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なまえ side
「なまえー?今日夜飲みに行かない?」
勤務の時間を終え、帰り支度をしているところに隣の席の同僚からそう声をかけられた。今日は特に用事もなかった為にOKの返事をしようとした。しかし彼女は私が返事をするよりも先に「チャージズマと約束してるから、ダイナマイトも誘って、前のメンバーで飲もうよ!」と付け足してきた。"ダイナマイト"という名前に一気に顔に熱が溜まっていくのが分かった。
『あ…、ごめん。今日は…。』
「えー、なーんか最近付き合い悪くない?」
『そんなことは…』
「ショートの熱愛報道のニュースの日くらいからボーッとしてる事多いし。」
『そんなこと…』
「ま、いいや!また話したくなったら話してよ。そん時は奢るから!」
そう言って彼女は手をヒラヒラとさせて帰って行った。
私が焦凍くんと幼馴染だということは彼女も知っている事だ。恋愛的感情を抱いていた事を話したことは一度もない。これは彼女だけでなく誰にも言っていないことだ。口が硬く仲良しで信頼できる彼女には話してしまおうかと思った事はある。だけど、抑え込もうとしていた気持ちを他人に言ってしまえば、諦めることが出来なくなると思った。あの頃の私は焦凍くんへの想いをどうやって眠らせてやろうかと、そればかりに必死だったんだ。
それが今やどうだ。
焦凍くんは彼氏という存在だ。
ちなみにニュースで話題となったショートの熱愛報道の件は、焦凍くんがメディアであの記事が事実である事と共に、「相手の女性は一般女性ですので…」と言ってくれたおかげか、世間は落ち着いている。
彼女は"焦凍くんを恋愛的に好き"だという私の気持ちに気づいていたと思う。それでもいつも深くは聞かないでいてくれるその優しさに申し訳なさを感じていた。
次にお酒を飲む時はちゃんと話そう。焦凍くんとのこと。…爆豪さんとの事も相談をしたいところだ。
爆豪さん……。
二日前、ダイナマイトヒーロー事務所でキスをされた。風邪で意識が朦朧としていたのだろうけど、単なる事故で片付けられる問題じゃない。あの時爆豪さんが発した言葉で、その行為を狙ってした事は明白だ。
私は指先でそっと唇に触れた。
二日前−
唇が重ねられた瞬間、何が起こっているのか分からなかった。手に持っていたパウチの袋は床に落としてしまっていた。一度唇を離され、再び重ねられて数秒でようやく状況が理解できた私は、爆豪さんと向き合うように体の向きを変えて力一杯に押し返した。しかし、女の腕の力で鍛えられたこの逞しい腕から抜け出そうなんて無理な話だ。
触れた唇から伝わる熱で爆豪さんの体温の高さを直接感じ取る。
爆豪さんから発している熱で自分の身体も体温を上げていくのがわかった。
腕の中で必死にもがけばもがく程、爆豪さんの腕の力は私を離すまいと強くなっていく。
これが風邪ひいて倒れた人の力!?
…と、とにかくこの状況をなんとかしなきゃ。
『ば、爆豪さん、寝てないと…!、わ、きゃっ…!』
ドサッ
突然自分の体に爆豪さんの体重がのしかかってきて思わず後ろに倒れてしまった。背後に棚があった為にそれが背もたれになってくれて床に背をつくことはなく、尻餅を付いた。『いったぁ…』と言って閉じてしまっていた目を開けると、先ほどまで目の前にあった爆豪さんの筋肉質な体は無くなっていた。その代わりに自分の肩や体に重みを感じ、耳のすぐ近くで少し荒い息遣いが聞こえる。
ね、寝てる!?
それよりも体の熱さと呼吸の速さが普通ではない。
体を押し退けようとも爆豪さんの体重がのしかかっている上に腕を回されて身動きが取れないこの状況では、先ほどよりも力を入れるのは困難だった。
−−−−
結局、あの後は「大きな音がしたから」と様子を見に来てくれたサイドキックの方が爆豪さんを私から剥がしてベッドに寝かせてくれたのだ。
二日前の出来事を思うと、あの時の爆豪さんの体温を思い出すかのように自分の顔に熱が集まっていくのを感じてしまう。その出来事と同時にいつか爆豪さんから言われた言葉も思い出してしまう。
−アイツに向けてやがる感情を俺に向けて見ろや。
−いつか思い出すようにしてやる。
気にしないようにしていたのに、爆豪さんのことを考える度にやけに鮮明に脳内で再生されてしまうのだ。
つまりあの言葉はやはり、私への好意があって言ってくれたという事…でいいのかな?
彼氏以上に爆豪さんの事を考えてしまっている自分が嫌になる。
…爆豪さんとはもう会えない。会っちゃダメだ。
焦凍くんを悲しませたくないもの。
オフィスの入ったビルの自動ドアをくぐりながらそう思った。
何故か寂しい気持ちになるのは、きっとこの冷え切った夜の空気の所為だ。
「やっと出てきやがったかよ。」
そんな言葉が聞こえて、聞き覚えのある口調と声に条件反射で顔を上げ、その声の主を確認した。…知らないふりをして立ち去りたかった。だって、たった今会わないと誓った人物が目の前にいたのだから。でももう遅い。その人とはしっかり目が合ってしまっていた。
『爆豪さん…。』
私から距離を詰めることはしなかった。それなのに爆豪さんの方から近づいてきて私の額に掌を乗せた。なんとも不機嫌そうな表情をして「チッ」と舌打ちを軽く漏らした後、「移っちゃいねぇな。」と言ってその手を下ろした。
…心配してくれているのだろうか?
