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なまえ side
マンションのエントランスへ勝己さんと入れば、そこに集まっていた人集りは「彼を待ってました」と言わんばかりに詰め寄って来て手にしていたカメラやスマホを私達へ向けて来た。
ここから逃げたい。
そう思っても自分の右手は勝己さんに強く握られていて、振り解こうとすれば「大丈夫だ」と私に言い聞かせるように手を更に強く握りしめてくる。
こういうのは昔から苦手だ。
注目を浴びるのも、誰かの晒し者になるのも…。
クラスのグループリーダー、合唱コンクールでのソロパート…。これらを出来るだけ避けて生きて来た。
常に脇役Aを望んでいた。それは大人になった今も変わらない。
人気者の、主役の隣に立つのは私じゃない。
この人の隣に立つのは、私みたいな平凡に生きてる地味な顔の女じゃなくて、もっとキラキラした女性だと誰もが思ってる。私を含めてこの場に集まった人たち全員が、そう思うはずだ。
「そちらの女性が噂になってる交際相手ですか?」
「いつから交際されてるんでしょうか?」
「お相手の方は一般の女性ですか?」
そんな質問が次々に飛び交った。
カメラのシャッター音も、記者と思われる人々の声も全てが恐怖だった。
私なんかが隣にいる所為で勝己さんは家にも入れないでいる。それに、隣にいる女が私のような平凡な女だと分かれば、彼の株を下げてしまう。
この人のお荷物にはなりたくない。
今度こそ握られた手を振り解こうと強く腕を引いた。
それなのに彼の握った手は私の手を決して離してはくれなかった。痛いくらいに握られた掌に驚いて顔を見上げると、彼は私のすぐ隣に立っていて、今まで背を向けていたはずなのに、私は彼の赤い瞳に捕らわれていた。
「テメェが逃げる必要はねぇ。」
低い声でそれだけを発すると、彼は私の手を引いたまま歩き出してエントランスのオートロックを解除した。
ピーっという開錠音と共に開いた自動ドアの中へと入れば、ここに集まっていた人々は誰一人として扉の先へ足を踏み入れることはなかった。
ようやく人の海から解放された安堵感はあるものの、未だに自分達へ視線が集まっている不安感は消えない。
背中からひしひしと感じる嫌な視線から逃げるように、足早に勝己さんの後ろを歩いた。
だが、数歩あるいたところで勝己さんは突然ピタリと足を止めてしまう。視線を上げると彼は真っ直ぐと私を見て、ただ一言「5秒だけ我慢しろ。」と言った。
私が彼の言葉に返答するよりも早く、勝己さんは視線を私から私の背後にいる人集りへと移した。
「……見せモンじゃねぇが、これ見て納得してさっさと帰りやがれ。」
勝己さんはそう言うと、私の腰に手を回し、もう一方の手は後頭部へと回してあっという間に私の逃げ場を失くした。
_気づけば唇が合わさっていた。
背後から感じる嫌な視線も
うるさいほどのシャッター音も
女性たちの悲鳴も
この人に包まれると
途端に全部がどうでも良くなった。
ただこの人の隣に居たいと思った。
数秒で唇が離れると、徐々に夢から現実へと引き戻される感覚に陥る。
「やはりその女性とは交際してるんですね?」
「ご結婚は考えてらっしゃるんですか?」
再び耳に入ってくる質問の嵐に耳を塞ぎたくなる。彼は私が視線を落としたのに気付いたのか、私の被っていた帽子を深く被せた。そして私の膝裏と背に腕を回して軽々と私の身体を持ち上げたのだ。
「顔、見えねぇようにしがみついとけや。」
私にだけ聞こえるようにボソリとそう呟いた。そして記者たちに背を向け私を隠すと、顔だけを人集りに向け、静かに口を開いた。
「今の見て、まだ分かンねェかよ。」
それだけを口にすると、彼は私を抱えたままエレベーターの方へと歩き出した。
…
『んぅ…、』
エレベーターの箱に入るや否や、勝己さんは私の身体をゆっくりと降ろした。そして私の身体を壁に縫い付けるように張り付けて唇を合わせられる。
先ほどよりも深くて長いキスだった。
もっとしたいと思うのにエレベーターはあっという間に目的階に辿り着いて扉を開けてしまう。
優しく手を引かれて彼の部屋の扉の内側へと通されると、またしても身体を抱えられリビングのソファにふわりと落とされた。
『あ、の…靴…。』
靴を履いたままだった為に足を浮かせてそう言うと、勝己さんは私の前に腰を落とした。
「さっきは悪かったな。」
低い声でそう呟きながら、彼は私の履いていた靴に手を伸ばした。まるでお姫様のガラスの靴でも脱がすかのように丁寧にしてくれるものだから余計に緊張してしまう。
「変に噂になって突っつき回されるよか、アイツら納得させた方が早ェ…。」
『…な、納得するでしょうか?記者の方々はゴシップネタが欲しいだけでしょうけど、貴方の追っかけの女性たちは、納得しようとしても出来ないと思います。』
