31:暗然 [ 21/51 ]
ボン、ボン。と水滴がシンクを鳴らす。
深夜と呼ぶべき時刻。
南は、濡れた口元を手で拭った。
−不味い。
都会の水道水ほど舌に悪いものはない。薬品とサビの臭いの不協和音が口内を支配する。
「寿命が縮みそうな味だな」
呟きながらソファへと向かい、薄手の夏布団を頭から被る。
−・・・・・・・
「雅美・・・・」
−帰って・・・・こないのか?
恋しい人。貴方は何処にいるのですか?
南が食事を絶って八日目が訪れた。
−限界だ。
日に日に弱りを見せる後ろ姿に、泣き叫ばないでいる自分が不思議だった。
それよりも・・・
『雅美、何処にも行きたくない』
縋るような、泣き出しそうな、ふいに見せた弱さを思い起こす度に泣きたくなった。
−俺はどうかしてる。
今よりも過去を想うなんて。
「東方。そんな顔しないでよ」
「千石・・・・」
「南が恋してる東方の顔じゃないよ」
「俺は・・・・・・・」
想われる資格など無いのかもしれない。
「だから、そんな顔しないでって。南はまた壁打ち行ってるよ。様子見に行ってきたら?」
夏の陽射しが肌をジリジリと焦がす。
焼け死んでしまいそうだ。
「そうだな」
僕が君を好いていることだけは、決して嘘じゃない。
黄色い球体が、ラケットに打たれて壁へと。地面を経由してまたラケットへ。
延々と繰り返される様子を見守りながら、室町は改めて南のテニスに無駄がないことを知った。
−そう言えば・・・
あれは、入部当初の頃だった。初心者から始まった自分に先代の部長が告げた。
『フォームの手本なら南。ショットなら東方。ゲームメイクは千石』
レギュラーの座を、その時点で勝ち取っていた三人。
−今思えば・・・あれが始まりか。
パワーのある東方の球や千石の派手なプレイに皆が気を取られている中、自分だけだった。
−キレイ。だと思ったんだ。
表現するなら、ボクサーの体つきのような。無駄なものが一切無く、純粋にテニスをする為だけの動き。
恋と呼ぶにはまだ遠い、憧れを抱いた。
−バカだな、俺。
黄色い球が、糸でもつけられているのかと疑いたくなるほどの正確さで、ラケットのスイートスポットに吸い込まれてゆく。
−部長・・・・・
恋しい人。
決して手に入らぬ恋しい人。
せめて永遠の憧れでいてください。
単調に繰り返されていた壁とのラリー。
それは南が左手でボールを受け取ったでこと終了した。
−あ・・・・!!
緊張の糸が切れてしまったのか、南はゆっくりと力を抜きながらその場に倒れ込む。
「部長!!大丈夫ですか?!」
仰向けのまま荒い息をついている。意識を失ってはいないようだった。
「頭打ってません?」
「大丈夫だ。ちょっと疲れただけだから」
ラケットを掴む指が、骨張っている。
覇気が感じられない。
確実に弱っている。
−止めないと。
「部長。お願いがあります」
「何だ?」
土に似た顔色、細くなった身体、赤みを無くした唇。
「しばらく、部活には来ないでください」
死の宣告。
大げさなようだがテニスに拘り続ける彼にとっては、ソレに近い言葉だったのかもしれない。
「まともに壁打ちもできない身体で、何ができるっていうんです?きちんとした生活して、体調を万全にしてから来るべきじゃないですか?俺の言ってること間違ってますか?」
「・・・・」
仰向けのまま何も答えない南。
「部長!答えて下さい!!」
ポタ。と泪がコートに音をたてて落ちた。一雫が流れた後を追うようにしてバタバタと同形のモノが皮膚を濡らす。
「そうだな。今の俺じゃ・・・・」
ここにいれば、貴方が帰ってくるのではないかと・・・
「邪魔だよな」
「そんなつもりで言ったんじゃありません!!」
通じない。自分の言葉は、恋しい人に染み込まない。
半端に表面を撫でて傷つけるだけで。
これでは・・・・
−東方さんと変わらないじゃないか・・・・
目の前で流れ続ける泪を止めることが出来ない分、東方以下。
「部長・・・・」
−泣かないで下さい。
「二、三日・・・俺の家に泊まりませんか?気分転換に」
東方と南の間に何があったのかは解らなかった。それでも、ナニカ。があったことは二人を見ていれば自然と知り得ることだった。
数日間変化が起きない様を見ていた室町は、状況を変えてやることしか思いつかなかった。
「ね?そうしましょう?」
どうにか、してあげたかった。
それでも・・・
「行かない。ゴメンできない」
しっかりとした口調だった。目を合わせ、南は拒否を示す。
「雅美が・・・帰ってくるかもしれないから」
「何を・・・・言ってるんですか?」
不可解な言葉だった。毎日傍にいるはずの東方。その存在を否定するかのような認識。
室町が知る限り東方は毎日南に話しかけ、無視をされていた。いるのが解らないわけではない筈。
「東方さんは・・・・いるでしょう?毎日いるでしょう?!何を!一体どうしたんですか?!!」
貴方は心を病んだのですか?
