速度が異なることはなかった。美しく高い弧を描く、必中の3Pシュートを放つ指には白いテーピング。彼は自分とは違って左利きだ。右手にも左手にも、どことなく硬くなったり曲がったり、そういう部分があり、彼の苛烈な練習の経験がそこに垣間見える。
周囲からみた彼は確かに浮いていた。ただそれは、彼が彼なりにまっすぐに生きようとしている証拠だった。ただまっすぐと言っても、青峰のように目の前に障害物があれば片っ端から壊して道を敷いていくようなまっすぐさではなく、生真面目を伴ったまっすぐさだった。彼は自らの目の前に現れた何かしらをじっくりと検分し、自分なりに理解し、必要なら壊し、必要なら避け、必要なら持っていく、そういったまっすぐさだった。
人間を相手にする時もそうで、彼は相手を自分なりに理解し、その上で付き合っていく。
そこには好意や敵意、そういったものも含まれるだろうが、どちらかといえば理性的な付き合いをしているといえた。
ただ、元々が無愛想なうえに、彼ワールドは他者から奇異に見えるものだから、面と向かって彼に対峙するものが少なかった。彼は彼の世界を美しく構成するために種々の仕掛けを凝らしていた。ジンクスや占いなどは、その一例と言えるだろう。
そういった部分を自分は好ましく感じていた。自らの感情がこんな風に動くなどとは思いもしていなかった。
自分は彼に何も与えていないし、彼も自分が何かを彼に与えている、という風には受け取っていなかっただろう。彼の前では自分は自然に呼吸ができていたように思う。彼の傍に居る時は、どこか世界が美しく見えたように思う。
自分の揶揄にも真面目に考え、時折突飛な答えを返してくるような、そして自分にきちんと対面しようとする彼。
そう、あれは自分の初恋だった。

そして、今、それはずっと恋の形をしている。


***************

再び、月日は流れる。

美しく混じり合っていた虹は今やもはや影も無く、大事に大事にと、していたものが崩れ去った中学三年の夏。試合中のラフプレーにより、視力に影響はないものの色の変わってしまった自分の目。
それでも相変わらず、緑間真太郎という男は僕の傍に居た。
僕が、何かを画策していることをきっと悟っていただろう彼は、それでも何も聞かず、黙々と彼自身でいた。
そして、僕たちは進学する。彼は東京に残り、僕は京都へと行った。

恋は、この身に秘められたままだった。
きっと彼は知らずにいるだろう。知ったらどんな顔をするのだろうか。

***************

月日が流れるのは早いものだと思う。けれどそれは振り返った時の話で、確かに俺は俺の足で、この月日を歩いてきたのだろうと、そう実感できる。
一年の冬が過ぎ、二年の夏が過ぎた。秀徳高校は相変わらず勝ったり負けたりを繰り返している。けれど、着実に力は増している、と感じている。この手に宿るボールの感触が、日に日に強くなる。そして、赤い色も。
一年の冬に、彼と相対し、そして自分は敗北した。差し出した手は受け取られることも無かった。
二年の夏、秀徳はリベンジを果たし、誠凛に勝利をしたものの、準決勝で当たった桐皇に敗北。優勝の時を逃した。
悔しさは募るばかりだ。けれども、その悔しさが自分の糧となることも知った。涙の味は不味かった。
観客席からあの赤を見た。それはコートの光の中で酷く輝いて見えた。もうあの夢を見てから一年が経つというのに、まだ忘れられない葦の野原。
燃え広がる炎。
そして、水面彩る緋色と紅色。

お前に与えたいものは、敗北だった。
それは、俺からお前に与えることはできなかったけれど。

そして、今、コートを見て思いが募る。

俺は、あの夢を、お前と一緒に見たい。

 
七月の夏休み前に、進路希望の紙が生徒に配られた。自分は医学部に進学するつもりだったが、まだどこの大学にするかは決めかねていた。ただ、漠然と、京都に行こうかと考えていたので、京都の医学部のある大学を第一希望に記入する。
教師との話し合いの時にも、「君ならこの大学でも問題ないでしょう。今のまま、頑張ってください」とだけ言われ、高尾には拗ねられ、級友たちには「さすが!」と言われた。誰も反対するものはいない。両親にも、心配されはしたが、赤司の名前を出して、彼がいるから、と言うと、「まあ、それなら心強いわね」と納得されてしまった。
とはいえ、赤司がどこの大学にいくかは知らない。
少し先走ったかもしれないが、けれど、彼と見たいものが、ここにはあるのだ。
そして、知りたいことも。


