救いの手


石 side

_ピーンポーン
焦凍くんが帰って一人で荷解きをしていると、家のインターホンが来客を知らせた。

時刻は19時を回った所だった。玄関に行き扉を開ければ、外にはコンビニの袋を片手にぶら下げた相澤先輩が立っていた。「引越し祝い…」と全然祝ってる風でない覇気の無い目で言ってくる先輩を見て思わず笑ってしまった。

この間先輩の気持ちを聞いて、お断りをした。それでも先輩はいつもと変わらず私に接してくれる。だからこそ私の方もいつも通り接する事が出来ている。

袋を受け取って中身を見れば、ビール6缶パックが入っていた。
お酒もう飲まないって決めたばかりなのに…と思いながらも先輩からの厚意を無下にはできない。『ありがとうございます。』と言えば、先輩は「ノンアルだからな。」と付け足した。どうやら先輩の方も私にアルコールを摂取させる気は無いようだった。

『越してきたばかりで何もありませんが、一杯一緒にどうですか?』
「…ま、たまにはノンアルに付き合ってやるか。」
『肝臓に優しくいきましょう。』

ドアを大きく開けて中へと招き入れた。

薄いベージュのラグの上に置かれたローテーブルに戴いた缶ビールを置いて、隣同士に腰を落とせば二人してプルタブを開ける。プシュッ_という音と共に体のスイッチはオンからオフに切り替わる。

互いに一口喉へと流し込めば少しの間沈黙が流れた。テレビでもつけようとすれば、この二人きりの空間に低い声が静かに響いた。

「…住む人間が変われば部屋の雰囲気も変わるモンだな。」

先輩の言葉の意味が理解できず首を傾げていると、先輩は再び缶ビールに口をつけた後口を開いた。

「言ってなかったか?この部屋は以前俺が使ってたんだ。」
『……そうだったんですか!?』
「あぁ。まぁ随分前の話だけどな。…変な気分だな。昔自分が帰ってくる場所だった部屋に客として招かれるってのは。」
『へぇ…。』
「だが、もっと違和感があるのはこの部屋にお前と居ることだな。」
『私と、ですか?』

ビールの缶に口をつけながら横目に先輩の顔を見れば、彼の黒い瞳は気怠げに自分の手にある缶ビールを眺めていた。

「何度も誤魔化してきたんだ。」
『先輩…?』

先輩が口にする言葉の意味は私には分からなかった。先輩はコト_と小さく音を立ててビールをテーブルに置いた。そして視線を落として言葉を続けた。

「目瞳石という少女の事が気になってならなかったのを、愛情ではないと自分に聞かせてきた。俺はお前に戦闘においての訓練もしてやってたし、“教師と生徒”みたいな関係だと思ってたんだ。その関係に恋愛感情を持ち込むなんてありえない事だと言い聞かせてきた。それが今や、俺はお前を女性として見ているし、俺の部屋だった此処はお前の部屋だし、そこで一緒に酒を飲んでるなんて…考えられんよ。ノンアルだがな。」
『…私は先輩とは“先生と生徒”の関係だと思った事はありませんでしたけどね…。“先生”という存在よりもずっと大切な人でしたから。』
「…」
『…これが愛情のすれ違いってヤツですかね?そう思うとお互いなんだか切ないモンですね。』
「お前…今の俺にそれを言うか?」
『あ…ごめんなさい。でもそうでしょう?私が貴方に振り向いて欲しかった時には貴方は私を“生徒の一人”と見ようとしてて、今は私が貴方を尊敬できる師とか面倒見の良いお兄さんみたいに見てるし…。』
「お前のソレ、本当にノンアルだよな?」

思った事を躊躇いもなく口にする私に、先輩は顔を引き攣らせた。そしてため息を一つ落として、やれやれと頭をかいたあと私の手から缶ビールを抜き取った。

『あ…』とビールの行方を追いかけるが、それは先輩のビールの隣に置かれた。
先輩は私の手首を掴んだかと思えば、その真っ黒な瞳に私を映した。いつも怠そうな彼の目はいつになく真剣に見えてドキリとしてしまう。

「その擦れ違いとやらを俺は今からでも擦り合わせたいと思ってる。」

そう口にすると先輩は私の手首を掴む力を強めて体重をかけてきた。
咄嗟に空いていたもう片方の手で先輩の体を押し返すと、まるでそうくると読んでいたとでも言うような驚く早さでそちらの手首も掴まれて両手首の自由を奪われてしまった。
私の身体を押そうとしていた先輩は、瞬時に力の掛け方を【押す】から【引く】へと変えた。その所為で私の身体は床に背をつけた先輩の上に倒れ込む体勢になる。
戸惑っている一瞬の隙に、グルンと視界が回される。
焦点が合ったとき、ハッキリと私の目に映ったのは白い天井と先輩の顔だった。

…不思議と恐怖の感情は湧かなかった。

あぁそうか。この人の手は、目は…

_私にとって【救い】だからだ…。

あの日、恐怖から私を救い出してくれた手で、
初めて私を見て受け入れてくれた目だった。
この人はあの日からずっと私の【救い】で【ヒーロー】だったんだ。

…だからと言ってこの先を受け入れられるワケじゃない。
この先は、誰とでも踏み込んでいい領域じゃない。互いに愛し合う者同士がする行為だ。

この状況をなんとかしようと体を動かそうと試みるが、両手首は床に押さえつけられているし、足も先輩の膝で押さえられて身動きが取れない。

「お前に、力で押してくる相手の体勢の崩し方を教えたのは誰だと思ってるんだ?」

「冗談だ」とでも言ってくれて体を解放してくれたら良かったのに、先輩は私の思いとは裏腹に手首を押さえつける力をグッと強めた。

『なんで…こんな事するんですか…。』

先輩の顔を見れず、視線を逸らしてそう問いかけた。

「こうでもせんとお前は俺を意識しないだろ。」
『…っ、』
「俺は…、面倒見の良い兄貴とかいうポジションで満足する気はないからな。」

先輩はそう言うと私の手首を押さえつけていた手の力を緩めて、身体を退けてくれた。私も身体を起き上がらせると先輩は「ん…」と缶ビールを手渡してきた。

それを静かに受け取ろうとすれば、先輩は腕を高く上げた。あと少しで触れそうだった缶はスッと遠のいて上へと逃げてしまう。それを目で追っていると、またしても先輩は私の手首を掴んだ。

「惚れさせた責任はきっちり取ってもらうからな。」

言葉の意味を問いただそうと開いた唇から声が出る前に、私の唇は少しだけガサついた唇に塞がれた。

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