ダ・カーポA

菜乃 side

久しぶりにゆっくりと眠れた気がした。

モヤのかかった世界をわたしは歩いていた。行く当てなんてない筈なのに、ただ、真っ白い何もない世界を歩いていた。
不思議な感覚だった。一歩、一歩と歩く度に色んな人の声が聞こえてくるし、それはわたしの記憶にある人物の声と一致した。

“菜乃、大丈夫?”
_これはお母さんの声。

“菜乃ちゃん、しっかりして”
_これはお茶子ちゃんの声だ。

“菜乃ちゃん、目を開けてよ。”
_これは、緑谷くんの声だったかな。

母から始まり、クラスメイト達がわたしを心配する声が次々と聞こえてくる。
…みんな何をそんなに心配してるんだろう。…あ、わたし階段から滑って落ちたんだっけ…。まともに眠ってなかったし、歩くのも久しぶりで足がもつれたんだった。
…でも、どうして眠れなかったの?どうしてそんな状態で部屋から出たんだっけ…。

それを思い出そうとすると胸が苦しくなってくる。わたしはモヤのかかった世界で歩くことを辞めて、その場にうずくまった。

−−−−

目を覚ますとクラスメイト数人が横になるわたしの顔を覗き込んでいた。ゆっくりと身体を起こすと、身体のあちこちが少しだけ痛んだ。慌てた様子で響香ちゃんが「咲良、無理しないほうが…」と声を発した。梅雨ちゃんは「先生を呼んでくるわね。」と部屋から出ていってしまう。

みんなが慌てたり、わたしを見て戸惑う表情を見せるのが不思議で『どうしたの?』と問いかけると、お茶子ちゃんが今の状況を説明してくれた。
どうやらわたしは階段から落ちてから気を失っていたようだ。それをお茶子ちゃんが気づいて、相澤先生を呼んでくれてわたしは病院に運ばれたらしい。

まだぼんやりとする頭を押さえながら『階段から落ちるなんて、どんだけボーッとしてたんだろう。』とアハハ、と笑うわたしを見て、クラスメイト達は目を見開いた。そして何かを躊躇うように視線を泳がせていた。

「何も、覚えとらん?」

お茶子ちゃんの問いかけに疑問しか湧かなかった。
何も、って何のことを言ってるんだろう。階段から落ちた時のこと?

わたしは首を傾げて「階段から落ちた時のことは何も覚えてないの。…わたし何してて階段から落ちたの?」と言うと、そこにいたクラスメイト達は顔を青くしたように見えた。

「僕、かっちゃんを呼んでくるね…?」

女の子達よりも後ろにいた緑谷くんがそう口にした。彼はわたしを見てそう言っていた。

だけど、その名前の人物に心当たりがなかった。誰かのあだ名なんだろうけど、そんなふうに呼ばれてる人はわたしの周りに居ただろうか?

『…“かっちゃん”、て…誰?』

わたしの発言に場の空気は凍りついたみたいに静まり返り、クラスメイト達の視線はわたしへと集まった。

「え………?」

誰もそれ以上口を開く事はなかった。



緑谷くんと切島くんが病室から出ていくと入れ替わりで上鳴くんや尾白くん、瀬呂くんがやって来た。
先程流れた空気は一変していつものクラスの賑やかさを取り戻した。

「菜乃ちゃんが病院運ばれたって聞いてマジでびびったわ…」と安堵の息を吐き出しながら口にする上鳴くんに対して、瀬呂くんは「爆豪の奴いねぇじゃん…!彼女の一大事に何してんだ?」と口にした。

二人はわたしを置き去りにして話を始めた。
先ほどから二人の話に登場する“バクゴウ”という人物…。それが誰なのか分からなくて、わたしは話には乗れないでいる。困惑するわたしを見てか、お茶子ちゃんと百ちゃんが二人を落ち着けてくれて話題を逸らしてくれた。

助かった、と思う反面、今きたばかりの3人以外が纏う空気が気になって仕方なかった。わたしの様子を伺うように声をかけてくる人、ただ視線を落として言葉を噤む人、そんなクラスメイトの様子を不思議に思って顔を見合わせている上鳴くん、瀬呂くん、尾白くん……。全てが異様で居心地の悪さを覚え始めた。

少しすると病室のドアが勢いよく開いた。視線を移せば、そこにはわたしを見て呆然と立ち尽くす男子がいた。金色のツンツンとした髪の毛の男子だ。わたしを少しの間視界に入れると、その人はその場に腰を落としてしまった。

『えっ…と、大丈夫ですか…?』

わたしがそう声をかけるとその人は立ち上がりズカズカと近寄って来て、わたしの胸ぐらを掴んで勢いよく言葉を発したのだ。咄嗟のことに何を言われたのか聞き取ることが出来ず戸惑いながらも、彼の後ろにいた緑谷くんを見て、『あ…緑谷くん、切島くん…えっと、この人は…?』と尋ねた。

わたしの発言にまたしてもこの場の空気は凍りついた。そしてわたしの胸ぐらを掴んでいた男子の手から力が抜け、ストン_と下に腕がぶら下がった。

男子生徒に声を掛けようとすると上鳴くんがおどおどとしながらわたしに声をかけた。わたしが金髪の男子に声をかける事が出来ないままに、彼はこの部屋から静かに出ていってしまった。

あれは、誰だったんろう…。

そんな疑問を抱きながら静かに閉まったドアを見つめていた。
その少年を追いかけるように、切島くんと緑谷くんもまた病室から飛び出して行ってしまった。

−−−−

爆豪 side

「待ってって、バクゴー!!」

病院の出口に向かって廊下を歩いていると、寮の廊下の時と同じように切島の声が聞こえて、後ろから腕を掴まれる。今度はその腕を強く振り払って構わず歩き始めた。
だが、切島は俺の前まで走って、両手を開いて立ち塞がった。
…ケッ、またしてもコイツは…!