***************


「真太郎から電話がくるなんて、珍しいじゃないか」
十月半ば、外の虫の声がよく聞こえるようにと窓を開けていた。鈴の鳴るような虫の声と、葉擦れの音が交じりあうのを楽しんでいた時に、電子音が部屋に響いた。部員の誰かだったらこのまま無視をして、外の音を楽しんでいようと思って相手の名前を見るのと通話ボタンを押すのはほとんど同時だった。
「随分とそちらは賑やかなようだな」
「ああ、虫の声か。そっちにも聞こえるかい」
「聞こえたからこういっているのだよ」
相変わらず会話の機微と言うものを知らない男だと思う。自然に口もとが緩む。
「それで、何か用事でもあったのか」
そういうと、受話器からは沈黙が流れる。どうやら向こうは音楽を聴いているようで、ささやかにピアノの音が流れてくる。
ドビュッシーのアラベスク。途切れがちに紡がれる光り輝く布のような旋律。
彼の沈黙と共に、自分もああ、そうだ。確か彼に言いたいことがあったのだと、思う。それはあまりにもずっと思いすぎていて、この身にあるのが自然のようになってしまっていたから、ともすればそれは二人の共有認識のように思い込んでいたものだった。
けれどそれは、自分から、彼に聞かなければならないことだ。
 
時は少し遡る。
一年の頃から部活の無い日や土日の練習の後のランニングコースにしていた土手がある。
大きな川はゆうるりと流れて、底の見えない川だった。時折何が釣れるのか、釣竿を持った老人が川べりに居る。
土手の坂には葦が万遍なく生えている。それは冬には刈り取られてしまう葦だけれども、春になると緑の芽を生やし、夏になればその上を歩けるのではないかと言うほどの草原となり、秋になると日の光に照らされて赤銅色に光っていた。
土手を走り抜けながら、いつもそれを見ていた。
そしてあの日の夕焼け。
夕焼けは晴れ、だったか。明日もロードワークができそうだ、などと言う思いもすぐに霞んでしまうほどの夕焼け。
雲は無く、陽の光が目に眩しく、けれども逸らすことができないほどの。
葦の野原を照らすそれは、そよぐ風の中で消えることも、温度もない炎のようで、自らに対面した彼のことを思い出した。
あの、緑の瞳の中に、消えることの無い炎のことを。

空白に手を伸ばした。
確かに二年前には、あっただろう手が今そこに無い。
手をつないで、そして闇の入り込む隙間もないほどに彼とこの肌を合わせたい。
ああ、どうして、今彼は自分の隣に居ないのだろう。

「……真太郎」
相変わらずそこにあった沈黙が宿る。そういえば、彼と一緒に居た頃も、こういった沈黙はあった気がする。
夕日のさしこむ教師で。本当は昼間でも夜でも、彼と共に居た記憶はあるのだけど、けれど彼が緋色に照らされていたその様子が、自分の中では一番鮮明に残っている。
あの頃を思い出せばそこに宿るのは夕暮れだ。
「……なんだ」
「来週の土日、京都にこないか」
「は……?」
「確か今秀徳は工事があって体育館がつかえない筈だな。そして夏合宿に向けて土日は静養期間ということで部活は休みのはずだったが、間違いないな?」
「何故お前がそれを知っているのだよ……」
「調べたからさ」
「相変わらずお前の情報網には恐れ入る」
「でも、お前もこちらの部活が休みだということを知っている」
「……丁度人づてに聞いただけだ」
「そういうことにしておこう」
「相変わらず、唐突だな」
「新幹線の切符は送っておく。来週の土日は晴れるそうだ。お前に見せたいものもあるんだよ、真太郎」
「赤司」
「僕の我儘だ。聞いてくれるね?」
「……わかったのだよ」
「それじゃあ切符を送るよ。来週の土日、待ち合わせは京都駅で。楽しみにしているよ、真太郎」
ああ、ついでに、と赤司は付け加える。
「僕の家に一泊するってことで、いいね?」
「……仕方ないから付き合ってやるのだよ」
「さすが真太郎。会えるのを楽しみにしているよ」
「赤司、お前がそんな風に口にするのは珍しいな」
「そうだね。今日は気分が良いんだ」
「ふっ……。俺も、その時に話したいことがある」
「そうか。それじゃあ、来週に」
「赤司」
「なんだい?」
「……名前を呼びたくなる時もあるものだな」
正直虚を突かれた。そんな風なことを、彼は言うような人間だっただろうか。けれど胸の奥に緋色が宿る。早く会いたいと、あの、取らなかった手を握りしめたいと、そんな衝動に駆られる。
「真太郎」
「……なんだ?」
「お返しだ」
「ふっ……。お互い、丸くなったものだな」
「爺臭いことをいうなよ。それじゃあまた」
虫の音も、遠くから聞こえるアラベスクの音もまだ耳の中に響いてくる。それは彼のゆったりとした低い声に交じって、赤司の心に紅色の牡丹の花を咲かせるようだ。
電話でよかった。声だけだから、彼と言葉を交わすことができる。否、言葉でしか交わせない。
そんな空間を、今まで持ってはいなかったから。
どこか心の中で絶対的にあると思っていた溝が、その言葉で埋められていく。

