柔らかな心地の良い声で
爆豪 side
どれくらいの時間寝ちまってたんだろうか。薬を塗るっつう名目で部屋にやってきた菜乃を抱き寄せてれば、気づけば眠っちまっていたらしい。
久しぶりによく眠れた気がした。
現状は何も変わっちゃいねぇ。菜乃は俺の事を忘れたままで、俺と関わった記憶なんてねぇままだ。『爆豪くん』と俺を呼ぶアイツは、咲良菜乃の形をした他人のようで、アイツが俺をそう呼ぶ事が心底気に入らなかった。だが、何も言わぬ菜乃の寝顔は俺のよく知る咲良菜乃だった。抱きしめた身体から金木犀のような花の香りを吸い込めば、妙に安心しちまう自分がいた。
「…また勝手に消えてンじゃねぇわ、クソ…。」
腕の中から消えた存在に、そんな悪態が弱々しく静かな部屋にこだまする。
デクのとこにでも行っちまったのか、と思うと菜乃が塗り薬を塗った背中の傷がイヤに染みてきやがる。
_ずっと気に入らなかった。
弱ェクセに、無個性のクセに、デクがこの俺を超えようとすんのも、“守る”、“助ける”っつう言葉を口癖のように口にすんのも、全部気に入らなかったんだ。
“俺が菜乃を守ってやる”
言葉の重みなんざ知らねぇガキの頃の俺が菜乃に言った言葉は頭の中で何度も何度も響いてきやがる。自分の言ったこの言葉を忘れた事なんかねぇ。戯言なんかじゃなく本心だった。本気で守ってやりたかったんだ。
だが、壊れていく菜乃に俺は何もしてやれなかった。
隣にいたのが俺じゃなくデクの野郎だったら菜乃は今も笑えてたんじゃねぇか、こんな事になってねぇンじゃねぇか…そう思うと腹が立って仕方なかった。オールマイトのこともあって余計に苛立ってたんだ。
自分に対して溜まった怒りを
デクにぶつけた。
その結果がこのザマだ。
痛み始めた頬の擦り傷に深く息を吐き出した。
飯でも食いに行こうとベッドから身体を起こし部屋を出れば、丁度隣部屋の扉も開く音がした。切島の部屋だ。
「お、バクゴーもこれからメシか?一緒に降りようぜー!」
…コイツはあの日…菜乃が記憶を失った日以来、普通に接してきやがる。いや、“普通”を意識して俺に接してるってのが正しいだろう。
俺の後を追いかけてきた切島と並んでエレベーター前へと歩いた。
「謹慎処分、バクゴーは明々後日までだっけか?」
「…あぁ。」
「殴り合いの喧嘩って、漢だよなぁ…。」
「……言いてェ事あんならハッキリ言えや。」
そう言ったのは、仮免試験が終わった後から切島が何か俺に言いたげにしてンのが見え見えだったからだ。
立ち止まってエレベーターが来るのを待つだけの静寂な空気が流れた。
数秒の間はあったものの、切島はすぐに「あのさ、」と口を開いた。
「俺さ、咲良に全部話しちまったんだ。」
「…」
「何も言わねぇお前の気持ちを、俺が知ったような口で話しちまったから、…俺、お前に謝っとかねぇとって…。」
「…」
切島は俯いたままそう言った。普段「漢だ」なんだと口にするコイツは自分がしちまった事を男らしくねぇとでも思ってンだろう。
「…てめェがアイツに何言おうが、記憶のねェアイツにゃワケ分かんねぇだろうが。」
「…そーかもしんねェけど」
そこまで言って言葉を止めた。そして俺見て強く言葉を口にした。
「ワケ分かんなくても、それでも俺らはさ、お前ら二人に前みたいに戻って欲しいんだ。」
切島のあまりにも真っ直ぐな視線と言葉に、直視出来ずに視線を逸らした。
「咲良絡みになると必死になるバクゴー、スッゲェいい顔してたからさ。」
ニッと笑うその表情はどこか悲しげに思えた。
…他人の事に必死になれる“超”が付きそうなくれェのお人好し野郎だ。…だが、嫌いじゃなかった。
切島の「前みたいに戻って欲しい」っつう願いは、今の俺には、鉛のように重たい言葉に思えた。
エレベーターの到着音がして顔を上げた。
誰も居ねぇと思ったエレベーター内には先客が居て、扉が開いた瞬間にソイツのツラを見て身体は動けなくなっちまった。
菜乃だった。
…ンで、また来てンだよ。黙って部屋から出てったクセして。
菜乃は右手に俺が以前やったかんざしを握っていた。赤いとんぼ玉の飾りがついたかんざしだ。
それを握る手を強めてゆっくりとエレベーターから降りた。
俺の前に立つ菜乃は、小さな声で静かに一言だけ口を開いた。
『勝己……。』
それだけで充分だった。
全て思い出したんだと、俺が理解するには充分だった。
聞き違いや幻聴なんかじゃねぇ。
確かに俺の名を呼んだ。
目頭が熱くなるのを堪えて、目の前にある自分よりも小さな身体を包み込んだ。
「俺、先降りてっから…!」
切島はエレベーターに駆け込みながらそう口にした。
扉が閉まって二人きりの空間になると、俺は更に強く菜乃の身体を抱き寄せた。
この細い身体が壊れちまうんじゃねぇかって不安になる程だ。だが、今はそれでも絶対に離してやりたくなかった。
もう二度と、“俺の事を何も知らない”なんて言わせやしねぇ。
自分の想いをこの身体に刻み込むように強く、強く抱き寄せた。
『あのね、わたし……』
何かを伝えようとそう必死に言葉を紡ごうとするが、さっきから泣いてばかりで一向に話が進む気配はねぇ。
別に言葉を求めちゃいなかった。
ただ一つだけ求めるとするならば…
「…今みてェにもっかい俺の名前呼べや。」
『……かつ、き…!』
「…っ、…ん。今は、それだけで充分だ。…無理して喋る必要ねぇわアホ。」
その柔らかな耳触りの良い声で、再び『勝己』と呼ばれる事が何よりも
嬉しくて幸せで
切なくて儚くて
堪えていたはずの涙は簡単に流れ落ちて、頬の傷に沁みた。
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