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なまえ side
ー月曜日ー
『はぁぁぁぁ…、』
まだ誰も来てない職場で自分のデスクに着くなり盛大なため息をこぼしていた。
現在時刻は7時過ぎ。始業時刻は8時半だから誰も来てないのは確認するまでもなくこの空間には私一人だろう。
金曜日の夜から今朝まで恋人と甘い時間を過ごしてそれはもう幸せだった。これでもかと言うほど朝から晩まで愛されたのを思い出すとそれだけで自身の体温が上がってしまうのを感じる。
だが、月曜日の朝になっていざ外に出てみれば、夢の国から現実へと引き戻された。現状抱えている問題…、それはSNSでちょっとした話題になっているという【ダイナマイトの女】騒動だ。
2日間も部屋から出なければ、皆飽きて月曜の早朝にはマンションに張り込む者など居ないと思っていたのだが、執念深い者はいるようで会社近くまで数人につけられていたようだ。
『一人で大丈夫です。』
そう言う私の言葉など全く聞く耳持たずの勝己さんは深く帽子を被り、私には帽子と伊達メガネ、それから首元はマフラーでぐるぐる巻きにして顔の下半分を覆った。数人につけられている事に気づいたのも彼だ。
通勤路の途中でタクシーを拾い、適当に街をぐるぐると走らせてから職場前まで送ってくれた。
暫く、勝己さんと会うの控えた方がいいのかな…。
今朝のことを思い出すとそんな風に考えざるを得ない。
数日もすれば長期の遠征に出ると言っていたから、その間はどうしたって会えない。せめて、その前に一度会って『いってらっしゃい』と『気をつけて』を直接言いたかったところなのに…と、少しだけ寂しくなる。
もう一度深くため息を落としていると、その直後にスカートのポケットに入れていたスマホが振動した。取り出して画面を見れば、勝己さんからの着信を知らせていた。
名前を見ると、先ほどまで一緒にいたというのに会いたくて声が聞きたくて堪らなくなる。私は場所も変えずにその場で通話ボタンをタップして耳に当てた。
『もしもし。』
「無事につけたンかよ。」
『はい、おかげさまで。…朝から面倒なことに巻き込んでしまってごめんなさい。』
「あ?巻き込んでンのはこっちだろーが。…それよか、帰り俺がそっち着くまでビルから出んな。」
『え…?迎えに来てくれるんですか?』
「てめェの職場が特定されてる可能性は低いがゼロじゃねぇ。俺がいいっつうまで大人しく待っとれや。」
『いえいえ…!遠征前で準備もあるでしょうし、忙しい勝己さんにそんな護衛みたいなことさせる訳には…!大丈夫です。ダッシュで帰るので…!』
話している途中で勝己さんの通話口の向こうが何やら騒がしくなり始めた。すると勝己さんは軽く舌打ちをして「待っとけよ、じゃあな。」と一方的に通話を終了させてしまった。
本当にプロヒーローさんは忙しそうだ。
メッセージアプリを開いて“本当に大丈夫ですから”と打ってスマホを置いたところで、オフィスのドアが開いて数名が「おはようございまーす」とやって来た。
心配かけないようにしっかりしないと。
スマホを見つめてそんなことを思っていた。
−−−−
17:30ー
仕事の就業時刻を迎えた私は、恐る恐るビルの外に出た。一人でいるのに変に顔を隠すと怪しまれるだろう、という同僚のアドバイスもあり、素顔のままで外に出てみたのだが、外に出た今になってマフラーくらいは巻いてくれば良かったと後悔していた。
…いつもよりもビルの前に人が多くいるように思うのは、私が気にしすぎている所為だろうか?
