2:愛絶 [ 8/51 ]
ねぇ大石。愛になれば良かったね。
そしたら、俺が汚いのも全部愛のせいにできてたのに。
「・・・乾!!」
叫声。
「いいタイミングだったな」
冷声。
「殺してやる!!」
怒声。
二種の音が入り乱れる中、菊丸はただ呆然と焦点の合わない景色の中で意識を泳がせていた。
−腰・・・痛い・・・背中・・・痛い・・・
見慣れた筈の部室内が歪んで見える。
−口・・・変・・・
身体中に湧き起こる不快感に相乗するように笑いがこみ上げた。
−もう、どうでもいいや・・・
クスクスとひたすらに笑う。可笑しくてたまらなかった。
「っ・・・!!」
目の前に乾が倒れてきた。頬には紅い腫れ。大石に殴られたらしい。
「・・・変な顔・・・ざまみろ」
未だ子供のように笑い続ける姿にも動じず、乾は眼鏡を整えて言い放った。
「謝ったりはしない」
「そんなの期待してないよ。ただ・・・」
笑いが止まらない。
視野に入る世界の総てが可笑しくて仕方なかった。
「お前なんか死んじまえ」
−何がこんなに可笑しいんだろう?
「いい言葉だ。気に入ったよ」
乱れた制服を簡単に整えて去る背中。
「死ね。クソ野郎」
躰を動かすきっかけはファスナーを上げる耳障りな金属音。自分でも驚くほど静かに滑らかな動きで立ち上がって、憎い相手の背中に蹴りつけた。
「ぅ・・・!」
ベコベコになって時代を感じさせる扉に、無表情な顔が無様に激突する。
「バッカじゃねーの」
「誉め言葉として貰っておくよ」
「お前なんか死ねばいい」
殺してやる。
そう言うコトはできなかった。
ソレをしてしまえば大石が哀しむ。
こんなになっても、そんなコトを考えてしまう自分が惨めで菊丸は・・・また笑った。
可笑しくて可笑しくて・・・オカシクて。
眼前の景色に消える後姿が可笑しくて・・・
「英二・・・」
恋人の声すら可笑しかった。
「バカだー。みっともねー」
これが愛の世界?
だって、もう・・・好き。じゃない。
汚れたら、好きから愛してるに変わるんだよ。
だって愛って汚いもん。
ねぇ・・・おかしいね。
乾は俺を愛してなんかない。
俺も乾愛してなんかない。
大石は俺を好き。
俺は・・・・大石を愛してるに変わったの?
ヤだなー。
俺、ずっと・・・好き。が良かったのに。
こんなの違うよ。
欲しくないよ。
違うよ。
ねぇ、俺大石のコト大好きだよ。
ねぇ・・・そうでしょ?
ねぇ、愛なんて名前つけないで。
この感情に。
「英二・・・」
もしかしたら震えているのかもしれない声音は、数秒のタイムラグの後に菊丸の耳に届いた。
「何?」
振り返って見せる表情は、笑顔だった。
「大石。大丈夫だよ。俺平気だから」
無邪気とも言える表情。その邪気の無さを例えるなら・・・感情の針の行く先を違えてしまった笑顔。
「ね、大石。俺何ともないよ」
汗で張り付いた前髪、痣のついた二の腕。揉み合った際についたであろう胸元の引っ掻き傷。
見ている方がたまらなかった。
「英・・・っ・・・」
目の前の笑顔が水で歪んだ。目元を手で覆う。掠れた恋人の声が響いた。
「何で大石が泣くの?」
その掠れは泪を堪えているからではない。ただ叫びすぎただけの声帯の劣化。
「お前が・・・・・」
−英二・・・
「お前が泣かないからだろ」
君が流せなかった泪を代わりに形にしたのは僕。
けれど・・・僕は君の痛みを癒せなかった。
あの頃は・・・
「大石、泣かないで」
そして今も、きっと。
ねえ南。
泣く。って結構大事なんだよ。
先輩の俺が言うんだから間違いない。
でもね、俺もあの頃・・・
泣く。が分からなかったんだ。
