-08-
なまえ side
爆豪さんにアパートの前まで送ってもらい、御礼を言い頭を下げる。先ほどあんな話をしてからというもの、お別れするまでの間わたし達二人の間に会話はほとんど無かった。
爆豪さんが私にかけてくれた言葉が冗談や揶揄いなんかじゃなく本音で言ってくれた事は彼の瞳を見れば分かった。
全くぶれずに私を見つめる強い瞳をしていた。
向けられたことのない視線や真っ直ぐな言葉、手を握られるという行為、どれも私にとってはどう対処していいか分からなかった。
アパートの階段を少し登った所で立ち止まり、心臓のあたりに掌を置く。
びっ、くりしたぁ…。
まだ心臓の音がうるさい。
…プロヒーロー、ダイナマイトからあんな真剣な表情であんなこと言われたら誰だって驚く。
そうだ、この心臓の高鳴りは驚いてるだけ。特別な感情が湧いたわけじゃない。
深く息を吸ってゆっくりと吐き、『なんでもない。大丈夫』と自分に言いきかせて、再び階段を上がり始める。
階段を登り切り顔を上げれば、自分の部屋の前辺りに人影があるのが見えた。
…誰だろう?うちの前だったら嫌だなぁ。
不安な気持ちで部屋のドアに近づけば、やはり人影がいるのは自分の部屋の前で、しかもよく知った顔だった。
その人物もまた、私が近づくのに気づいて通路から外の通りを眺めていた視線をこちらに向けた。
「なまえおかえり…今日も爆豪と一緒だったんだな。」
『焦凍くん…。来てたんだね?今日はどうかしたの?』
「迎えはいいって言われたが、お前に会いたくなっちまった。」
『…』
アパートの通路から私が爆豪さんと歩いて帰ってくるのを見てたんだ。全然気がつかなかった。
焦凍君の瞳は私を映している。月明かりに照らされて顔が良く見える。
…彼の表情はまた今日も少し悲しそうにしているように見えた。
顔を見つめていると、腕を引かれ昨日と同様に焦凍くんの腕の中にすっぽりと収められる。
期待しちゃダメだと思いつつも大好きな人の香りの中に閉じ込められると、速くなる心拍数は抑えられない。
『…っ、き、昨日からどうしちゃったの?』
「悪りぃ…。なまえをこうしてると落ち着く。」
『わ、私は少し苦しい、かも…。』
そこまで力は強くないのだけど、自分の心臓の音が大きく鳴って苦しいと感じてしまう。
私が返事をした後に誰かが階段を上がってくる足音が耳に届いた。
その足音にハッとして焦凍くんの身体を押し返したのに、彼は離してくれるどころか更に強く私を抱きしめてきた。
『焦、凍くん…!人が…』
「…」
全然解放してくれる気はなさそうだ。
この時間が暗いとは言っても、月明かりの所為で私たち二人の姿はハッキリ見えてしまうだろう。
私は焦凍くんの背中に腕を回し、トントンと軽く叩いてもう一度『焦凍くん。』と呼びかけた。
すると、彼は少しだけ腕の力を抜いてくれた。
「…もう少しだけこうさせてくれねぇか?」
『…っ、…ここじゃ人が来ちゃうから中に入ろう?』
私がそう言うと、彼はゆっくりと身体を離してくれた。
家の鍵を開けて焦凍くんを『どうぞ。』と中に招き入れ私も続いて中に入る。
扉を閉め内側からカチャリと鍵を掛けた途端に背後に温もりを感じる。
首のあたりに腕を回され後ろからぎゅうっと抱きしめられていた。
また期待してしまう自分がいる。
昨日、焦凍くんに言われた言葉を思い出して『ダメだ。』と言い聞かせ口を開いた。
『また…寂しくなったの…?』
「いや、今は苛ついちまってる。」
『…どうして?私何かしたかな?』
「…こんな風に爆豪も家に上げたのか?」
『え…?』
「手、繋いで歩いてたろ。付き合ったりしてんのか?」
『!、違うよ!爆豪さんとは、そういうんじゃ…。』
爆豪さんとの関係をそんな風に誤解されていることに驚いて、くるりと身体の向きを変え強く否定した。
だけど手を繋いでいる所を見られては、そう誤解されるのは無理もないと思い始め、私の声量は段々と言い終わりにかけて小さくなっていく。
あまり深く聴かれたくなくて焦凍くんから視線を逸らしてしまう。
"貴方の話をした"なんて言えないもの。
爆豪さんとの関係をどう言おうか考えていると、再び私の身体は焦凍くんの香りと温もりに包まれる。そして額に口づけを落とされ、また抱きしめられる。
『あ、の…?』
「すげぇ安心しちまった。」
『あんしん?』
「なまえが爆豪と付き合ってるんじゃねぇかって思ったら、ずっと大事にしてたモン横取りされたみてぇでとんでもなく苛ついた。」
『…私が焦凍くんにとって妹みたいなやつだからそう思うの?』
「いや、違うな。…なまえが替玉見合いってのに行くっての聞いたり、爆豪と歩いてんの見ると自分の中で負の感情が湧いてた。…それがなんでなのかよく分かってねぇで、俺の知ってるなまえが違う人に変わっちまうのが嫌なだけだと思ってたけど、たぶんそうじゃねぇ…。」
『…焦凍くんの考えてる事、私にはわかんないよ。』
「悪い。…今日、なまえが爆豪に手ェ握られて帰ってくんの見て、俺だけのなまえで居て欲しいって思っちまってた。すげぇ自分勝手だよな。」
『…』
「俺はなまえのことが好きだ。妹みたいな奴とかそんなんじゃなくて、一人の女性として。」
夢の中にでもいるかと思った。
でもちゃんと現実だ。だって焦凍くんに強く抱きしめられている身体は少し痛いと感じているもの。夢なら感覚なんてきっと無い。とっくに目が覚めてる。
『私もずっと貴方だけを好きだったし、今も大好きだよ。』とそう言いたいのに嬉しい感情が涙として溢れ出てしまって声が出なかった。
その代わりに焦凍くんの背中に腕を回して服を強く掴んだ。
一番欲しかった言葉を何年もかかってやっともらえた。幸せすぎてこのまま時が止まって欲しいと思った。
「なまえ。」
優しい声で名前を呼ばれ顔を上げれば、温もりを持った左手を頬に添えられそっと口づけを落とされる。
焦凍くんの香りに包まれて、温かい手を添えられて、目の前には彼しかいない。それなのにどうしてだろう。何故か私の頭の中に一瞬だけ、先程涙を拭ってくれた焦凍くん以外の人物の顔が浮かんだ。
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