「違う・・・・」
朧気な視線。無機質な表情。それでも、心なしか笑っているようにも見えた。
「アレは雅美じゃない」
貴方は・・・・本当に貴方なのですか?
−何をしたんだ東方さん。
彼は、もう泣いてはいなかった。
「部長・・・・・どうしてなんですか?」
泣き出してしまいそうだった。簡単に表現するなら。
『辛い』
恋をした人は。恋しいと想った人は・・・こんな人では無かった。
気丈で、真っ直ぐで、時に頑固で・・・・強くて弱くて・・・・東方の横で幸せそうに笑う人だった。
−何でこんなことに・・・
まるで、痩せ細り死へと歩んでいく病人を見つめるような気持ち。
呼吸をしているのか不安になり、コチラの息までが詰まるような・・・
憤りに似た無力感。
「ぶちょぉ・・・」
目の前に在るのが南であることを確かめるように肩に触れる。
「嫌だ!!」
−え?
触れただけの筈だった。今まで、『あの日』以来も何度か手を添えたぐらいのことはあったが、南は室町を拒絶したりはしなかった。
「どうしたんです?俺ですよ?」
「来るな!止めてくれ!よせ!嫌だ!!」
ガタガタと激しく震えだし、止まった筈の泪が堰を切ったように再び溢れ出す。
「雅美・・・」
「部長」
呼びかけただけで南はズリズリと後ずさり、両腕で顔を覆って脅えながら泣いている。
−まさか・・・
『亜久津』
「雅美・・・・雅美・・・・」
『あの日』によく似ていた。
「まさみぃ・・・」
か細いすすり泣き。
「雅美・・・助けて・・・・・・助けて・・・」
腕が作り出す闇の中で、南は小さく呟いた。
−違う。
もしそうなら、東方を拒絶する理由が無くなってしまう。
貴方は縋り付いた腕を振り解いただけでなく、壊したのですか?
この人の心を・・・
「健!!」
二人分の足音と、荒い息。呼ぶ声の色は激怒に表情を変え、室町を襲った。
「室町!お前、コイツに何をした!!」
襟首を掴まれ、引き上げられる。憤りに満ちた行動は、情けない姿ともとれた。
−何かしたのは・・・貴方でしょう?
南の前でなければ口に出していただろう言葉を頭中で問いかける。
「何とか言ったらどうなんだ!!」
「東方、ちょっと止めなよ」
千石が制止に入るも、体格差で無駄となった。
「・・・・東方さん。本当に貴方はバカですね」
鼻で笑ってやることが、こんなにも気持ち良いものだとは知らなかった。
「貴様!!」
拳が眼前で高く振り上げられる。くるべき衝撃を思い描きながらも、構えようとは思わなかった。
−もっと軽蔑されればいいんだ。
怒りに任せて拳を震う愚かな姿を、恋人の前で公開すればいい。
それで、あの人が手に入るわけでも無いけれど。
「健・・・」
「部長?」
沈黙のまま立ち上がった姿に、双方動きが止まる。
大きく鼻を啜り、南は東方に背を向ける形で二人の間に手を差し入れた。
制止しているのだ。
「あ・・・・・」
小さく漏れた東方の呻き。
「解った。室町は何もしてないんだな?悪くないんだな?」
大人しく無言の命令に従い手を離すと、南はそのままコートの外へと出て行く。
言葉無いまま見送り、東方は先程まで振り上げていた利き手で今度は自らの顔を覆った。
「東方さん。俺は肩を叩いただけです」
「・・・・」
できることなら、守りたいのだと貴方は言っていたじゃないですか。
「それだけで、あの反応です」
『どうすれば、健にとって一番いいだろうな?』
「貴方が部長に何をしたか、俺解りました」
あの、小雨降り続く帰路の中。
貴方は・・・大事そうに、あの人を抱えていたでしょう?
