何を喜ぶのか分からなかったのだと、彼はそう云った。やたらと広いミーティングルームの片隅に、大きな男が二人、じっと向かい合って座っている。動いているのは音をたててひたすらに働く、古びた石油ストーブだけだった。ごうんごうん、と鼓膜に障る鈍い音が響く。赤い光源が彼の虹彩をやさしいコーヒー色に染めた。
申し訳なさそうに視線を下へ落とす緑間を見つめつつ、俺はくるくると地球儀の表面を指先で廻していた。今日一日の、彼だけのための神様だ。今日の運命はきちんと補正されていたのだろうか。俺が見ていた彼はずっと、難しい顔をしていたけれど。
ニューヨーク、マドリード、イスタンブール、ナポリ。一度も行ったことのない都市の名前を、丁寧な素振りでなぞる。居心地悪そうにする彼を置き去りに、小さな地球はもう一度だけ朝と夜を迎えた。神様はこんなにもちっぽけだ。

「すまない」

こぼれたか細い彼の謝罪は、ストーブの不気味な稼働音に埋もれる。二人だけのミーティングルームは酷くがらんどうで、静寂の隙間に耐えるように、緑間は長い指をゆっくりと組み替えた。それを目の端に捉えながら、ようやく俺は口を開ける。緑間。稼働音が少し、大きくなった気がした。ごうんごうん。彼が顔を上げる。
緑間、お前は、何も分かっていないよ。ぱちりと睫毛が上下する。「すまない」聞こえたのは二度目の謝罪だった。謝らせたい訳ではなかったのに。ああほんとうに、こいつは何もわかっていないじゃないか。

「お前は、不慣れなことをするには面倒な性分だな。自覚はあるかい」
「………だから、すまないと」
「ちがう。俺が責めてるのは、そこじゃあない。考えてごらん」

手持ち無沙汰になり、地球儀を指で弾いた。す、と彼の眉根に皺が寄る。考え込むときの彼の癖だ。これは長考になるかもなあと、そんなことを考えつつも、彼の輪郭から視線を外すことはしない。物事の判断には聡明に回る脳味噌も、人の感情について考えるときばかりはあまりにも鈍感だ。暫しの沈黙をはさんで、投了だ、という声がした。こんな些細な敗北にも彼は悔しそうだった。
くるくると、いまだ回っている球体を見る。少しだけ、似ているなと思った。ぶれない軸のように懸命で、同じ場所を回り続けるその滑稽じみたところが、特に。

「答え合わせをしようか」
「ふん、まるで謎々みたいな口振りだな。あんなもの不愉快だし、何より無意味だ」
「そうだね、無意味だ。だからこれは謎々で正解なんだよ。お前の苦手なね。いいだろう、お遊び程度の意趣返しくらい」

俺の、本当に欲しいものをくれない彼への、ささやかな嫌がらせだった。彼の先程までのしおらしい態度が一変する。どうにもこういった悪意には敏感らしい。緑間はこちらをじろりと睨みつけてくる。その視線に、恐怖よりも安堵を覚えた。いつもの彼だ。しおらしいなんてことばで、お前を修飾しようだなんて。今思うと少しばかり笑えた。やはり、慣れないことはするものではないね、緑間。

「今日はさ、特別な日だよ。俺にとって」
「知っている。だからこんなにも俺は頭を抱えているんだろう」
「知っていても、分かってはいないよ緑間は」
「じゃあお前は、一体俺の何を責めたいんだ!」

決定的なことが何一つ伝わらない彼に、ため息を零す。暖められた温い気体が揺れた。
今はもう、球体は完全に止まっている。煩わしいストーブの稼働音も聞こえない。何の物音もない冬の日は、驚くほどに静かだった。もしかしたら、あの日は、こんな風だったのかもしれない。そんな幻想じみたことを思う。そうだったら、いいのに。人間が産まれてくる、その瞬間は、こんな風にささやかであるべきなのだ、きっと。「せめて、しあわせそうであって欲しかったんだよ」誰かのしあわせを祈るみたいに。


「一体どういう意味だ。祝福されるべきなのは、しあわせそうであるべきなのは、お前のはずなのに」
「確かにそうだろうね。でも、祝福もしあわせも、一人だけでというのは、寂しいだろう。俺はね、緑間。今日、お前にも笑っていてほしかったよ。」


静かに立ち上がる。彼に一歩ばかり近づいて、いつもとは違う、低い位置にある彼の頬に手をあてた。ストーブのせいだろうか、いつもより体温が高い気がする。ひたりと視線が交わって、溶けた。


「ちがう、俺は、お前を喜ばせようと、」
「うん」
「したんだけれど。分からなかった。難しいな。誰かを特別に思うほど、上手な祝福の仕方が見えなくなる」
「うん、そうか。そうだろうな。お前は下手くそで不器用だから」
「赤司、」
「何だい」


誕生日、おめでとう。目尻が微かに緩んで、ほどけるように微笑む。彼のその静けさを孕む笑顔が、好きだ。それだけでもう、堪らなくうつくしいくらい、祝福だった。「ありがとう」粗末な部屋の片隅で、二人して狭く小さく笑った。

この特別を終わらせるなら、神様。それを恐れる隙間もないくらいに、自転を早めてくれやしないか。例えば地球儀を回すようにたおやかに、静謐に。それをくるくると回す手が、ゆるりと微笑む、お前のものだったらいい。



−−−−−−−−−−



素敵な赤緑企画をありがとうございます。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -