私だけだった


石 side

「アイサ、ちょっといいか。」

エンデヴァー事務所内で事務処理をしていた時、エンデヴァーさんに呼ばれた。目の前に立った私を彼は何やら神妙な顔つきで見た。『どうかされました?』と尋ねれば言いにくそうに「雄英の職場体験だがな…」と切り出した。

「焦凍がここへ来る事になった。基本的に面倒は俺が見る。…だがお前にも同行を頼みたい。」
『私にですか?』
「あぁ、冬美から焦凍がお前を好いていると聞いてな。勿論給料なら…『構いませんよ。』…助かる。」
『いえいえこちらこそ長い事お家に泊まらせて頂いてるので、家賃代と言っては失礼かもしれませんがお受けさせていただきます。ですから、お給料のこともお気になさらず。』

それだけ言って仕事に戻ろうとしたが「失礼します。」と聞き慣れた声に振り返った。事務所の入り口からコチラへと歩いてくるのは相澤先輩だった。が、いつもの服装ではなくきっちりスーツを来ているし、雑作に伸びた髪の毛は後ろで纏められていた。彼は真っ直ぐ歩いて来てエンデヴァーさんに頭を下げた。そして職場体験の話を始めたのだ。

あ…、クラス担任だから生徒がお世話になる事務所周りかな?それにしても…

いつもと違う装いをする先輩は少しかっこいいなと思ってしまった。

私はそんな先輩の姿を横目に通り過ぎ、事務処理の続きをするべくデスクへと戻った。
書類が溜まった自分の机を見るとため息が漏れてしまうほどだ。なんでこのヒーロー飽和社会に次から次へと犯罪が起こるのか…。処理しなければならない報告書が増えるから本当に勘弁してほしい。それに加えて、ここはNo.2プロヒーローの事務所だ。つまり大手。街のチンピラだけではなく、国のお偉いさんから受ける依頼も多いのだ。

今日の午後から私は待機の予定だし、応援に駆り出されなければ今日中には終わるだろう。…駆り出されなければ。

デスクに置いた小さなアナログ時計がカチッと音を立てると、時刻は正午を迎えていた。昼休憩にでも行こうと立ち上がると、すぐ側に相澤先輩が立っていた。…エンデヴァーさんとの話は終わったんだろう。

「これから昼か?それなら付き合え。」
『…先輩がお昼を誘ってくるなんて珍しいですね?』
「……この辺で簡単に食えそうな飯屋を知らんからな。この間付き合ってやったんだから今日は俺に付き合え。」

そう言って先に出て行こうとする先輩を追いかけた。
事務所から出ると、先輩はスーツのジャケットを脱いで片手でネクタイも緩めた。…なんというか、大人の男性がネクタイを緩めてるのって結構刺激的だな…、なんて思いながら見入っていると、「どうかしたか?」と先輩は私の顔を覗き込んでくるものだから、ドキリとしてしまう。

『スーツ、ちゃんと着るんですね。』と笑って誤魔化すと、先輩は「そりゃ俺もいい歳した大人だからな。」と少し不服そうに言った。余程スーツなんか着たくなかったんだろうなということが伺える。

事務所を出て少し歩いたところにあるパン屋さんに入り、『ここのサンドイッチ美味しいんですよ。』と紹介をしておいた。並べてあるサンドイッチを前に何にするかを問えば、先輩は「胃に入ればなんだっていい。」と特に興味もなさそうに返事をした。

…このゼリー飲料男め。まぁ、先輩らしいか…。

先輩にバレないようひそかに笑って、カツサンドとアボカドサーモンのサンドイッチを持ち帰れるよう包んでもらって店を出た。



「美味いな、コレ。」

パン屋さんから少し歩いた所にあるベンチに二人並んで腰掛け、サンドイッチを食べていると、相澤先輩はそんな感想を口にした。食べ物に興味なんてなさそうなのに、そんな事を言うなんてちょっと意外で『へ…?』と聞き返すような反応をしてしまった。先輩はサンドイッチを口に運ぶ手を止めず、私を視界の端に入れて「どうかしたか?」と言った。

『美味しい、なんて感想を持つんですね。胃に入ればいいって言ってたから味わうなんて意外でした。』
「…お前は俺をロボットだとでも思ってるのか?」
『そういうワケじゃありませんけどね?』

アハハ、と笑うと、先輩は「ま、飯の本分はエネルギー源の補給だから味は二の次なんだがな。」と気怠気に言って残りのサンドイッチを口に放り込んだ。

『そうそう、先輩はそういう感じですよ。』
「お前な…。」

そんなやりとりをして思わず笑ってしまった。やっぱり先輩と居ると気が楽だ。異性、というのを意識しなくて済む。男性というよりも、先生というか先輩というか…いや、距離感的には面倒見の良いお兄さんみたいな…?