『少し寝たほうが身体楽になるから』
どうして、裏切ったりしたのですか?
そんなことをするのなら、譲ってくれればいいのに。
この腕にかき抱くことさえできたら、僕は絶対あの人を傷つけたりしません。
貴方のようなマネはしません。
「東方さん、前に言いましたよね?これからを見てどうするか決める。って俺に言いましたよね?!その結果がコレですか?!!貴方どうかしてる!!」
『それでも・・・こうするしか思いつかないんだ。マジで』
あの人は、ずっと必死に貴方に恋をしているというのに・・・
何故それが解らないのですか?
「なんっ、で・・・何でお前なんだ!!俺を責めるのが、何で健じゃなくてお前なんだよ!!」
嫌われてもいい。
−話したい。声が聞きたい。触りたい。
せめて君が僕を責めて罵倒してくれたら、この痛みは和らぐのだろうに。
「ついでに教えてあげますよ!」
『あの日』以来、南は無意識に触れる相手を選んでいた。皆気づいていて黙っていた。
東方以外で触れることを許されたのは、室町・新渡米・壇。
嫌がったのは・・・千石と喜多。
あくまで意識とは関係の無いところでだったが、特に喜多を嫌がった。
その区別は・・・・・
抱く側の人間であるということ。
友人である新渡米と付き合っている喜多は生々しすぎたのだろう。
一定以上の距離を詰めることをためらっていた。
そして・・・
「貴方が来る前、部長はこう言いました」
その枠の中に東方も入ってしまった。
正確には・・・
「アレは・・・雅美じゃない」
南の中で、東方のようでいて東方でない者。
「誰のことだか解りますよね?もう一つあるんですよ」
青ざめていく東方の顔が滑稽に思えてくる。
「助けて」
−恐かったんですよね?辛かったんですよね?
「何度も貴方の名前を呼びながら、助けて。って言いながら!あの人は泣いた!!」
だから心を壊したのですよね?
この人に恋をし続ける為に。
「何で?そんなの俺が聞きたいですよ!何で貴方は・・・・・」
どうして?貴方だけはそれをしてはいけなかった。
「あの人を泣かせてばかりの時の方がまだマシだった!」
両手で顔面を覆い、苦痛に耐える東方。
−そうか・・・・だから・・・・
『雅美・・・・・・お帰り』
これは罰だ。処分だ。
この罪への。
「室くん。もう止めときな。東方を許すかどうかは南が決めることだよ」
「貴方を絶対許さない!たとえ部長が許しても、俺は絶対許さない!!」
荒い息を整えぬまま、室町は南の後を追うように歩みだした。
姿が見えぬことを確認して、千石は優しく東方の肩を叩く。
「東方・・・泣いてる?」
「俺は・・・・・・どうしたらいいんだ?健の前で首でも吊ればいいのか?」
泣き出してしまいそうな目を見つめて、千石は哀しく微笑んだ。
「人間ってさ、どうして頭に血が昇ると身体が止まらなくなるんだろうねぇ」
「千石。答えになってない!」
「お前が首吊ったりなんかしたら、南はショック死しちゃうよ。それとも、その方がいい?後追い自殺でもしてくれる方がいいわけ?」
−健・・・・
「違う!今、健にとって俺は俺じゃない!!」
−健。健・・・・
どうして、傍にいてくれるよりも笑っていてくれることの方が大事だと思えなかったのでしょうか?
「じゃあ、お前が死んだら誰が南の所に帰るの?ちゃんと、お前がお前だってことを認めてもらってからの償いじゃないのかな?」
−どうやって?
それを千石に向けて問う資格はない。
「それにしても、室くんは南が好きなんだね。あんなに熱くなってるの見たの初めてだ」
−あんな風に・・・
「俺も室町みたいに、真っ直ぐだったら良かったのにな」
「アレは東方には無理だよ」
−確かに・・・俺はダメだ。
「手に入らない者と、手に入ってる者は違うからね」
「・・・?」
「簡単な答えだよ東方。大事な人がいなくなる恐怖。室くんは失うモノが無いから、ただ単純に好きだけで在れるわけ」
「俺、健のことが憎くてしたわけじゃない」
「解ってるよ。さ、早く南の後追いな」
「あぁ」
恋しい人。
もう一度、恋人として君を大事にしようとしても・・・いいですか?
