宝石の涙【後編】


轟 side

「なまえ、お茶が入ったぞ。こっちで一緒に飲もう。」

俺のヒーロー活動が休みの昼下がり。二人分の湯呑みを用意して、茶を淹れた。部屋の窓の近くに座り込んで外をぼんやりと眺めていたなまえにそう声をかけるが、彼女は俺の声など耳に入っていないのか、雨が降り続く空ばかりを眺めているようだった。

なまえがこの家に来て1ヶ月が経とうとしていた。彼女がこの家を帰る場所にすると決意してくれた日から、それまでは締め切っていたカーテンを毎朝開けるようになった。そしてただ何をするでもなく空を眺めているのだ。「外に行くか?」と声を掛けても、見てるだけで良いと言うのだ。聞けば、こうして好きな時間に好きなだけ空を見る事が出来るなんてのは、初めての事らしい。金の欲に塗れた人間たちの間で売り買いをされてきた彼女は軟禁状態である事がほとんどだったと言う。“飼い方”はその時の主人によっても違ったが、皆自分の自由を奪ってきたと彼女は言葉を詰まらせながら話をしてくれた事もあった。…“暮らし”ではなく“飼われている”という言葉を彼女の口から聞いたとき、腹の奥底から怒りが込み上げてきた。彼女を“人間”でなく“道具”としか見ない汚い連中にも、そんな胸糞悪い惨状に気づけていなかった自分にも…。

俺が窓辺で外を眺めている彼女の隣に腰を落として、湯気の立つ茶を置いて啜るのはいつもの事だ。そうするとなまえはようやく俺の事を意識のうちに入れて『ありがとうございます。』と穏やかに微笑んでくれる。

なまえと共に過ごす、何でもねぇこんな時間が好きだった。

一緒に空を見て、彼女が今何を視界に入れて何を思ってるのかを考えていると会話はなくとも彼女と通じ合っているように思えた。

「朝からよく降るな。」
『…そうですね。』

たった一言の会話。それでも以前のように『死にたい』『殺して』以外の言葉を口にするようになった事を嬉しく思っていた。
彼女はあれ以来、色々な感情を口にしてくれるようになった。表情も沢山見せてくれるようになった。蕎麦を食いに行く約束を破った日には怒った顔を見せてくれたし、女物のワンピースを買って帰れば『毎日着ます。』と言って喜んでくれた。だが、やはり悲しい表情をする事もある。夜寝る前に枕を持って俺の部屋にくる彼女は決まって今にも泣いてしまいそうな程悲しい顔をする。朝起きたらまた違う所に連れて行かれてるんじゃないかと思うと不安で眠れないと言っていた。震えながら目を閉じて眠ろうとする彼女を放っておけず、一緒の布団に横になって頭を撫でてやっていた。それが落ち着くのか、ここ最近は俺が布団を敷く時間になると、彼女は自分が寝床として使っている部屋から枕を持ってきて俺の枕の隣に置くようになった。
過去に受けた酷い仕打ちを夢の中で追憶しているのか、酷くうなされている事もあった。何度、過去に戻って彼女を助けたいと思ったか分からない。

「雨、好きか?」
『…音が好きです。』
「音?」
『ザーッて水の音。全部丸洗いされてるみたいで気持ちが良いです。あと、昔の嫌な主の声を掻き消してくれ…、…っ、ごめんなさい忘れてください。』


彼女の心を蝕む辛い過去をどうにも出来ない事がただただ歯痒くて、腹立たしかった。

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また数日経ったある日、業務を終えて家に帰ると、なまえは台所に立ち尽くしていた。彼女がここに立つ事は珍しい。というか、家主の俺でさえもここで作業する事は少ないくらいだ。彼女は俺と目が合うと悲しそうな顔をしてその床に座り込んだ。彼女の横に一緒に腰を落として「腹でも空いたのか?それならコンビニで買って帰ったからこれを食べよう。」と声を掛けた。俺の言葉に彼女は首を横に振ってみせた。

『焦凍さんにしてもらってばかりだから、今日は私がおむすびを作ろうと思ったんです。』
「…気にするな。俺が好きでしてるんだから。」
『でも…ご飯の仕方、分からなくて…。』

彼女がそこまで言うと、コロンと床に軽やかな音が立って青色の宝石が一つ落ちていた。なまえは文字の読み書きや箸で飯を食ったりなんかの日常生活は普通にできる。だが、料理や掃除、洗濯なんかの家事に関しては全く作法が分からないといった様子だった。いざ何かをしたくても何も知らない事が悲しかったのだろう。そんな彼女を見ると心が締め付けられて苦しくなった。俺は自分の腕の中になまえを収めてゆっくりと声を掛けた。

「俺も家事全般は苦手だから気負いするな。」
『…』
「そうだ、これから一緒にむすびを作ろう。」

俺の提案になまえの表情は少しだけ柔らいだ。実家にいた頃はお母さんが居なかった代わりに冬美姉さんや夏兄が家事を分担してくれていたから、俺はそういう系が得意とは言えない。だが、米を炊くくらいは出来るからと、なまえに教えてやることした。

炊飯器で米が炊き上がるまでの間は風呂に湯を溜めて、交代で入ったり、それでも時間が余ったから一緒に夜空を見上げていた。彼女は夜空を見上げる時だけは、部屋の照明を落として、窓を開けて見ていた。窓越しだと星がよく見えないからだと言っていた。

『一生懸命小さく光を輝かせて見つけてくれと言っているのに、見つけてあげないのは可哀想ですよ。』

彼女はそう言うのだ。まるでいつかの、暗闇の中で救いを求めていた自分の事をあの星たちに重ねているようだった。彼女は更にゆっくりと言葉を続けた。

『私…、貴方に、焦凍さんに見つけてもらえて、買って頂けて幸せでした。“買われた”身なのに、こんなに幸せで良いんでしょうか?』

どうして急にそんな事を言い出すのかは疑問に思った。だが、俺は特に気にも留めず彼女の言葉に答えた。

「…いいだろ。俺は金儲けのためになまえを買ったワケじゃねぇ…。」
『組織を潰すため、ですよね。あの裏オークションの。』
「…その事なんだが、明日またあのオークションが開かれる予定らしくてな。そこに乗り込んで全員取り押さえるつもりだ。」
『…そ、ですか。』
「もし、全て片がついたらなまえに話したい事があるんだ。」
『…』
「だから、此処で待っていてほしい。」

俺がそう言うと、彼女は酷く悲しい顔をした。かと思えばすぐに穏やかな笑顔を俺に向けた。

『どうかお怪我をなさいませんように、無事に此処へ帰って来て下さいね。』

こんなにも近くにいるのに、なぜだかそういう彼女の声は遠く離れた所で聞こえたような気がした。

ピピピッ_と米が炊き上がった事を知らせるアラームが耳に届くと二人して立ち上がり、台所へむすびを作りに行った。初めて二人で作ったむすびは、大小さまざまで、形も不恰好だった。塩も効きすぎていてかなりしょっぱかった筈なのに、今まで食べたどのむすびよりも美味いと思えた。

−−−−

翌日_
作戦の決行日、様々なヒーロー事務所と手を組み、プロヒーロー、サイドキック総勢30名程でオークション会場へと乗り込んだ。入り口の手前で皆を止め、まずは一度中に入った事のある俺が様子を確認する事となった。
だが、オークションが行われると聞いていた会場内は誰一人としておらず静まり返っていた。ただ、ステージ上の灯だけが舞台でも行うかのように煌々と光っていたのだ。

「どういうことだ…!」

予想外の事態に呆気に取られ、その場で足を止めた。
すると、どこからか手を叩く音と共にコツコツと靴を鳴らす音が聞こえ、その音は徐々に近づいてくる。ステージの脇からピエロの面を被ったいつしか見た司会者が現れると俺は身構えた。その様子を見てピエロの男は一礼をして顔を上げた。…ソイツはニタリと怪しく笑っていた。

「どうもこんばんは、ヒーローさん。まず、お詫びをしなくてはなりませんね。」
「詫び、だと…?」
「本日オークションを開催すると偽の情報で泳がせた事ですよ。今日此処には私以外おりません。」
「外にお前を捕える為に何人ものヒーローがいる。予想できただろ、それくらい。…お前が一人で此処で待ってるなんて信じられねぇ。仲間がどこかに…」
「私がここに一人でいるのは貴方と交渉する為ですよ、ヒーローショート。」

そう言うと男はまた怪しく笑って手に持っていた鎖を引いた。その鎖の先を辿れば、首輪に繋がれたなまえが立っていた。首輪は男が持つ鎖と繋がっている。なまえは初めて此処で会った時のように、全てを諦めたような顔をしてその綺麗なブルーの瞳には光がなかった。