でもね、大石が俺の分も泪流してくれたから。
だからきっと今の俺でいられるんだ。
「英二。こっち」
大石の自宅。運が良いのか悪いのか、家族は不在。
『じゃあ、俺帰るね』
『待て!』
一人帰ろうとした菊丸を引き留めて、泣きつくような形で家まで連れてきた。
帰路の道中言葉を交わすコトなく、泪で紅くなってしまった大石の瞳を時々菊丸が見上げるだけで道のりは終わった。
「服脱いで。洗うから」
脱衣所で向かい合って、菊丸の肩に手をかけようとすると、聞いたコトのないような低い声音が大石の胸を突いてきた。
「自分でするから、出てって」
怒りや戸惑いというよりは、ただの嫌悪。
「分かった。外で待ってるから、終わったら呼ぶんだぞ」
大石に向けてなのか、自分自身にか、乾にか・・・ソレは誰も理解し得てなかった。菊丸でさえも。
−頭痛い・・・
ゴミを扱うような仕草で洗濯機に制服を投げ入れた。
−あーボタン千切れてら。
学ランの下に着ていたカッターシャツは茶色とグレーの斑模様に汚されていて、見るのも嫌になった菊丸は素手で引き裂いた。
−泣くと思ったのに・・・
二枚に別れてしまった布きれを足で踏みつけて、風呂場の中へと進む。
−何で泪出ないんだろ?
乾に揺さぶられる間、ずっと意識を切り離していた。
考えていたのは、行為が終わってから自分がどうするか。
−泣き叫くと思ってたのに、案外分かんないもんだね。
泣いて、大石に縋る自分を描いていた。
けれども泪は出ない。
−明日から冬休みで良かった。でも部活行きたくねーなー。
シャワーによる滝のような視界の中で呆然と考える。湯気で段々と辺りは見えなくなり、皮膚が熱を吸収して赤くなってきていた。
−何も覚えてない・・・ま、その方がいいか。
どうせ何か記憶が蘇るのなら、独りでいるときが良い。
大石が泣いてしまう。
−何も大石も、あそこで来なくてもいいのにね。どうせなら助けられるタイミングにしろっての。
『随分と・・・』
−っ!!?
突如襲ってきた嘔吐感。蘇る乾の言葉。
−思い出したくない!止めろ!
決壊した堤防のように水状の記憶がなだれ込んでくる。
『×××××××××』
迫り上がってくる異物に眉をしかめた。身体の内の器官で上下を繰り返しながら徐々に登ってくる。
「っう・・・っ、っ!!」
拒否を示すように自然と身体が前のめりになる。
−痛いっ!!
器官を内側から圧迫する異物がせき止められてしまい、何ともし難く、刺すような痛みが体内を突き抜ける。
「!っぁ!・・・ぅ」
たまらず膝をつくと、出口を求めていた物体が口内に迫り上がってきた。
−吐くモノなんてない!
昼食以来何も口にしていない。普通に考えて消化されている筈。ソレでも何かが上がってくる。
『意外と下手なんだな』
「ぅっ!は・・・!!っ!」
タイルの上を水流に沿って流れた液体。
−止めろ!嫌だ!!
舌の上を通る異臭と質感。知っているけれども、少し異なるモノ。
排水溝に流れ落ちた白濁の液体を見つめて笑う。
−何で・・・忘れたままで良かったのに。
やがてその笑顔は苦悶の表情へと変化を成し遂げた。
「嫌だ、好きだもん。大好きなんだ」
−秀・・・
「はは、汚ねー・・・・秀、秀・・・嫌だよぉ・・・」
泪は流れない。シャワーの音に掻き消されて声も届かない。
「愛じゃない。好き。大好き。嫌だ・・・好き・・・」
お願い。
大好きでいさせて。
大好きに戻して。
俺は愛したくなんかない。
愛絶−END−
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