僕らには、話し合うと言うことが足りなかったのだと、そう思う。


***************


京都駅の改札近くは相変わらず人が多い。柱に寄りかかってじっと改札を見る。
遠くからでもわかる。他の人よりも飛びぬけた頭。思わず駆け出しそうになるのをこらえて、柱に寄りかかって彼が自分を見つけるのを悠然と待つ。
彼は遠くからでも自分を見つけたようだ。改札を出て、こちらに真っ直ぐと進んでくる。
「待たせたな」
「いや、それほどでもないな」
三カ月ぶりに見た彼の顔は相変わらずだ。しかし、少し髪が伸びたような気がする。
「髪が伸びたな。後で僕が切ってやろうか」
「……遠慮しておくのだよ」
一年のWCの時に、全員で集まった時のことが頭をよぎったのだろう、少しだけ顔を青くして目を逸らしてそう呟く彼の手元には紙袋がある。
「これは東京土産だ」
「どうも、ご丁寧に。中身はなんだい?」
「和菓子だ。綺麗な造形をしていたからな。思わず買ってしまった」
「そうか。じゃあこれで後でお茶でもしよう」
駅から自分の家に辿りつくまでにはバスを乗り継がなければならない。真太郎の先を歩き、彼の案内をする。
後ろからついてくる真太郎はどこかそわそわした気配を纏っている。彼から一体何が聞けるのか、今まで相対した人間の考えていることなど容易にわかったのに、彼に対してはそうではない。それが、とても心躍る。
バス停を降り、道を歩く。この辺りには観光客が訪れるような寺社は無いため、閑散としている。真太郎はきょろきょろと周りを見やりながら自分のあとをついてくる。その視線は、どこか検分するような色を含んでいた。赤司にはそれが奇妙に思えた。
時間はもう既に三時を回っている。お茶をするにはちょうどいい時間だ。きっと彼は家の中で「伝えたいこと」を伝える気は無いだろう。ならば自分が先に、彼に見せたいものを、彼と共に見たいものを、与えたいと思う。
真太郎の持ってきた土産は上品な味で、色彩も美しく、それを食べるのが勿体ないほどだった。練りきりのグラデーション。それは椿の花をかたどっている。いつだか彼を椿の葉に例えたことがある。それは今も変わらず、ここにこうやって存在している。
「まだ時間があるな、どうだい、一局」
将棋盤を机の下から出すと、緑間がふっと笑う。その唇は美しい弧を描いて、目元は緩んでいる。
そんな顔もできるようになったんだな、僕の知らない間に。
けれど、この先伝えることで、僕はきっと彼の新しい一面を傍で見続けることができる。それならば、その空白を埋めることも容易いだろう。彼が自分の提案を呑むことを前提にした空想に、赤司はふっと笑った。
将棋盤の上で駒が進む。一つ、二つ、手元に増やしながら。
こうやって、僕たちは傍にいた。
懐かしさと、そして変わることなく彼の眼に宿る炎に胸が苦しくなる。
こんなにも、こんなにも会いたくてたまらなかった。
今すぐに触れたい思いを、理性で掻き消して、王手を指す。

「緑間、ちょっと外にでないか」
「ああ、構わないが」
将棋を指していたらもうすでに夕暮れになっていた。少し寒そうな緑間にマフラーを差し出し、靴を履く。
今日は晴れだと天気予報は告げていた。日は西に傾いている。間に合うだろうか。
少し早めに歩く自分のあとを、緑間はついてくる。
思えば今日は彼と並んで歩いていないな。
彼と僕が知っている場所を歩けば、きっと彼は僕の隣を歩くのに。

