夜が近づけば近づくほど、学校はいつもと違う表情をする。

部室の鍵を施錠しながら、赤司はぼんやりと夕闇に熔ける校舎を見つめる。
静観な佇まいとは裏腹に賑やかな筈の学び舎は、生徒がいないだけでこんなにも雰囲気が違うものかと考えながら。

カチャリ。
ノブを回して鍵がかかっているのを確認したあとも、赤司は強いひかりを宿した眼差しを校舎に向け続けている。
夏のぬるい風が赤い髪を揺らし、通り過ぎざまに自身の頬を擽った。

「おい。ぼうっとするな、赤司」

傍らから投げられた声にゆっくりと振り返る。
そこには、腰に手を当てて不機嫌を隠そうともしない緑間が厳しい光彩を眸に滲ませ、赤司をねめつけていた。

主将、副主将という立場柄、ふたりが共に帰路へ着くことは少なくない。
今日も練習後にミーティングを重ねており、気がつけば太陽が沈みきる間際となっていた。

夏の夕暮れは、兎角ゆっくりだ。
夕焼けの遅さに惑わされたふたりが部室から出るときは、部活終了時刻からゆうに一時間半は経過していた。
赤司は二度ほどぱちぱちと瞬きをすると、口元に弧を描き、長い睫毛の影を頬に落とした。

「そうかっかするな」
「していないのだよ」
「…眉間に皺が寄っているのにか?」
「そんなことはどうでもいい。それよりも、早く帰宅せねば門が閉じられてしまうだろう」

眼鏡のブリッジを上げ、緑間は敷地内に閉じ込められてしまう可能性を示唆する。
しかし、それはそれで楽しそうだと思ってしまうのが赤司という男だった。
夜の学校に閉じ込められるなんて経験は想像するだけで甘美で、口元の笑みを抑えることが出来そうにない。

「いざとなったら門を越えていけばいい」
「却下だ、バカめ」
「本気なのに」
「尚悪いのだよ」

肩にかけたエナメル質のスポーツ・バッグの位置を調整しながら呟かれた言葉は、いつもより喜色に染まっている。
聡い緑間はもちろんそれに気づいていたが、最早返す言葉もなく、不平を溜め息に孕ませた。

ここで論舌を繰り返しても、誠に遺憾なことであるが、たまさか言いくるめられるのがオチだと予想がつく。
赤司相手に言葉で勝てたことは、今まで一度もなかったから。


赤司は部室のスペア・キィをエナメル質の鞄へ適当に放り投げた。
音を立ててチャックを閉じると、緑間へ向かって大股で数歩進み、その隣へ当然のように並ぶ。
口元へ薄らと笑みを浮かべて上目がちに微笑んだ赤司はどこまでも楽しそうで、厄介そのものだ。

「じゃあ帰ろうか」

誰のせいで帰路に着けなかったのか。
その事実は華麗に棚上げされ、どこか得意げに赤司は告げた。
隠そうともしない溜息を緑間がもうひとつ零したのを皮切りに、ふたりはようやく歩み始める。
校門の傍らに咲いたひまわりが、ひっそりと夕焼けを反射している。





住宅街を通り抜けていると、そこここでこうばしい香りがする。
十八時も半ばを回った時分。
そろそろ夕御飯の準備をどこの家庭も整えているのだろう。

そんな中を緑間とふたりで歩いているのは、なんだかとても可笑しく思える。
赤司はついついゆるんでしまいそうになる口元を叱咤し、他愛も無い会話に耳を傾けた。


ふたりが話す内容はいつだってとりとめもないことだ。
バスケの話が中心になるのは勿論、小テストや昨日何気なく見たニュース、そして次の日曜日の予定など話題は尽きない。

赤司も緑間も、元々口数が多い方ではない。
相手の話を聞き、相槌を打って、時折静寂が場を支配することもある。
しかしその沈黙は決して嫌なものではなく、寧ろどこか安堵するような、穏やかな時間だった。
少なくなってきた蝉の声を聞きながら交わされる会話はどこまでも尊いものであると知っていた赤司は、彼の言葉をひとつも取り零すまいとしていた。

