わたしはキミを

菜乃 side

目を覚まして二日も経てば、退院の許可が降りた。頭を打っていた事や、少しの時間だが気を失っていた事もありであらゆる検査をしたが、特に異常は見られなかったそうだ。…ただ一つのことを除いては。

病院の先生と話をして、わたしは疑問に思うことを尋ねた。

『何かを忘れている気がします。友達が話している内容についていけない事があるんです。』

すると先生は、「解離性健忘かもしれないね、」と言った。これまでに聞いたことのない単語にわたしは首を傾げて見せた。

「簡単に説明すると、強いストレスの原因となってる出来事や感情の一部分を忘れてしまうことだね。今の段階で完全に“そう”とは言い切れないけど、もしかしたらの可能性はあるかもしれない。」
『…だとしたら、それは思い出せますか?』
「数分、数時間、数日、数年…と思い出すまでにかかる期間は人それぞれ。きっかけがあってフラッシュバックして思い出すって人もいるし、…でも一生思い出せない人もいるよ。…咲良さんは思い出したいの?」

先生がそう質問をする意味が分からなかった。
…記憶の一部分がないだなんて、気持ち悪いもの。そんなの思いだしたいに決まってる。
そんな想いから先生の質問に、わたしは頷いてみせた。わたしを見て、先生は優しく笑って、自分が腰掛けていた回転椅子を回して、机と向かい合っていた体をわたしへと向け、ゆっくりと落ち着いた口調で言葉を続けた。

「もし、キミが記憶の一部を忘れているなら、その原因は強いストレスからくるものかもしれない。脳の防衛反応みたいなものでね、その出来事を忘れる事によって自分の心を守ってるって言えば分かるかな?」
『…はい。なんとなく。』
「もしかしたら大切な記憶がそこにあるのかもしれない。…でも思い出したくない記憶もあるかもしれないんだ。」
『…』
「治療法はある。精神療法が一般的になるね。…でもね、その治療の目的は“思い出せない事を思い出す事”じゃないんだ。思い出せない事でパニックを引き起こす方をサポートする為にある。…キミが今、“忘れている”という違和感を持っていても心が安定している状態であるなら、僕は治療を受ける必要はないと思ってる。」
『そう、ですか…。』
「まぁこれが医者としての情報提供。それでも思い出そうと頑張るというなら全力でサポートはするよ。生活する中で、友達との会話の中で…違和感を感じて気になるようであれば、心のケアが上手な医師を紹介するからまたおいで。」

先生は優しく笑ってくれていた。
話を終えると病室へと戻り荷物の整理を始めた。一人の部屋で鞄に荷物を詰めながら先生の言った言葉を思い出していた。

『解離性健忘………、』

自分が何かの記憶を忘れている人だ、というのが未だに不思議でならない。
だって、自分の名前も歳も通っている学校名も、母親の名前も友達の名前だって言えるのに、何かを忘れているだなんて納得ができなかったのだ。

だけど、クラスの皆んなの話が分からなくてついていけない事がある。
その度に置いてけぼりにされる感覚がやってきて悲しくなるのだ。そして初めて“忘れているのかも”と思える。

_わたしは何を忘れているんだろう。

大切な記憶なのかも、思い出す必要があるのかも分からないわたしには、ある筈の記憶に必死になる事もなく、ただ、ぼんやりとそんな事を考えていた。

−−−−

退院してからは何事も無かったように日常生活を送っていた。朝起きて、食事をして、歯を磨いたら着替えて学校に行く。学校といっても座学の授業はなく、今は夏休みの補講訓練がメインだ。ヒーロー仮免許試験に向けての各々の身体、個性の強化だ。
中断した林間合宿での遅れを取り戻す為にもかなりハードな訓練だった。

林間合宿…どうして中断したんだっけ。
普通に生活を送っていると、思い出せない事がしばしばある事に気づく。どうやらわたしは林間合宿あたりからの記憶が曖昧なようだった。退院後に相澤先生が「着いたぞ。」と寮の前で言った事にも驚いたし、自分の部屋だと通された室内を見た時なんか言葉を失った。根や枝が壁中に張り巡らされているし、荷解きはほとんどされておらず部屋の真ん中に段ボールが数個詰まれていた。違う人の部屋にでも通されたのだろうかと思ったが、段ボールの中身は紛れもなく全て自分のもので、“咲良菜乃”と名前が入ってるものまであれば、疑う余地などなくなった。しかしまぁ、…本当にここで自分が過ごしていたのか?と疑問を持たざるを得ない程に生活感なく荒れ狂っていた。だが、ベッドの上には人が横になった痕跡がある。ぐちゃぐちゃの布団やシーツ、荒れた一室を見て、此処で過ごしていたであろう数日前の自分の人格を否定したくなった。

わたしを部屋に案内してくれた梅雨ちゃんや百ちゃんも荒れた室内を見て、わたし同様に言葉を失っていた。部屋の主が驚いているから、なんと言っていいのかも分からなかっただけなのかもしれないけど…。