一体どうしてこれを恋愛感情にしようとしていたんだろう。
"恋愛的な好き"という感情でないと分かれば、こんなにも一緒に居るのが楽しくて、苦しいことなんか一つもないのに。

恋愛…は、私には少し難しい…。互いの心を見せ合う関係に先輩以外の人となれる気がしないのだ。付き合う事は出来ても、それ以上は踏み込まれたくない。好きな筈なのに、自分の全てを見せる勇気はないし…。だから私が想いを馳せているだけで良い。気持ちなんか伝えない。最後に付き合った人と別れた時に、そう自分に約束した。
数日前、焦凍くんに本音を言ってしまったことを少し後悔している。「人と関わる事が怖い」と口に出した事で更に人に対して臆病になってしまった気がしているからだ。私は、歳下の男の子に弱い部分を見せて何がしたかったんだろうか…。焦凍くんは、私を可哀想だと思ったのかな。だから、キス…をしたんだろうか…。気になる男の子にキスをしてもらっても、可哀想だったから…と哀れみを持たれていると思うと全く嬉しく思えない。あれからモヤモヤし過ぎて焦凍くんとは顔も合わせられないし。…あぁ、なんでお酒飲むといつも後悔する事しちゃうの。もう二度とお酒飲まない。絶対。誓う。

盛大に溜息を吐くと、先輩は「またなんかあったのか?」と呆れたように息を吐きながら私を横目に見た。私は先輩の問いかけに、つい思ってる事を口にした。

『男の人が付き合ってもない女の人にキスする心情ってどんなものでしょう?』
「……………されたのか、男にキス。」

あぁ、もう私ってばなんて事相談してるの…。
改めて聞き直されると恥ずかしくて顔から火が出そうだ。顔を両手で覆って『いえ、なんでも…』と話をなかった事にしようとした。それなのに先輩は溜息を一つ落とした後、ベンチから腰を上げ私の目の前に立ち、両手を強く引いてくるものだから、私もベンチから腰を上げた。顔を覆っていた両手は剥がされて、手首は先輩に掴まれたままだ。そして先輩は少し怒ったような顔をして口を開いた。

「キスしてきた男に対して顔を赤くしてくるのか?」
『…え、と…そうでは、んっ…!?』

先輩の目付きが少しだけ怖く思えて、視線を逸らして質問に応じていると、私の言葉は途中で自分の口の中に押し戻された。

掴まれていた筈の左の手首は自由になっていて、その代わり先輩の手はいつの間にか私の腰に回されていた。…気づけば唇が合わさっていた。

ほんの一瞬の出来事。今の出来事が幻だったと思っても良いほど短い時間。
でも、先輩は私の腰を強く引き寄せ、幻想だと思い込もうとする私に"これは現実だ"と言い聞かせるみたいにもう一度唇を合わせてくるのだ。短い口づけの後、先輩は瞳に私を映してゆっくりと口を開いた。

「お前にキスした男の心情なんか俺は知らん。考える気にもならん。」
『…っ、』
「だが、今の俺の心情なら教えてやらんでもない。」
『先輩…?』

いつも「合理的虚偽だ」と言う時の「してやった」と言わんばかりの得意気な顔をしているなら良かったのに。だけど、私の願いとは裏腹に先輩の目は真っ直ぐに私を見ていたから、『冗談はよしてください』なんて到底言える筈もなく口を噤んだ。

「お前が、たかがキス一つでそいつを男として見て、意識できるんなら、俺も同じ事をするまでだ。」

そう言って再び顔を近づけてくる先輩から逃げようにも、腰に回された腕は力強くて後ろには引けない。
私は咄嗟に、自由になっていた左手で自らの唇を覆って隠して下を向いた。

『今はお昼で、外…ですよ…!』
「それじゃあ夜で室内だったらいいのか?」
『な!?…誰かに見られて記事にでもされたらどうするんですか…!交際してるワケじゃないのに、なんて誤魔化すんですか!』
「…じゃあすれば良いだろ。"交際"」
『簡単に言わないでください!私にだって気になる人いますし。と、とにかく私は仕事に戻りますから…!』

身体をくるりと回して腰に回された腕から抜け出し、事務所の方向へと足早に歩いた。背後で「あ、オイ…」と先輩の声が聞こえたが聞こえなかったフリをした。

この時初めて知った。

恋愛感情抜きにして接していたかったのは
私だけだった。

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