「そういえば明日の練習はどうする。たしか監督やコーチもいないのだろう?」
「ああ。ちょっと別チームの視察に全員で行くようでね」
「そうなのか」
「特別なことをやろうとは思ってないさ。いつも通りの基礎練習とコート練。練習はすべてオレとお前に一任してくれるみたいだから、頼むよ。副主将?」

揶揄まじりに微笑まれた緑間は、思わずその表情に見蕩れてしまう。
決してそんなことを言うつもりも悟らせるつもりもないけれど、微かに朱色に染まった耳殻は隠しようもない。
わざとらしく咳払いをして「当然なのだよ」と諾う声。赤司の口元へ弧が描かれる。

素直じゃないなあ。
指摘すればりんごにも負けぬほど顔を真っ赤にして憤怒されることは間違いない。
しかし緑間の矜持を擽るような真似をするほど、赤司は子供ではなかった。

十字路の角を曲がると、ふと車道と歩道の段差が目につく。
それを見遣り、ふむ、と赤司が顎に指先を置くこと数瞬。
あっと緑間が思うよりも早く、その段差に脚をかけて歩み始めていた。

「危ないぞ」
「平気だ」

赤司は僅かに高くなっている歩道と車道の境界線である段差を器用に歩んでいる。
わざとらしく両手を伸ばしてバランスを取り、時折鞄の重さにふらつくふりをする。
いつ転倒するのかと気が気ではないが、赤司に限ってそんな失態をするわけもない。

どうせ咎めても、いたずらに微笑むだけなのだろう。
今まで赤司と過ごした時間から容易に判断できる事象に、緑間は溜め息をひとつ吐き出した。

「なんだ。もう注意してくれないのか」
「注意されたかったのか?」
「というより、お前を怒らせてみたかったって言い方が正しいかな」
「…傍迷惑なのだよ」

ほとほと呆れ果て、むっつりと閉口した綺麗な横顔を見つめた赤司は、くすりと音を立てて微笑む。

緑間の嗜める声音がすきだ。
まるで彼の演奏するピアノの音色のように澄んだ、すこし低めのテノールはどこまでもこころを落ち着かせてくれる。
好きな子を苛めるのではなく、自分のことでちょっと困らせたいのは、男子の共通心理なのだと思う。

とん、とお行儀よく脚を揃えた赤司が、歩を進めるのを止めた。
それに気付いた緑間も両脚の動きを停止させ、じっと赤い髪が湿度の高い風に攫われる軌跡を追い続ける。
夏が終わりそうな香りだけがふたりの間を通り過ぎた。

「緑間」

真直ぐと前を向いていた赤司は、くるりと身体を反転させた。
アスファルトの段差のお陰で、平生よりも断然目線が高い。
それでも緑間の身長には敵わないが、強い虹彩を滲ませる赤司の眼差しを真正面から受け止めた緑間は思わず息を詰める。

黄昏よりも、ふかいあかいろ。
陽光を反射してきらめく眸は、どこかきんいろを帯びているようにも見えた。

ぞっとするような美しさに緑間の喉が無意識に嚥下する。
赤司はその瞬間を見透かし、彼の首元を締め付ける漆黒のネクタイをぐっと自身に向かって引き寄せた。


制止の声をあげるよりも早く、口唇と口唇が触れ合う。
常なら屈むはずの身長差は段差によって補われ、緑間はまるで別のひとと口付けているような錯覚に陥った。
しっかりと閉じられた長い睫毛がぼやけるほど近い距離なんて、赤司以外に味わったことがないというのに。

ふれるだけの、くちづけだった。
赤司は決して舌先を咥内に滑り込ませようとすることなく、ただひたすら自身の熱を分け与えるだけ。
上口唇を食むようにやさしく交わされるキスに、緑間も長い睫毛の影を頬に描いた。

ちゅ、とわざとリップ音を立てて口唇を離す。
地平線にほとんど隠れた太陽が、赤司の表情をより淫靡に変貌させていた。

「…怒らないのか?」

小首をこてん、と傾げて微笑んでみせる赤司は、どこまでも緑間の神経を逆撫でする術を知り尽くしている。

当たり前だ。
こんな道の真ん中、しかも誰が通るともわからない往来で、くちづけられて怒らないわけがない。
だが、その怒りよりも先に、赤司の思い通りになるのはもっと腹立たしい。