誰にも顔を見られぬように下を向いて歩いていると、道ゆく人と肩がぶつかってしまった。
『スミマセン…』と小さく謝って頭を下げていると、相手の女性二人組は、「このくらいの背だよね?」と私の謝罪など無視で話し込んでいた。
軽く会釈をしてその場から立ち去ると、背後からは私の後ろ姿を見ながら話しているであろう女性たちの声が耳に入ってくる。
「背はあのくらいだったけど、ダイナマイトと不釣り合いでしょ。なんか地味そうだったし。」
「…それもそっか…。ダイナマイトが女と乗り込んだタクシーがこの辺で再出発したの見たから、このビルの人みんな怪しく見えちゃうよ。」
「だとしても、今のはないでしょ。」
「そうよね?」
クスッと笑う女性たちの言葉はグサリと自分の胸に刺さった。
大丈夫…そうよ、私は堂々と歩いて大丈夫。噂となっている【ダイナマイトの女】が私だなんて誰が見たって思わない。
だって
_私は
_彼とは釣り合わないから
ここまで周りの評価が悲しいことがこれまでにあっただろうか。
“大丈夫”と言い聞かせるたびに悲しくて涙が溢れそうになってしまう。
『きゃ!?』
涙を堪えていると、突然腕を強く引かれ、横の小道へと引き摺り込まれた。
助けを呼ぼうと叫ぼうにも、口元を手のひらで押さえられてそれ以上の声は出せなくなった。
「暴れンじゃねぇ、俺だわ…!」
聞き覚えのある低い声にピタリと体の動きを落ち着けた。
押さえられていた口元が解放され見上げると、愛しい人の顔がそこにある。
『か、勝己さ…はぅ…!』
「待ってろっつったよなァッ…!あぁ!?」
彼は私の唇を指で摘むと目を釣り上げて静かに怒鳴った。
これはかなりお怒りだ…。
唇を摘まれたまま何を言えない私がコクコクと首を縦に振ると、彼は呆れたように小さく息を吐き出して立てた親指を反対の通りに倒して見せた。
あちらから帰る、ということだろう。
もう唇は解放されているというのに、私は黙って指示を出す彼に何も言えず、頷いてみせた。
反対の通りに出たところには、一台の車がハザードランプをチカチカと点滅させて停車していた。
後部座席に二人して乗り込むと、運転席には以前にも少しだけお会いした勝己さんのサイドキックの方がニコリと笑って座っていた。
この人は確か、以前勝己さんの事務所に行った時にお会いした方だ。熱で倒れ込んだ勝己が私の上で眠ってしまったのを、助けてくれたんだっけ。
サイドキックの方に『以前はお世話になりました。』と挨拶をしてサイドキックの方も私に何か話そうとしていたのだが、それは虚しくも勝己さんの怒号によってかき消されてしまう。
「待ってろっつってンのに、何ノコノコ出て来てンんだテメェはァッ!」
車が目的地に着くまでの数分間、車内では勝己さんの説教タイムが行われた。
……
「はい着きましたよ、ダイナマイトさん。」
サイドキックの方がそう言って停められた車の外を見ると、勝己さんのマンション前に着いていた。
今日はやけにエントランス付近に人が集まっているな、なんて思いながらぼんやりと眺めていると、サイドキックの方は「あちゃー、だいぶ張り込まれてますねぇ。」と困ったように笑っていた。
「どうします?引き返して近くのホテルにでも行きましょうか?」
「あ?なんで隠れなきゃなんねェンだよ。自分の家くれぇ帰るわ。」
「俺は彼女さんを心配して提案したんですけどね…?ま、ダイナマイトさんがそう言うなら大丈夫ですかね?何か困り事があればまたなんなりと。」
勝己さんとサイドキックの方が話を終えると、勝己さんは、自分が被っていた帽子を私に被せてきた。そして「堂々と俺の隣に立ってりゃいい。」と言って私の腕を引いて車の外へと連れ出した。
彼は困惑している私の手を強く握ったまま人集りのできたエントランスへと歩き出してしまった。
い、一体何をする気なの…?
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