「なまえ…っ!」

どうして此処に、なんでソイツがお前を、なんでそんなもので繋がれて大人しくしてるんだ

問いただしたい事は沢山ある。だが、頭の中の整理が追いつかずただ名前を呼ぶ事しか出来なかった。だが、その呼びかけさえもなまえの耳には届いてないような気がした。ピエロの男は体に忍ばせていたのであろうナイフを彼女の首に突きつけて嘲笑うように言葉を発した。

「大事なものはこうやって繋いどかないとねぇ?あと、窓のない部屋に幽閉しとかないと、私のような侵入者に奪われちゃうよ?」
「黙れ…!」
「奪ったと言っても、私は彼女に話をしただけで、私と共に来ると決めたのは彼女だよ。」
「そんな筈あるわけが…!!」
「本当だよ。昨日、キミがお仕事に出てる間に彼女に交渉を持ちかけた。此方に帰って来ればヒーローショートに危害は加えないと。…いやぁそれにしてもあのオークションの日に、ヒーローが会場に紛れ込んでいて商品まで買っているなんて驚きましたよ。」
「なまえは商品じゃねぇ…!」
「商品ですよ。まぁ、今はどうでもいいですがね。…それより貴方への交渉ですが、このまま私を見逃してほしいんですよ。そうすれば、彼女に私からの危害は加えません。…買われた先でどう扱われるかまでは保証できませんがね。」

こんなふざけた事が交渉だとでもいうのか。高らかに笑いながらふざけた事を抜かすこのピエロに対する怒りで、自分がどうにかなっちまいそうだった。そんな交渉を飲む気もなく、「ぶさけんな…!」と叫べば、男は面白くなさそうな顔をして彼女の髪の毛を乱暴に掴んだ。そして、ナイフを突きつけていた彼女の首に先端を当て軽くナイフを動かすと彼女の首からは血が滲み始めた。

「あっそ。それなら彼女に責任をとってもらうまでですよ。…彼女の所為で我々が窮地に立たされているのですから。…私と彼女を此処から逃し今後一切ピエロの動向には目を瞑って頂けるか、此処で彼女を見殺しにしてまで私を捕えるか…どちらかです。」

クソ…氷結で動きを封じようにもこれだけ距離があっちゃこっちが動きを見せた瞬間になまえを殺され兼ねねぇ…。なまえの首に滲む血ばかりを視界に入れながら、悔しくて奥歯を強く噛みしめた。

「彼女を金稼ぎに使わない貴方が惜しむ命でもないでしょうに。彼女は何もできないんですから。出来る事は宝石を生み出すか、今のように大切な方の足を引っ張ることくらいですかね?」
『…私は、何もできない…。』

ピエロの男の薄気味悪い笑い声が響く中で、彼女の悲しく澄んだ声は俺の耳にはっきりと聞こえた。なまえは男の言う事を自分に言い聞かせるように繰り返していた。

「なまえ!ソイツの言う事なんか聞くな!」
『ううん、本当にこの人の言う通りなんです…。私は貴方の為に何も出来ません。』

なまえは瞼を伏せてそう口にした。

「俺の為に何かをする必要なんてねぇ…!一緒に茶を飲んでるだけでいい…!それだけでいいんだ!」
『…そんなの、おかしいですよ。』
「おかしくねぇ…、そんななんでもない時間が幸せなんだ…!出来ねぇ事は昨日みたいに一緒にすればいいだろ!」
『…』
「なまえ、一緒に帰ろう…。」

気づけば俺の目からは涙が出ていた。なまえもまた俺の言葉を聞いてか目からは青や透明の宝石をポロポロと溢れさせながら首を縦に振った。

「彼女を説得した所で、どうするんですか?彼女は今私の手の内ですよ?」
「…なまえに帰る意思さえあるなら、お前なんかなんとでもなる。」
「ヘェ?」

なまえが帰りたいと願うなら、どうとでもしてやる。そう思ったんだ。

俺が攻撃の構えを取ると、ピエロの男はナイフを持つ手に力を入れた。一気に詰め寄ってそのナイフを取り上げようと考えていた。だが、なまえの白い手がナイフを持つ男の手を掴んだ。

『私は、主の元へ帰ります。』

それからは一瞬の出来事だった。

なまえは自らの右瞼の上の辺りをそのナイフで切りつけたのだ。なまえの真っ白な肌を赤黒い血が染めていった。頭の中が真っ白になって、気づけば俺はピエロの男を取り押さえていた。