この数日で感じた違和感は部屋だけではない。
画面が割れて電源の付かなくなったスマホ、
クラスの皆んなの少しだけよそよそしい態度…
あと…これは自分の感情の中の話だけど、ふいに恋しくて悲しい気持ちになる事があった。


「うわ…!咲良のソレなに!?」

三奈ちゃんがわたしの名前を呼ぶ声でハッと我に返った。
…いけない。今は集中しなくちゃ。
現在、体育館γにて必殺技を生み出す訓練中だ。
邪念を掻き消すように首を横に振って、三奈ちゃんを見れば、彼女はわたしの背中を指差して「すっごい綺麗!」と言っていた。
彼女がそう言う理由は、わたしが個性を使って根や草、花なんかで作った大きな羽を背中に生やしていたからだろう。

わたしは眠っている間に何かを忘れたばかりじゃ無かった。わたしは眠ってる間のモヤのかかった夢の中のような世界で、誰かの声を聞くことは出来ても会話ができなかった。だが、聞こえてくる植物たちの声とは会話をする事が出来たのだ。数時間、ゆっくりと植物たちと話をして、彼らはわたしに個性の可能性を教えてくれた。

“キミが僕達に身体を委ねてくれるなら、僕達はキミの一部になるよ。”

そう言ったのだ。その時は彼らが言っている意味が理解できなかった。だけど、訓練中にその言葉を思い出して、自分も大地の一部に溶け込むようにして身体の力を抜いた。そうすれば地についていた足から何かが身体に入り込んできて身体中に巡ってくる感覚がやってきて、背中に羽を咲かせた。

『三奈ちゃんありがとう。なんかやってみたら羽生やせちゃった。』
「羽に沢山花咲いててイケてる!…てかそれ飛べるの?」
『んー、今それを練習中なの。空飛ぶって初めてで思ったよりバランス取るのとか難しくて…。』

わたしの羽を観察しながら捲し立てる三奈ちゃんに、笑って答えた。今言ったように、空を飛ぶってのは思ったよりも難しかった。まだ羽が身体に馴染まず、集中力が切れると羽の動きが止まってしまうし、空中で身体のバランスを取るのが難しくて羽に身体がぶら下がったようになってしまうのだ。

体幹と筋力のアップが当面の課題だな…。

ふぅ、と息を吐いて羽を体の中に収めた。

「菜乃ちゃん!?せ、背中!」

三奈ちゃんと話していると、今度は背後からそんな透ちゃんの焦ったような声が聞こえた。振り返ると、今度は三奈ちゃんの「咲良こっち来て!」と慌てる声が聞こえる。
二人のどちらを見ていいかわからず交互に見ていると、三奈ちゃんはわたしの腕を引いて背を壁側にして立たせた。

『な、何?どうしたの?』
「羽生えてたところ、コスチュームに穴空いてんの。かけるもの持ってくるからちょいここで待ってて!」
『わ……ありがとう。お願いします…。』

背中に手を伸ばせば、言われた通り肌に指先が直に触れる感覚がある。
コスチュームの改良も必要のようだった…。



ジャージを持ってくると言って体育館から消えた三奈ちゃんが帰ってくるのを待つ間、わたしは体育館の壁を背にして座り込みクラスメイト達が訓練しているのを眺めていた。
すると、わたしのすぐ横に一人の人物が座り込んだ。

焦凍くんだ。
彼はわたしの隣に腰を落とすと「体調、大丈夫か?」と声をかけてくれた。彼は随分前よりもかなり表情が柔らかくなったと思う。クラスの女子達も合宿初日の夜に「轟くんは話しやすくなった」と言っていたのを思い出す。
合宿初日の夜…他にも何か話したような気がするのに思い出せない…。なんか女子皆んなからの質問攻めにあったような気がするけど、どんな内容だったんだっけ。

こういう時、自分が何かを忘れちゃってるんだ、って実感してしまう。それが何かわからないからもどかしくて嫌になる。

『菜乃…?大丈夫か…?』

何も答えないわたしを焦凍くんは心配そうな面持ちで見てきていた。
彼の左半分の赤い髪の毛がサラッと揺れるのを見て、何故だか胸が苦しくなった。

…わたしが恋しくて悲しい気持ちになるのは、決まって赤色を視界に入れた時だった。何故だかここ数日間、赤色のものに妙に惹かれる。
不思議だった…。自分の持ち物はピンクや白のものが多いのに、何故こんなにも赤いものに目を奪われるのだろうか。

切島くんの髪の色、百ちゃんのコスチューム、焦凍くんの左側の髪の毛…あと緑谷くんの靴の色も赤だったな…。

自然と追いかけてしまうのだ。
…でもそのどれもが求めている赤い色とは違う気がしていて、恋しくて悲しい気持ちから“恋しさ”だけが取り除かれて“虚しさ”だけが心に残る。