僅かに顎を引いた緑間の目元を、深緑に染まった前髪が覆い隠す。
表情までも悟らせないような翳りに、これはやりすぎてしまったかと赤司が詫びようとした瞬間。
きっと鋭利な眼差しを一度向けられたかと思ったら、襟首を乱暴に引かれて口付けられていた。

力任せにされたくちづけは、微かに痛かった。
鉄の味がじわりと滲んでいることから、口唇のどこかを切ってしまったのだろうか。
しかし、それよりも緑間から与えられるくちづけなどそれこそ稀有で、痛みよりも嬉しさの方が勝る。

一度口唇が離れたと思えば、また引き寄せられるようにくちびるが重なる。
いつも強情な五月の若葉に似た双眸はしっかりと閉じられており、赤司もゆっくりと瞼をふるわせて視界を閉ざした。
やわらかな器官同士が触れ合う感触だけがやけにリアルで、微かに爪先立ちをしたまま、たまらず緑間の肩へ手を置いた。

薄く開いた歯列の隙間から、舌先が侵入するのを拒む事無く迎合する。
舌先が触れ合った刹那。
一瞬、戸惑うように離れるそれは、緑間の将棋の打ち方を思い出させる。

どこまでも慎重な男だ。
赤司が踏み込ませまいとしているボーダー・ラインを聡明にも見極め、いつだって足踏みをしている。
そのくせ時折こんなふうに、驚くような自然さで熱を与えるのだから性質が悪い。

緑間からしたら、赤司の方がよっぽど性格が悪いというのだろう。
しかし、意図せずして発露される慕情は、時として画策を上回る。

もっと熱をくれと言わんばかりに、緑間の腕が赤司の細い腰を包む。
それに負けじと緑間の後頭部へ掌をすべらせ、互いが互いの熱を文字通り貪った。

は、と、微かに乱れた呼気を口唇で感じる。
鉄の味だけが舌先へと、じわり、熱の残滓と共に残り続けている。
ふたりを繋ぐ淫猥な銀糸が、とっぷりと暮れた夕暮れに反射して微かに煌めいた。

互いの乱れた呼気と、上気した頬の赤みが薄れた頃、ふ、と赤司が苦笑を浮かべる。
仕方がないなと言いたげな双眸が、緑間は存外嫌いじゃなかった。

「お前はずるいな、緑間」

珍しい表情だった。
まさかそんな顔をされると思わなかった緑間は、数度驚いたようにまばたきを繰り返すが、次の瞬間、勝ち気に微笑んで高慢に告げた。

「そんなことを言って、…本当は、こうされたかったのだろう?」

フン、と得意げに鼻先で笑んだ緑間は、スリー・ポイントが決まったときと同じ表情を浮かべている。
判りやすい優越に眸を見開くものの、すぐにそれは形を潜めて微笑へと変わる。

赤司の意表を突けたことがそれほど嬉しかったのか。
常は真一文字に引き結ばれている口唇は線対称に吊り上がっていた。
引き寄せられた反動で段差から落ちてしまった赤司は、いつも通りの目線から緑間をじっと見つめる。

ああ。
この男の、こういうところが気に喰わないのに。
なぜだろうか、とてもいとしいとも思う。

赤司は自身の腰に回されていた左腕をゆっくりと外す。
するり、テーピングされた指先を一度撫で、保護された皮膚へ恭しくくちづける。
そのまま上目がちに緑間を見つめた緋色の双眸は、獰猛な美しい獣を彷彿とさせるほど強いひかりを放っていた。

「…よくわかっているじゃないか」

とん、と背伸びをして、凡そスポーツをしているとは思えない、しろい頬へくちづけを落とす。
夕焼けはいつの間にか姿を消し、真夏の夜だけがふたりを包み込んでいた。



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大変浮いている自覚はありますが、とても楽しく執筆させていただきました。赤司くんと緑間くんは早く結婚するべきです。ご参加ありがとうございました!
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