それからは外で待機していたヒーロー達が突入してピエロの他の仲間達の居場所も吐かせた。裏オークションの主催者グループを一人残らず捕えるのも時間の問題だろう。

俺はヒーロー達が来てから救急隊が来るまでの間中ずっとなまえの右瞼の傷を震える手で押さえていた。

「なまえ…こんなに血が出て…一体どうしてこんな事…!」
『…涙腺、切ってしまえば涙は出ないと思って。…あの男からしたら、宝石を生成できない私はゴミも同然でしょうから。』
「…無茶な事をするな。痛ェよな…、また怖い思いをさせちまって悪かった。」

彼女が出会ったばかりの頃の俺に、『無能だ』と罵った事を全くその通りだと思った。助けると言っておきながら俺は何度彼女を危険な目に合わせたんだろうか。こんな傷まで負わせてしまって…。

彼女は震える俺の手に優しく手を添えてくれた。そして穏やかに笑った。

『あの場所に一緒に帰ってもいいですか?』
「…っ、」

そう言ってくれた事が何よりも嬉しかった。彼女が帰るべき場所として俺を選んでくれたようで…自分の意思であの家に戻ろうとしているようで…。彼女の左目から溢れるダイヤモンドの煌めきを見て、俺の目からも涙が溢れちまっていた。

「あぁ、もちろんだ。」
『お茶の淹れ方、教えてくださいね。あと、おむすび美味しく作れるようになります。』
「そうだな、一緒に頑張ろうな…。」

彼女の辛く悲しい過去も、俺の為にと頑張ろうとする彼女も、重ねられた掌も…彼女の全てが愛おしく思えた。

−−−−

あれから救急隊が到着して、なまえは病院へと運ばれた。俺も同行して診察が終わるのを待ち、医師の話を聞いた。
幸いにも彼女の瞼の傷は浅かったようで、涙腺がどうとか…という話には至らなかった。

家に帰ってきて、何かをする気にもなれず、その日はすぐに布団を敷くことにした。当たり前のように彼女の枕も俺の布団一式と一緒に置いてあるのを見て、つい笑ってしまいそうになった。
敷いたばかりの布団脳に倒れ込むと、なまえもまた一緒に横になった。

その身体を強く抱きしめるとなまえの心臓の音が俺の体に響いてきた。ドッドッド、と速く鳴る音が、此処にちゃんとなまえが居ると俺の身体に刻み込むようで幸せだった。

『焦凍さん…?』
「攫われてばかりだったから、今日からはちゃんと離さねぇようにしとく。」
『…あ、あの…』
「なんだ?」

腕の中に閉じ込めたまま話をしていると、なまえは少しだけ俺と距離をとって俺の顔を見上げた。

『帰ってきたら話したいことってなんだったんでしょうか?』
「あぁそうだったな。帰ってきたもんな、俺もお前も。」
『…』
「この先もずっと隣に居てくれないか?」
『…それは勿論ですよ。貴方が私を他人に売らない限りはずっと貴方のおそばに居ます。』
「そうじゃねぇ…。“買った”とか“主”とかそういうのは無しで、そうだな…。毎日一緒に過ごして、一緒に飯を食って一緒に眠る。いつかは子供ができて家族になってもいいと思う…って意味だ。」
『今と何が違うのでしょうか?あまり変わらないように思うのですが…。今も一緒に住んでご飯もお布団も一緒ですし…。』

考える素振りをするなまえが可愛く思えて、まだ返事も聞けてないというのになまえの身体を組み敷いて彼女の唇に口づけを落とした。

『…っ!』
「俺としては、こうやって当たり前にキスが出来るし、心置きなくなまえに触れる事ができる。」

彼女は耳まで真っ赤に染めて俺を見た。そして視線を逸らしたかと思えばゆっくりと口を開いた。

『“私を買った主”、“買われた人間”という関係でないという事は…私からも、貴方に触れていいのでしょうか?』

かしこまってそう聞く彼女がなんだか可笑しくて、触れたいと思ってくれる事がどうしようもなく嬉しくてフッと笑いが漏れちまった。

「勿論だ。」

そう言ってもう一度触れるだけの口づけを交わすと、なまえは両手を俺の頬に優しく添えて、自らも唇を寄せてきた。
一人分の布団で二人寝るのは窮屈だと思っていたのは、あまり触れてはいけないと思っていたからだ。だが、ピタリとくっつける今、この窮屈な空間は心地よく感じ始める。
今まで触れる事を躊躇していた時間を埋めていくみてぇに、互いに体を寄せ合った。

青色に染められてきたこれまでの彼女の人生に、ダイヤモンドのような煌めきを降り注げる事を誓うように深く口付けた。

fin..

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