「保健室行くか?」

表情に気持ちが出てしまっていたのだろう。焦凍くんはわたしにそう言った。その言葉に首を横に振って、わたしは誤魔化すように笑った。

『ごめん、なんでもないの。ちょっと疲れちゃってただけ。』
「…そうか、それならいいんだ。退院したばっかりで疲れてんだろうし、無理するなよ。」
『うん、ありがとう。』

お礼を言うと焦凍くんはわたしの頭に手を伸ばして撫でてくれた。
彼の行為に心臓は跳ね上がった。
それと同時に掌の温もりと素直な優しさが心地良かった。

『わたしって前とどこか違う?』

つい彼の優しさに甘えてしまって思っていた事を口にした。この質問は、ずっと誰にも聞けなかった事だった。…聞けば皆んなどう答えていいか反応に困るのは目に見えていたからだ。

焦凍くんはわたしを見て、不思議そうな顔をした。そしてその表情のままに口を開いた。

「顔も、声も変わらないと思うんだが、何か変わったのか?」

焦凍くんらしい答えに思わずふふ、と笑ってしまう。

『ううん、一緒のはず。でも何かを忘れてるみたいなの。』
「俺の前にいるのは咲良菜乃だ。何かを忘れてようが菜乃である事には変わりねぇ。」
『ふふ、そっか。ありがとう。』

わたしが笑うと焦凍くんも表情を和らげてくれた。そして「そろそろ戻る。」と言って立ち上がってこの場から去ってしまった。

わたしである事に変わり無い、かぁ……。
その言葉で少しだけ心がスッキリとした。

『わぷっ…!!』

床へと落としていた視線を上げた瞬間、勢いよく顔に向かって何かが飛んできた。気づいた時には遅くて避けるなんて出来ず、咄嗟に目を強く閉じた。
あれ…痛くない…?布?

ゆっくりと目を開けると、わたしの身体の上に落ちていたのは雄英のジャージだった。
三奈ちゃんの…?いやでも三奈ちゃんてこんなに乱暴だった?

顔を上げるが目の前には誰も立ってはいなかった。

「ソレ、羽織っとれや。」

低く落ち着いた声がする方に視線をやれば、わたしと人一人分の距離を開けた位置に男子生徒が壁を背にして腰を落としていた。
稲穂色のツンツンとした髪の毛の男子……バクゴウくんだ。彼の発言的にわたしのコスチュームの背中の部分が破けたのを見ていたのだろうか…。

『あ、ありがとう?』

わたしがお礼を言うと、彼は「ん。」とだけ返事をしてくれた。彼は瞳にわたしを映していなかった。クラスメイト達の訓練風景を眺めながら、それ以上は何も言わずそこに座っていた。

わたしも彼と同様にクラスメイト達の訓練の様子を眺める事にした。

わたしの記憶の中には何故かバクゴウくんとの接点がなかった。だから彼がどんな人なのかまるで分からないし、どんな距離感で接していいかも分からない。
…おそらくわたしの欠落してる記憶はこの人だろう。
皆が口を噤んではいるが、同じクラスにいる人物の一人だけを全然知らないなんておかしいもの。
横目に彼を盗み見るが、その横顔を見てもやっぱり何もエピソードが頭に浮かばない。

でもそうだとして、何故彼はわたしに何も言って来ないのだろう。病室でわたしの胸ぐらを掴んできて以来、彼はわたしに突っかかるどころか、目も合わせてくれないのだ。

「ガン飛ばしてンなやクソが。」

どうやら盗み見てるのはバレていたようだ。彼の言葉で咄嗟に視線を逸らした。

『あ……ごめん。あの、さ……』
「…あ゛?」

わたしが話を切り出すと、彼は目線だけをわたしに向けた。威圧的な鋭い視線と低い声がなんだか怖くて、わたしは彼から視線を逸らしてしまう。

『キミはわたしを知ってるの?』
「…」
『気を悪くしたらごめんなさい。この前階段から落ちた時に記憶が一部分抜けたみたいで…その欠落した記憶ってのが、たぶんキミが関係してる事なんだと思うの。』
「…っ、………だよ…!」

彼は搾り出すように何か言葉を口にした。だけど、彼とわたしの間に出来た距離の所為ではっきりと聞き取る事が出来なかった。聞き返そうとすると、彼は苦しげに言葉を吐き出した。

「…っ、俺の事、何も知らねェンかよ…!」


彼を視界に入れるが、彼の瞳は稲穂色の髪の毛に隠れてどんな表情をしてるのかわからなかった。

『わたしは、キミを…』

かろうじて見えた彼の口元は固く閉じられていて、
…震えていた。

_わたしは、キミを知らない。

彼の姿を見ると、続きの言葉を口にしてはいけない気がした。

『…ううん、なんでもない。』

言いかけた言葉を飲み込んで、代わりにそう口にした。

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