ぴりりと肌を刺激する張り詰めた空気。それが気持ちいい。おれの唇は自然と撓み、歪な悦びの表情を顕にする。 白刃が煌めく隙間を突き、相手の喉を潰した。途端、息を詰まらせひくり腹を引いたその男を、おれは控えていた左足を振り抜きそこに捩じ込む。ぐにゃり己の足裏でひしゃげた内臓の感触は鮮明。吹き飛ばされていくその巨体を、おれはすうと細めた目で見送る。 ああ、やはり体術も良いものだ。間棒越しでは血湧き肉躍るこの"壊す"とき独特の興奮を、こうも直接は得られない。 腹の底からじわりせり上がってくるものは、くっきりとした死というイメージ。それはいつこの身を食い潰すとも知れない。ぎりぎりの駆け引き。 それが、堪らない。 もっと、もっと、もっと。 空っぽの頭は本能的にその高揚を求め、向かい来る夥しい数の敵の姿に歓喜の感情を弾けさせた。 …ふと、おれは視線を落とした。戦闘が終わったその直後。生臭い匂いがおれの全身を染め上げていた。 血に染まった手のひら。おれの、手のひら。 その赤を見ているとどうしても、おれが初めて殺した"人"を思い出してしまう。 ――変だな。 おれは、思う。 ――ちゃんと今回も、刃物は使ってないのに。 まあそうだからこそ、おれは今こうして発作を起こすことなく立っていられるのだが。 …――血を流すは聖母の微笑み。 己の握り締める調理用具が引き寄せてきたその優し過ぎる人の肌を裂き、心臓を貫く。 言われた通りに事実を歪めるべく、投げ棄てた己の罪の証拠。左胸の奥が五月蝿く、はあはあと訳もなく繰り返される酸素補給によって齎された焼け付くような喉の痛みは、おれの呼吸をいやに乱した。 そして全てを終え、佇んだ赤の血溜まりの中で見下ろした―――…母親の姿。 …今や昔。 あれからいくつも歳を重ねた。もう、全ては過去のことだ。 そのとき刃物を伝って刻み込まれたあの命を貫く、手のひらの感触を除いて。 ちらり、おれが何の感慨もなく視線を向けた甲板にはまだ、先の戦闘の跡が文字通り色濃く残っている。 見えた人の形をした物体。やがては死臭を発するであろう数時間前まで人間だったそれらの中には、大量の血液を垂れ流しているものもある。その殆ど全てがおれ以外の手によって絶命したものであるが、勿論おれが間棒のみを使い何らかの形で血を流させたものもあって。 血など疾うに見慣れていた。人を殺すことも、また然り。 飛び散る赤を見ることは嫌いじゃない。それどころか、爽快感さえ覚えたこともある。幾度も。 しかし、全てが片付いた後。体の細胞全てに染み込んだ赤の香り。爪の奥そして指紋の細かい皺一つ一つにまで染み込んだ、極彩色の成れの果て。汚れた黒色。 それらは今でも、あまり好きにはなれなかった。 殺戮の興から醒め一人現実に戻ったとき、目の当たりにする殺人の跡。撲殺することに躊躇いを覚えなくなったおれの脳味噌はしかしその瞬間だけ、殺めることの意味を少し疑ってしまう。 そんなことは船長を海賊王にする、ただそれだけの為と理解しているはずなのに。 「―――バンダナ?」 そんなとき、おれを見つけてくれるのは決まって幼馴染み。 かつりかつり、近づいてくるその聞き慣れたリズムに、おれはそっと垂れさせていたこうべを引き上げた。 「……体調でも悪いのか?」 「んー…」 眉を潜めたその顔、泣き黒子の直ぐ下までにも飛んだ赤の跡が、そちらもまだ戦闘の後身を清めていないことを伝えてくる。 おれの顔を覗き込まんと窺うようにして静かに伸び、そろり額にかかる髪を退けた手のひら。その、掠めた肌が何故か恋しい。 おれはその手のひらに、無償に触れて欲しくなった。おれの服と手のひらの今の色、そしておれの中を巡る熱とおんなじ、赤に染まったその手で。 …――仲間を見つけた狢(ムジナ)は愚かにも、心からの安堵にわらう。 乾いた暗いその色をしかし、おれにできるだけ触れさせないようにしてくれたのだろう。そんな気遣いが伝わってくるペンギンの動き。 だけど、おれにはそれがもどかしくて。物足りなくて。 「……」 「、バン…?」 今だけ。そう自分に言い訳をしたおれは、目の前のその肩に身を預けるようにして額を押し付けてみた。擽ったいのかぴくり、僅かに身動いだペンギンの体はしかし、黙っておれを受け入れてくれる。それは、柔らかな優しい温度。 だからついつい、甘えたくなってしまう。 「――ペンギン…」 掠れた声でその名前を呼んだおれに、 「何だ」 間髪を容れずに返される、心地のよい低音。 「好きだよ」 囁いたおれのさらけ出しの心は、もうそれ以上は言葉にならない。すがるような愛の言葉。 これは魂からの本音で、何よりも大きな嘘だ。 だってまだまだまだまだ、どれだけ言葉を重ねても――足りない。今おれの心を満たすこの柔らかなものには、到底届かない。 おれはペンギンに一体、どれだけ救われているのだろう。かけがえのない、おれ唯一の理解者。 目の前の人は何も言わなかった。だけど、おれがそれに不安を抱くことはない。その顔を見上げてみようとも思わなかった。 何故ならおれを受け入れるこの静謐な温もりが、何よりも。 …さらり、 ただ一つだけおれの髪を撫でた、柔らかな動き。 その手は、いたく優しかった。 120413
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