嫌というほど分かってる。
“ファン”というものの怖さを。
焦凍くんのファンの女性に監禁された時のことを思い出しすと、未だに身体は震えてしまう。
『貴方の隣にいるのが私のような女なら尚更。』
「あ?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。想いを口にした後に後悔した。やっぱり自分が惨めになるだけだったから。
『……私が平凡で何も持ってない女だから。』
勝己さんは何も言わず、脱がし終えた靴を手にするとそのままどこかへ消えてしまった。玄関に置きに行ってくれたのだろうか、それともまたどうしようもない事でウジウジしてる私に嫌気がさしたのだろうか。
周りの評価を気にするなんて馬鹿げてる。それでも不安で仕方なかった。
特段可愛い容姿をしてるワケでもないし、
優れた個性を持ってるワケでもない。
どこかのご令嬢なんかでもないのだ。
周りからの反応で不意に思い知らされる。
この人に釣り合う何かを、
私は何も持ってないことを。
私を惨めにしてるのはいつも私自身だ。
小さく息を吐き出していると、リビングへと戻ってきた勝己さんは私の隣へと腰を落とした。そして私の左手を優しく握ってくれた。
「何をそんなに自分を卑下する事があんのか知らねぇけどよ、」
そう言い始めた彼の話を聞きつつも顔を見る事はできなかった。
…あまりにも自分が情けなかったから。
「俺が惚れたのは間違いなくてめェだ。…みょうじなまえだ。」
『…っ、』
「ただ一緒にメシ食って、隣で眠って笑えてりゃそれでいい。少なくとも俺はそう思ってンだがな。」
『それは、私も…です。』
「…周りが何を言ってこようが、今日みてェに証明したるわ。てめェの恐怖も不安も全部取っ払ったる。…ンでもって、」
『…』
続きの言葉を待っていると、彼は私の薬指に何かを滑らせた。左手を持ち上げられ、彼の唇の前で止まる。彼の唇が私の左手薬指に触れると、そこから一気に熱が上がっていくような気さえした。
「てめェが老いぼれて死ぬ最後まで、俺が隣に居てやらァ。」
思考が追いつかなかった。
左手薬指に嵌められたキラリと光る指輪と、勝己さんの赤い瞳を交互に見た。
これは調子の良い夢なんかじゃない。私は今、握られた掌からちゃんと彼の体温を感じているもの。
この指輪は、勝己さんに放たれた言葉が“聞き間違いではない”と証明してくるのだ。
ようやく思考が追いつけば、目からは勝手に涙が溢れた。
『はぃ…。』と小さく返事をすると、彼は私の身体を優しく包み込んで唇を合わせた。
後頭部に手を回されると、ゆっくりとソファに倒され何度も何度も角度を変えて唇を食べられる。
「なまえ…」と低い声で優しく呼ばれるとそれだけで愛しくなる。先程まで抱えていた不安など甘く溶かされていくようだった。
『大好きです。』
口から勝手に想いが溢れ出すってこういう事だ。
見返りなんかを求めない。ただ伝えたくて、知って欲しくて、言葉が脳みそを通らず口から溢れ出す。
彼の強い赤は私を見つめた。そして唇を耳に寄せると低く甘くただ一言だけ囁いた。
「愛してる。」
その言葉に、声に、かかる吐息に、
全身がキュンと疼いてしまった。
『んっ…』
思わず出てしまった自分の声に驚いて口を両手で覆った。身体を直接触られたワケでもないのに、室内に響いた自分の濡れた声がどうしようもなく恥ずかしかった。
二人きりの、時計の音しか流れ込んでないような静寂な空間で、勝己さんが私の声を聞き逃すワケもなく、彼は身体を少し離すとニタリと意地悪く笑って私を見下ろした。
『い、今のは勝手に…。』
「ハ…、もうスイッチ入ったかよ。」
『…勝己さんだって、もうその顔してます…。』
「あ?その気にさせたのはてめェだろ。」
ゴツゴツとした彼の手が、耳の輪郭をなぞるように這わされるのが擽ったくて、身を捩ろうにも上に乗られた状態ではうまく身動きが取れない。
耳をなぞっていた指が離されると、勝己さんはバサリと服を脱ぎ捨てて一瞬で上裸になった。
筋肉質な身体がかっこよくて、思わず身惚れてしまう。
「期待したツラしやがって。」
舌なめずりをしながらそう言う彼は至極楽しげな表情をしていた。
期待した顔…?
私そんな表情してるんだ。自分ではよくわからないけれど、彼の言葉は否定できない。…間違いなく、これからする事を想像して身体が疼いてしまっているから。
「明後日から二週間会えねぇぶん、しっかり補充させろや。」
一昨日の私のセリフをそっくりそのまま言われたようだ。
意地悪く笑う彼の視線から目を逸らせず、私はコクリと頷いてゴツゴツとした逞しい背中に腕を回した。
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