あの日を思い出す

菜乃 side

全てを思い出した翌日、わたしは自分の検査が終わったあと、母の入院する病院へと来ていた。

母の名のプレートのかかった病室の前で深呼吸をひとつして早くなる心臓の音を落ち着けた。

コンコン_と病室のドアを叩くと、部屋の向こうからは「はい、」と夢の中で何度も聞いていた母の声が返ってきた。久しぶりに会う筈なのに、この声を聞くのは久しぶりな気がしない。夢の中で何度も聞いた母の声と言葉を思い出すと、目の前の扉を引くのがやたらと重く感じた。

わたしを視界に入れるなり母はベッドから身体を起き上がらせわたしに駆け寄ってきた。そして優しくわたしを抱きしめた。
夢の中で何度も昔の母を見ていたからか、今の母を見ると一気に老け込んだように感じた。わたしを優しく抱きしめてくれる母の身体に、わたしは腕を回すことが出来ないでいた。

罪悪感や恐怖心が心を占めた。

母はわたしの顔を見て「暗い顔してどうかしたの?」と尋ねた。
母の問いかけにどう返答するべきか悩んでしまう。聞きたいことは沢山あった筈なのに、母を前にすると言葉は喉につかえて出てこなかった。

『ご、めん…なさい。』

自然と謝罪の言葉が口から出ていた。涙が邪魔をしてこんなに短い謝罪の言葉さえも詰まってしまう。泣きながら謝るわたしを母は何も言わずに再び抱きしめてくれた。そしてまるで小さな子供をあやす様に背中を優しく叩きながら優しく言葉をかけてくれた。

「どうして謝るの?」
『…全部、思い出したの。忘れてたこと…お母さんが忘れさせた昔の記憶全部。』

わたしがそう言うと母はわたしの背中を叩く手を止めた。だが、すぐに「…そう、」と言って強く抱きしめてくれた。

「…お母さんが菜乃になんて言ったかも覚えてるの?」
『…っ、』
「ごめんね。我が子に“人殺し”なんて酷い事言うなんて母親としてどうかしてると思ったでしょう?…でもあの頃はそんな事も考えられなかったの。お父さんが死んだって事実を受け止められなかった。だからってまだ9つの貴女に当たっていい筈がないのにね。」

時々言葉を詰まらせながら話す母にわたしは何も言えなかった。母はわたしを抱きしめたまま言葉を続けた。

「7年前のあの日、命を落としたのが貴女だったら、お母さんはお父さんに同じ事を言ってたと思うの。お父さんを責め続けてたと思う。家族が欠ける事が嫌だったの。…誰かを責める事しか出来ない自分が嫌だった。貴女の中にそんな母親の記憶がある事も、貴女がお父さんの死で苦しむ事も嫌だった。…だから貴女の記憶を消した。全てやり直したかったの。」
『…』
「でも結局やり直せなかった。今でも貴女を責め続けた事を夢に見るし、先生の許可も降りず、こうして病院生活だしね。」

母は何も言わないわたしの身体を離して、わたしの目をまっすぐと見た。その目には昔とは違って憎しみを宿してはなかった。哀しく、優しい眼差しでわたしを見た。

「貴女が謝る必要ないの。あれは仕方のない事故だったから…。貴女に酷い言葉を浴びせたお母さんが謝らなければならないの。」

そう言ったあと再びわたしを抱きしめて「ごめんなさい。」と震える声で絞り出した。

「菜乃…貴女には前を向いて歩いて欲しかった。…だからって大切だった記憶を勝手に消してしまって良いなんて事なかったわね。」

涙ぐみながら話を続ける母の体を優しく離して、今度はわたしが口を開いた。

『お母さん、わたしの事なら大丈夫だよ。大切だった記憶は今はちゃんと戻ってるし、大切にしたかった人ともまた会えたの。お父さんみたいなヒーローになりたいって思って雄英に入って全部取り戻した。』
「菜乃…。」
『それにね、わたしの記憶にあるお母さんは、こうやって優しく抱きしめてくれて、いつも心配してくれる。とっても優しい人だよ。』
「…」

“前を向いて欲しい。”
母はわたしにそう言ったが、母自身にも前を向いて欲しかった。笑顔で言葉をかけると母は少し困惑していたが少しの沈黙の後、穏やかに笑ってくれた。

そうだ。
わたしが思い出したかった一番の記憶は、お母さんのこの笑顔だ。思えば、いつも母はいつも寂しく笑っていた。きっとわたしを目にする度にツラかったんだ。父を思い出したり、わたしに浴びせた言葉や記憶を消したという負い目…。母もまた、わたしと同じように心にポッカリと穴を開けていたのかもしれない。

母と話を終えたわたしは『また来るね。』と声をかけ病室を後にした。ベッドの傍でわたしに手を振る母は優しく微笑んでいた。

病院を出て、少しだけスッキリとした気持ちで雄英の僚の方向へと足を進めた。風が吹く度に秋の花の香りが鼻孔をくすぐる。
…もうすぐ金木犀がたくさん咲く時期だ。

そういえば、幼い頃の勝己と金木犀の香りの話をしたことがある。


『キンモクセイのにおいだ!』

秋の風が運んでくる優しい香りがして、小さなわたしがそう言うと、隣を歩く“勝己くん”は少しだけ頬を赤く染め、それを指で隠すように頬を掻きながら「…わるかねぇな。」と言っていた。

簡単に昔の小さな自分や彼の姿や情景を思い出せることが嬉しくて、思わず口の端が上がってしまう。

あれは、金木犀の匂いが好きだったという事だろうか?今でも彼は好きだろうか?
帰ったら聞いてみようかな…なんて思いながらスマホを取り出して想い人宛にメッセージを打ち込んだ。

“検査もお見舞いも終わったよ。これから寮に戻るね。”

それだけを打ち込んでスマホをズボンのポケットへとしまった。

歩き出そうと顔を上げれば、目の前には黒いモヤが出来ていた。
瞬時に自身を取り巻く悍ましい空気に、後ろへと身を引いた。
だが、背中が何かにぶつかると同時に低い声が降ってきた。

「この間の話の続きをしよう。」

聞こえてきた声に、
背後にいる人物から腕が三指で掴まれた事に、
一気に全身に鳥肌が立つのがわかった。

この場から、この男から逃げなきゃ_

そう思うのに自らの体は全く動けなかった。

話をした時間は短い。だが、忘れるはずもない。
この背後にいる男は、シガラキという男だ。

あの誘拐事件以来、ヴィラン連合に動きはなさそうだったし、もうわたしや勝己の事は諦めていたと思っていた。…だが、現状わたしの前にもう一度姿を現していることから、そうではなかったのだろうか。

動けば殺されるかもしれない_
そんな恐怖心が脳内を占めた。

わたしの体はそのまま黒いモヤの中に飲み込まれた。

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