川の流れは今日もゆうるりとしている。
そこには一面の枯れた葦の色が広がっている。
夕焼けは緋色にそれを照らす。赤銅色の土手の坂。ああ、あの時と同じ。そして、この手は今、彼の手を掴むことができる。
「ここは、僕がランニングコースにしている所でね」
春の新芽と、夏の草原を語る。そして、一度見た、あの赤銅色を。
「僕は、これをお前と一緒に見たいとそう思っていた」
右手を伸ばすと彼の手がそこにある。今日はテーピングをしていない、彼の素肌。
触れた時に、ピクリとかれの手が強張るのがわかった。けれど、一度触れてしまったら止めることはできなかった。二人を照らす日の光を遮るように指を絡め、手のひらに宿る闇すら入る隙間を与えないように合わせて。
融け合うような幸福がそこにあった。緋色の光に照らされながら、確かに幸福と感じた。
「赤司」
絡めた手を握り返しながら、緑間が口を開く。
「こんなことを言うのは変かと思われるかもしれないが」
「珍しいな、お前がそんな前置きをするなんて」
「……一年の時に、夢を見た」
葦の野原の夢を。枯れた葦が燃えていく夢を。
その日から、あの緋色が離れないことを。
「水の中に沈んでいく時に、青い空が緋色に、紅色に染まっていくのを見た」
緑間は続ける。あの夢を、今でも鮮明に覚えている。
「その日から、赤い色が気になっていたが、けれど身の回りにある赤は、俺の求めている赤ではなかった」
「……それは、期待してもいいのかな」
「……そうだ。赤司、お前のことが、ずっと離れない」
緑間がこちらを見る。ああ、人間は考える葦だと、そう例えた人間がいた。僕は葦だ。彼の瞳の中にある炎に焼かれて、焼かれて、空を染めていく葦だ。
「なあ、真太郎。僕は大学は東京の方に行こうと思っている」
「……」
「お前はもう、進路は決めたのか?」
「それを聞いておいてよかったのだよ。俺は京都の大学に進学するつもりだった」
「ふっ、考えていることは同じようだな」
「まったく、お互いこういう所をちゃんと相談しないところが良くないな」
「まったくだ」
日が沈んでいく。山際から緋色に、鳥の子色に、水色に、青に、群青に、溶け合い、交じりあいながら空は星の姿を現していく。掌が熱い。自然と彼に身を寄せる。彼からも身を寄せてくる。布の奥から伝わってくる熱は、日の光のものでは無い。それは確かに彼の体温で、自分の体温で、穏やかに、穏やかに心臓を暖めていく。
「なあ、真太郎」
「なんだ」
「僕の傍にいてくれないか」
ずっと伝えたかった。この言葉を。ずっと見せたかった。この景色を。
彼と共に、これからも、同じ景色を見て、そしてそれを話したい。
「俺も、そう考えていた」
「そうか」
「進路を書きなおさねばな」
「東京に?それとも京都に」
「東京だ」
「僕にそっちに来いって?」
「ああ」
「ふっ。僕にそれをはいと即答させるのは、真太郎ぐらいなものだよ。ただし条件がある」
「なんだ」
「僕と、一緒に暮らすことだ」
彼の顔を見上げてにやりと笑う。彼は虚をつかれたようで、目を微かに見開いている。指の熱が熱くなる。陽射しの中で見たら、きっと彼の顔は赤くなっていることだろう。
「……わかった」
真太郎は背を曲げて、僕の肩口に顔を埋める。暖かな場所が体に増える。
「今度東京に行くよ。部屋を探そう」
「まだ二年だ。それは早すぎやしないか」
「それもそうだけど、どんな部屋があるかぐらいは見ておいて損はないだろう?」
「……それは、そうだが」
「その時には京都の土産を持っていくよ」
「別にそんな気を遣わなくてもいいのだよ」
「いいや、僕がしたいことだ」
何かを与えたいと、自ら動いたのはそうそうないことだな、とふと思う。
彼の口に合うものを、選ぶのが楽しみでたまらない。
「一緒にいよう、真太郎」
「……ああ」
彼の背を抱きしめる。闇の入る隙間もないほどに。
そう、僕の恋はきっとこれから彼に伝わる。
燃える葦の野原に立つように。
 
灰になっても。



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この度はこのような素敵な企画に参加できまして、本当にうれしく思います。主催の恭也様にはとても感謝しております。いつも書いているものよりも、少し甘めに仕上げました。二人の間に言葉があれば、もっと上手くいくのではじゃないかと、そんなことを考えながら書いておりました。皆さまに少しでもお楽しみいただけましたら幸いです
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