誰とも話す気になれず、切島を睨みつけた。だが、コイツは俺の前から消える気はねぇみてぇで、困惑しながらも俺に何かを伝えようと真剣な目をしてやがった。

「…そこ、どけや。」
「咲良のとこ、戻ろうぜ…。」

…ざけんな。…戻れっかよ。

俺が何も答えずにいると切島は言葉を続けた。

「咲良、頭打ったみてぇだからちょっとおかしくなっちまってるだけなんじゃねぇの…。ホラ、よくドラマとかであるだろ。一番存在のデカい記憶だけを失くしちまう…みたいなの。あぁいうのって、一時的なモンですぐ戻るとか言うしよ…!完全な記憶障害なら俺らの事だって忘れてるだろ…!俺よく分かんねぇけど…!」
「…」
「とりあえず戻ってちゃんと話聞こうぜ…。」
「…」
「バクゴー…!お前あんだけ咲良に会いたがってたじゃねぇか…!部屋の前でずっと待ち続けたんだろ!?だったら…!「アイツは!!」…バクゴー?」

俺が声を荒げると切島はその瞳を不安気に揺らした。

「アイツは今俺の存在を記憶から消す事で、自分が苦しんでた事も忘れてやがる…!俺を思い出しちまったら、アイツは何もかも思い出して、また苦しむんだろーが…!」
「…」

俯いて言葉を吐き出す俺に、切島は何も言わなかった。

「…見たかねェンだよ。これ以上アイツが壊れていくのを。自分が何にもしてやれねぇのも腹が立ってしょうがねぇ…!」

俺を忘れてやがるのは、死ぬほど気にいらねぇ…。だが、それよりもこれ以上毎日泣いて過ごして、見えねぇ相手に謝り続ける菜乃を見ンのはもっと嫌だった。…壊れていく菜乃を見ちゃいられなかった。
ただ、毎日抱きしめて「大丈夫だ」と声をかけてやることしかできねぇ、不甲斐ない自分に心底腹が立って拳を強く握りしめた。

俺の事を忘れてようが、昔のことを何も覚えてなかろうが、
てめェが笑って過ごせンなら

「俺は…」

俺は__


「そんなの、僕がバカみたいじゃないか…!」

背後から聞こえた耳障りな声にハッとさせられた。言いかけた言葉は口の中に押し戻されちまう。聞こえた声が誰のものなのかなんてのは、考えるまでもなく分かる。クソデクだ…。
ソイツの顔も見ることなく俯いたままでいると、デクは俺の後ろに立ったまま苦しげに言葉を続けた。

「キミの事を一途に想う菜乃ちゃんを見て、彼女の隣に居るべきのは僕じゃないって諦めた。…それなのに、キミが投げ出すなよ!菜乃ちゃんを見てられない?ふざけるな!」

デクの声はだんだんと怒りで震え始めてやがった。
菜乃の苦しい過去も、アイツの今の状況も…何も知らねぇのに勝手な事を好き放題言いやがるデクに対して俺の心にもフツフツと怒りが湧いて来やがる。

「てめェは何にも知らねぇだろーが!!だからンな呑気な事が言えンだよ!」
「知らないよ!!僕だって菜乃ちゃんの幼馴染だし、キミよりもずっと先に彼女を好きだった!プロポーズだって僕の方が先にした!!…それなのに僕は何も知らない…!!」
「…っ、てめェの都合なんざ聞いてねンだよ…!」
「どれだけ僕が彼女を好きでも、キミよりも先に好きになっていても、菜乃ちゃんは僕じゃなくてキミをずっと待ってる。キミを…好きになった人を忘れたままだなんて、寂しいと思う。…キミが、忘れられたままでいいなんて言わないでよ。」
「…るせぇンだよ。」

クソ…分かってンだよ、ンな事てめェに言われなくたって。

「…菜乃ちゃんの事、ちゃんと救ってあげようよ。菜乃ちゃんにとってのヒーローは小さい頃からキミだけなんだから。」

「僕じゃ、なれない。」と付け足して言うデクの声はやっぱり震えていた。その声には涙が含んでいるように聞こえた。

その悲痛の叫びを聞いても尚、俺は
もう一度菜乃の壊れていく姿を見るのを恐れていた。苦しむアイツに何もしてやれねぇンじゃねぇかと思うと、どうすりゃいいのか分かんなくなっちまう。

アイツの心に触れようと思うと、虚勢も張れねぇ程に、どこまでも自分が弱くなっていくように感じた。

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