その刺々しい優しさが気になっていつも心が乱れてしまっている。
あの日から会ってはいないが『体調の方はいかがですか?』と昨日のうちにメッセージを入れた際に、「なんともねぇ。」と返信があったから爆豪さんの風邪はもう大丈夫なのだろう。
歩き始めた爆豪さんの後ろ姿を立ち尽くして見つめていれば、爆豪さんは振り返ってくる。そして歩こうとしない私に「ボサっとしてんなや」と言って、詰め寄り手を掴んでアパートの方向へと歩き始めた。
ダメだ。これ以上この人といたら自分が分からなくなる。
そう思って掴まれた手を私から振り解いた。
私は、怪訝そうな面持ちで見てきていた爆豪さんをまともに見れず、顔を逸らした。
「あ゛?」
『…あの、もうここには来ないでください。』
「…」
『付き合ってる人がいるので、その人を悲しませたくはないんです。』
「ケッ…あのスカした半分野郎かよ。」
『!、ご存知なんですね。その通りです。ですから、その…お願いします。あと、この前の事務所での事は忘れますから爆豪さんも…』
「勝手に話進めてンじゃねぇわ!」
『…』
声を荒げられ、肩がビクッと跳ねてしまう。
爆豪さんは、再び私の手を乱暴に取り歩き出した。
…しばらくの間沈黙が続いた。
もうすぐ焦凍くんがいつも待ってくれている場所に着く。爆豪さんと歩いているところを見て良い気はしないだろう。
先程の話の続きをしなくては、と私から沈黙を破った。
『あの…!』
「あ?」
『くどいかもしれませんが、今後はあそこに来ないでいただきたくて…。』
「…」
『…』
「俺ァ、欲しいモンは全部手に入れねぇと気がすまねぇ。それが誰かのモンであろうが関係ねェ。」
『はぁ…』
「自分のこと言われてるって分かってンのかよ。」
『わ、たし…ですか…?』
「この前の事を忘れるだァ?ふざけたこと抜かしてンじゃねぇわ。誰が忘れさせっかよ。」
『!』
突然視界が揺れた。
爆豪さんに掴まれていた手を強く引かれ、気づけば唇を奪われていた。
ほんの数秒で離されたあと背後から「なまえ、と爆豪か?」と自分の名を呼ぶ声でハッとして爆豪さんの体を押して距離を取った。
爆豪さんも、自分の名を呼ぶ声に驚いたのか、腕の力を緩めてくれたから、今日はその腕から抜け出す事ができた。
今の声は焦凍君の声だ。顔を見ずともわかる。
好きな人がすぐ近くにいるのに振り向けない。
焦凍くん以外の人とキスをして、どんな顔して焦凍くんの前に立てば良いの?
私、今どんな顔してるの?
顔を見られたくないのに、今日に限って夜道を照らす街灯が嫌に明るく感じてしまう。
先ほどよりも近くで焦凍くんの声が聞こえ始める。
「立ち止まってどうかしたのか?」
『…』
「…ケッ、話し込んでただけだわ。悪りぃかよ!」
「そうか。…なまえ、今日も偶然爆豪と出会ったのか?」
『えっと…』
「俺がコイツの職場の前で待ってンだよ。」
「爆豪が?どうしてまたお前がそんなことをするんだ?」
「チッ…テメェなぁ!スキャンダル写真撮られてんだから、あの写真の女がコイツだって知られりゃコイツが危ねぇだろうが!!変なモブ共がテメェのこと付け回してたらどーすんだゴラァ!全員が全員テメェらの幸せ願うとかぬるいこと考えてんじゃねぇぞ!」
「つまりボディガードってことか?」
「だっれが、ボディガードだゴラァ!!俺様の管轄エリアで変な事件起こさせてたまるかってんだ!…もう俺は帰るわァッ!!」
爆豪さんはそう声を荒げ、私たちに背を向け来た道を戻っていく。
…と思ったのに、数歩進んだ所で足を止めて「…一つだけ言っとくがな、」と顔だけをこちらに向けて静かに話し始めた。
「ソイツから目ェ離してンなら、俺は容赦なく奪いに行ってやらァ。それだけは忘れんじゃねぇ。」
その言葉は一見焦凍くんに対しての宣戦布告のように聞こえるが、私に対しても言った言葉だろう。
「離したりしねぇよ。」
爆豪さんの言葉に対して焦凍くんはそう返した。それも聞いた事もないような低い声で。言葉を発すると共に強く肩を引き寄せられ、バランスを崩した私は焦凍くんに体を預ける。
爆豪さんは私たちを見て「ケッ…」と口から漏らして帰って行ってしまった。
爆豪さんの後ろ姿を見つめていれば、くるりと体の向きを変えられ、焦凍くんの腕に包み込まれた。
「なまえは俺のだ。誰にも奪わせねぇ…。」
私は、悲しそうにそう言う彼の背中に腕を回そうとした。…だけど、どうするのが正しいのか、自分の気持ちも分からなくなってしまって、その腕を静かに下ろした。
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