※大学生







ちかちかと点滅する小さな光が着信を知らせる。僕はソファの上で熱いコーヒーを飲みながらコクトーの小説を読んでいた。

「もしもし」

外は雨が降っている。ざあざあとうるさい雨でも、傘無しで歩けるような弱い雨でもない。今日の昼過ぎに降り出して、明日の朝までしとしとと静かに降り続くような、そんな雨だ。

赤司、と聞き慣れた声が僕の名前を呼んだ。

「傘が無い」

「今どこにいる?」

「図書館なのだよ。家を出る時には降っていなかったのだが」

「分かった」

通話を終えると僕は黒いシンプルなコートを着て、飲みかけのコーヒーをシンクに捨てた(どうせ戻ってくる頃には冷たくなっているだろうから)。
それからどこにでもあるような透明なビニール傘を二本手に取り、少し迷って濡れても良いように履き慣れたスニーカーを選ぶ。扉を開けた途端、頬に触れた外の空気はしっとりと冷たかった。



恋情を込めて彼に触れたのはただ一度きりだった。
あの日も雨が降っていた。やはり空気がひやりと冷たくて、校庭には山茶花が咲いていた。
ぱたぱたと駐輪場の薄いトタン屋根を打つ雨の音と、時折彼がノートにシャープペンシルを走らせる音しかしなかった。まるでそれ以外の音という音が世界から消えてしまったのかと思うくらい静かな部屋で、僕は頬杖をついて彼を見上げた。

「雨だよ真太郎」

そう言うと、彼は此方を見てからぼんやりと窓ガラスに目を遣った。僕も一緒になって横目で音もなく窓ガラスをつたう雨滴を見ていると、彼がふと「まるで水の中にいるみたいだ」と言った。全くその通りだった。

「真太郎は雨に似ているね」

「そんなことを言われたのは初めてなのだよ」

「初めて言ったからね」

彼がくすりと笑う。
それは真っ直ぐに僕のこころの一番奥へ届き、じわりとそこをあたたかくした。どうしてか分からないけれど、彼は僕にとって特別だった。
そっと手を伸ばして彼の指先に触れる。彼は制服の下に深緑色のカーディガンを着ていて、寒いと言っては指先で引っ張るものだから、袖口が少しくたくたになっていた。手の甲を覆うようにひたりと重ねると、そのくたくたな袖口に隠れていたところは僕の指先よりも幾分温かかった。

「冷たいな」

そう言って彼はふっと顔を綻ばせた。
決して拒絶された訳ではない。あるいはその表情は幸福そうに見えたかもしれないし、きっと許されたのだと思う。
けれど僕は何も言わなかった。彼との間に透明なガラスがあって、水の中にいるのは僕ひとりのような気がしたのだ。冷たい水の中に彼を引き入れてしまうには、僕はあまりにもこどもだった。

そういった訳で、僕は雨が降るとその時のことを時々思い出す。彼の中でどういった思い出になっているかは分からない。ただ僕が雨が降る度に彼を思い出すように、何かが彼の中に残っていれば良いと思う。



閉館間際の図書館のカウンターには本を借りようとする人が列を作っていた。古いけれど、昔から彼とよく利用しているこの図書館が僕は嫌いではない。

「やあ、良い雨だね」

館の一番隅、目立たない窓際で彼は本を読んでいた。声をかけると、彼は顔を上げてぱたりとそれを閉じる。

「すまない。すぐに戻してくる」

彼が読んでいたのは小説ではなくて、どちらかというと児童向けに近い写真がメインの星座の図鑑だった。きっとすぐに帰れるように暇つぶしに読んでいたのだろう。コートを着て荷物も全てまとめて僕を待っていた彼を可愛らしい、と思った。

図書館を出て、僕達は隣の公園を突っ切って帰ることにした。公園と言ってもそこには小さな噴水とベンチがいくつかあるだけで、誰もいない雨の日のベンチは寂しげに見えた。

別に、今までだってふたりで歩く機会が無かった訳じゃない。今日に限って特別な何かがあった訳じゃない。
けれど、今日僕は再び彼の体温を感じることになる。理由付けをするならば、きっと雨がそうさせたのだと思う。
触れてきたのは、彼からだった。

「冷たいな」

温かい指先が冷え切った僕の手に触れる。彼が着ていたのはもちろんあの時のカーディガンではないけれど、紺色のセーターの袖口はやはり引っ張られて少しだけくたくたになっていた。

「傘。助かったのだよ」

そう言って、彼の頬がほんの僅かに赤くなった。
ああ、馬鹿だなぁ。お前はほんとうに馬鹿だよ真太郎。
僕は頭の中で呟く。随分と長いこと、猶予をあげたつもりだったのだけれど。

「お前、わざと傘を忘れただろう?」

僕はにやりと意地悪く笑う。はっと瞠目した彼は慌てて手を引っ込めようとした。けれどそれよりも早く、僕の手が彼の手を捕まえた。傘を持っていなければ、もう片方の手も使えたのに残念だ。

「ねえ僕に会いたかった?」

「何を言って、」

「僕は会いたかった。アパートの部屋で雨の音を聞きながら本を読んでいて、隣にお前がいたらどんなに素晴らしいだろうと考えていた」

彼は呆けたように僕の顔を見ていた。力の抜けた手から傘が滑り落ち、それは足元でぱしゃりと音を立てた。せっかく持ってきたのに。

「好きだよ真太郎」

僕は傘を彼の頭上に差し出し、濡れないように距離を縮めた。

「いつから?」

「ずっと前から」

長い沈黙のあと、触れた指先がそっと僕の手を握る。彼は相変わらず黙っていたけれど、それだけで充分だった。

「コーヒーでも飲まないか」

「赤司が淹れてくれるのなら」

「喜んで」

彼が漸く傘を拾い上げる。
僕と彼の透明で小さな空には雨がぱたぱたと降り続いていた。まるで水の中にいるようだった。

「良い雨だね」

ふたりで水の底に沈むのだって、そんなに悪いことじゃない。
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