プールは好かない。海の紛い物だから。そう言ったら、バスケットボール部の同輩である黒子がぽかんとした表情になったことを、緑間は覚えている。普段感情の起伏が少ないだけに、ひどく印象的だったのだ。「緑間くんは海を好きなんですか」「好きだ」あまりにもきっぱりと即答した緑間相手に黒子は狼狽さえ見せた。「綺麗だからですか」「汚いものは好きではないのだよ」「じゃあ、青いからですか」「なんなのだよ。その質問は」「だったらどうして海が好きなんですか」「命の根源だから」「はあ」
命の根源は海からきているのだということを、緑間が疑ったことはない。それは歴史的にどうのこうのなどということではなく、単純に彼が海を好いているからだ。そんなものなんの根拠にもならないと言われても、緑間にとって、命の根源は海という理由は、自分が好きだからという以上のものはない。自分が好きだから海は命の根源で、海が命の根源だから自分は好きなのだ。髪から滴った塩素の匂いが染みたカッターシャツの襟首を気にしながら、これは一種の必要十分条件だなと呟いた。黒子からの応えはなかった。聞こえていたのかどうかもわからない。でもきっと聞こえていたところで、彼は返事などよこさなかっただろう。命題は苦手だと言っていたから。
その日のことを思い出すと、緑間はいつも少しだけ気分がよくなる。
合宿のプランを赤司と二人で決めることになった今もそうだった。迷わず、場所は海がいいと言った自分相手に「海が好きなのか」と赤司が問うたものだから、ついそれを脳裏に蘇らせ、らしくもなく饒舌になってしまったのだ。黒子へ向けたものと変わらない言葉を赤司相手にすべて言い終えたところで、ようやく失態に気づいた。塩素の匂いなどどこにもない。あるのはストーブで燃える石油の匂いだけである。それから、黒子ではなく、赤司の姿。
足元の冷たい空気が身を強張らせた。勝ちの見込めない勝負をしかけたことは、これまでになかった。それは緑間が弱者の立場になることが少なかったせいもあるが、彼が極端に敗北に怯えているせいもあった。緑間は見た目にそぐわないが、まるで野性の獣のように生きている。敗北を死だとどこかで思い込んでいる節があるのだ。
今の緑間は喉仏に鋭い爪先を沿わされた気分だった。赤司は強者だ。抗いようもない事実である。さめるように鮮やかな赤い双眸に捕まってしまうと、もう動けない。なんと論破されるのだろうか。長々と吐息することで震えを誤魔化す。
「自分が好きだから、命の根源が海か。いいな、きっとそうだろう」
「え?」
ゆっくりと目を瞬いて、緑間は首を傾げた。ぽかんとしたその顔を見て、赤司が笑った。放課後の教室は、夕日に満たされていて、彼の真っ赤な髪との境界があやふやだ。
「思いの外、子供みたいな反応をするんだな」
真太郎は。
そう呼ばれて、身内以外からは慣れない呼び方に思わず体が跳ねる。肩から羊の顔のついたブランケットをかけている赤司のほうがよほど子供のように思えるというのに、そんなことさえ言えない。赤司は、周りを名前で呼ぶ男だった。緑間はその呼ばれ方がいまだに慣れやしない。だが、きっとこの強者は自分の意見など聞いてくれないだろうと諦めているところもあって、今では甘受するように心がけていた。
だのに、持論がすんなりと受け入れられてしまったものだから、肩透かしを食らった気分だった。首の位置を戻して、目線を逸らす。
「まさか、お前が頷くとは思わなかったのだよ」
「歴史的なことを言われるより、俺にはよっぽど納得できることだ。真太郎は、海に母を見ているのかもしれない」
「母親はちゃんといるのだよ」
赤司が口元を隠した。大真面目だな。その声の端々に堪えきれなかった笑いが滲んでいる。
「なんなのだよ」
自ずと、不機嫌さを孕んだ声音になる。赤司は適当に相槌を打ってから、「かわいいな、真太郎は」と臆面もなく言ってのけた。
ますます緑間の機嫌は下降を辿る。
「嬉しくない。羊のブランケットなんて持っているお前のほうがよっぽどかわいいんじゃないか」
「ああ。確かにかわいいな、これは」
盛大に皮肉をこめたつもりだったのに、素直につまんで確認した赤司があまつさえ、肌触りもいいんだと差し出してくるものだから、無性に悔しくなって見て見ぬふりをする。丸めれば、羊のぬいぐるみになる仕様のようだ。赤司はこうしたかわいらしいものから、どこで手に入れるのかわからない謎のものまで、色々と学校に持ち込んだ。どうやら朝のニュースでの自分のラッキーアイテムらしい。
一文字に結ばれた緑間の唇を見て、肩を竦める。
「まあ、いいか。そんなことは」
ブランケット越しに自らの肩を抱いて、赤司が頷いた。周りと比べると小柄なせいか、腕の細さが目立つ。
「人事を尽くして天命を待つ、この言葉を知っているか」
突然なんのことかと思ったが、緑間が黙って頷くと、赤司はさすがだなと感心したように言った。あんな言葉が瞬時に思いつく赤司にそう言われると、嫌味にしかとれないのが現実である。唇を尖らせかけて、先刻言われた子供っぽいという言葉を思い出して、きつく引き結んだ。顎でしゃくって続きを促す。
「人事を尽くして天命を待つ。力のあらん限りを尽くして、あとは静かに天命に任せる。まあ、文字通りの意味だな」
辞書そのものの解説が始まってすぐあたりで、緑間は頬杖をついた。
「それでなんなのだよ」
「さすがに傷つくぞ」
豊かで長い緑間の睫毛が揺れて、口元が少しだけ綻ぶ。機嫌は上向き加減になってきているらしいと悟って、やはり子供のようだ、と赤司は思った。それを言ってしまえば、きっとまた気分を害するのだろう。そのわかりやすい性格が嫌いではなかった。
「赤司?」
「いや。なんでもない。人は母親の胎内でもそうなんだ」
「人事を尽くして、天命を待つ?」
「栄養を吸収しながら、羊水に浮かんで時を待つだろう」
緑間が納得して頷く。
「それで、その羊水は海水と成分が似ているんだよ」
人は母の海の中で育っていくんだ。
翡翠石を孕んだ広大な海で魚が泳ぐように、人間も受精後すぐは羊水でエラ呼吸をして過ごす。それは自分も彼もまた同じことだ。陶器のような白い緑間の頬に、赤司は手を伸ばした。触れると、なめらかな肌理が指の腹によく馴染む。びくり、と震えた緑間が目だけで冷たいと訴えたが、無視をした。
「海を好きだというのは、暗示なのかもしれない。胎児のときのように、力を蓄えて時を待てば、お前にはこれからまた新たな世界が切り開けるという」
言い終えると、とうとう冷たさに耐えられないと、緑間の手が赤司の腕を掴んだ。引き剥がしたそれを律儀に机へ置いてやって、溜息をこぼす。
「それなら、それなら、赤司。そうなったとき、お前はどうするのだよ」

終礼のチャイムが緑間の意識を呼び戻した。木漏れ日が、思い出に誘っていたようだ。教室は急速に騒がしくなっていくが、緑間の耳には入ってこなかった。あのときから。胸のうち、繰り返した。あのときから、人事を尽くして天命を待つ、を座右の銘にすることにしたのだった。赤司という存在は、動かす力があった。緑間は人事を尽くすのだからと言って、おは朝の占いを毎日見ることも心がけた。思えば、今の自分をつくっているのはすべて赤司からの受け売りだ。思いの外、影響されやすいということに一番驚いたのは緑間自身だった。
あのあと、赤司はいったいなんと答えただろうかと考えた。何故だかどうしてもわからなかった。でもきっと、赤司は赤司なりに運命を切り開くのだということを言ったのだろうとしか思えなかった。

「お前の隣にいられればいい」

あの日、ぽつり、と呟かれていた言葉が自分の耳に届かなかったことなど、緑間は永遠に知らない。緑間が赤司につくられているように、赤司は緑間につくられているのだ。それは、夕日が海に向かうから二つが重なり、海が夕日を待っているから二つが重なることと似ているのかもしれない。つまり一種の必要十分条件。
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