夜半過ぎ、南は蛇口をひねった。
そのまま水道水を口に含むと薬品の臭いが舌を刺す。
「くせぇ・・・・」
テーブルの上に用意されている冷めてしまった食事を見つめ、溜息をついた。
「気色悪い」
−寝るか。
ふと、拳を握ってみる。力が入らない。身体が重い。
−・・・・・
理由は明確だ。
−別に死にたいわけじゃない。
「雅美の飯がいいんだ」
−逢いたい。
貴方以外は要らないと・・・・そう言ったでしょう?
ソファベッドに用意してある布団を掴み、引き剥がす。
−・・・・?
それまで使っていたものと違うことにそこで気づいた。
−・・・・アイツか。
「余計なことを」
東方のようでいて、決して東方ではない。
−アレは・・・・
偽物だ。
−雅美。
貴方の夢が見たい。
−ん?
薄手の布団に潜り込んだ瞬間、暖かい匂いが鼻を通った。
太陽の匂い・・・・
−雅美?
「雅美?いるのか?」
貴方以外に、こんな暖かいものを与えてくれる人はいない。
「雅美、何処だ?雅美・・・」
−逢いたい。
泪と嗚咽が自然と体内から溢れてくる。暖かい香りを握りしめて天井を仰ぎ、泣き喚いた。
どれだけ待っても貴方が見えない。
「ん?」
階下に向かう途中、東方の耳に泣き声が響いた。
−・・・・・
足音をたてないように気を付けて扉に耳をあてる。
「雅美・・・・雅美」
−健。
迷子のように泣きながら自分を呼ぶ声。悲鳴のような、その声に神経が揺さぶられる。けれど彼が欲しがっているのは、この身体ではない。
過去の自分。
「雅美、何処だよ?一緒だって言ったのに」
−健・・・・
ここにいるのに。すぐ近くにいるのに。この鬱陶しいドアを開けて、一言『ただいま』と言えば、彼は騙されてくれるだろうか?
「何でいないんだよ?何で置いてったんだよ?」
ー泣かないで。謝らせて。
耳を塞いで逃げてしまいたい。それは許されないと分かっていても。
ー苦しい。
息が詰まる。歯を食いしばって声を殺し、扉に爪をたてて、静かに耐える。この責め苦に。
呼ばれているのに、責められている。
「雅美・・・・逢いたい」
どうすれば、許されますか?
「雅美。傍にいるって・・・・言っただろぉ・・・」
泪が、溢れてくる。
「健・・・俺、いるよ。ここにいる。ちゃんと見てくれよ」
許されない。決して許されない。
嫌われてしまうことより、辛い事実。
好かれていながらにして、拒絶されている。
「・・・・寂しい。雅美・・・・・寂しい」
−あ・・・
君の傍に駆け寄って、抱き締めて、キスをして共に眠りについて。
求められているソレを成すことは可能なのに、できない。
「健・・・け、ん・・・・」
膝から力が抜け、床に崩れ落ち、額を擦りつけて東方は声を殺し懇願する。
「許してくれ・・・・頼むから。何でもするから・・・・」
届けることすら許されない謝罪の気持ち。
爪を食い込ませる場所を床に変えて、また耐える。
もどかしさと、息苦しさと、絶望感に。
『泣く場所さえも、作ってやれなかった』
触れてしまえば、貴方は感情の放出すらできなくなってしまう。
『泣く術も・・・与えてやれなかった』
昔ならできた、泪を拭うこと。それすら今の自分にはできない。
それどころか、彼の中で自分は咎人でしかなくて・・・・
「健・・・逢いたい。許して。逢いたい・・・・」
「雅美・・・・寂しい。寂しい」
泪混じりの声が頭から離れない。
やっと南が寝付いた頃、泣き声は聞こえなくなった。
とても傍に行く気持ちにはなれず、ただ扉を開けて南の姿を見つめた。
「け・・・・ん」
小さく、掠れた音で呼ぶ。反応はない。
触れようと思えば、容易くできる。けれど足が動かない。
「許して・・・」
言うことを聞かない足は、目的地を変えるとあっさり命令に従った。
たどり着いた自室でしばらく呆然と立ちつくした後、東方は携帯を開いた。
「もしもし。大石?」
−俺じゃあ・・・どうにもできない。
嫌われても構わない。
けれど、どうしても僕は君の中で僕として在りたいです。
「菊丸と連絡取りたいんだ」
−暗然ーEND
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