4:雨催い [ 48/51 ]
朝は等しく起こりえる現象。
望まなくとも等しいとは皮肉。
「ん・・・」
カーテンの繊維の隙間から細やかな光が無数に差し込んだ。瞳に視覚される瞬間は淡く大きな固まり。その中で南は目を開けた。
−朝?
指の腹で目尻を擦り、仰向けの身体を起こそうともせず天井を見上げた。
そのままフィルターのかかった思考回路が動き出すのを待つ。
−雅美。
半分ほど覚醒した脳は自然と恋人の姿を過ぎらせ、南は緩慢そうに首だけを東方がいるべき場所へと向けた。
「・・・」
静かな寝息が頬に触れ安堵の溜息を漏らす。寝起きの身体に感覚が戻りだすと、己の腰にしっかりと腕が回されていることを知った。
−あったかい。
起こさないよう気をつけながら寝顔を見やる。いつもきっちりと整えられている髪は枕の上で無造作な動きを描いていた。
−結構長いよなぁ。
流れを目で追いながら単純な感想を思う。寝顔は普段より幾分幼く、それが髪型のせいだと一人で苦笑した。
「・・・」
ゆっくりと指先を髪の毛に触れさせる。
そのまま髪の流れに沿うように滑らせた。
「キスで起こしてくれないのか?」
「っ?!」
腰に回されていた腕に力がこもったかと思うと、引き寄せられた。互いの瞳しか視界に入らないほど顔を近づけられて、南は頬を赤くする。
「お前、いつから起きてたんだよ?」
「さっき」
声を殺して笑う東方に文句を言ってやろうと口を開けた瞬間、同じ造りをした東方のものが唇を塞いでいた。
「っん・・・んぅ・・・」
唇を重ねたまま、東方の身体が覆い被さってくる。
心地よい重みに支配されながら、南は僅かな違和感を感じた。頬に口づけられながら瞳を閉じ、ぼんやりと考える。
−そうか、パジャマ・・・
衣服を纏ったまま寝起きに抱き合った記憶はほとんど無いに等しい。
いつも快感の余韻の中で汗ばんだ肌が擦れる感覚を楽しんでいた。
「朝飯何がいい?」
肌がさらけ出されている部分に、しつこいほどキスをしてくる東方。
その首に腕を絡め制し、南は音もなく苦笑する。
「あんまり、食いたくねぇかな」
胃が空になって悲鳴をあげているのは分かっている。胃液が滴る感触を感じるほど。でも、いまいち食欲が湧かなかった。
「イヤでも食べさせる」
恋人の返事が気に入らなかったらしく、東方は顔をしかめて譲る気はないらしい。
「じゃあ、何でもいいよ。お前が作ってくれるもんなら」
「なら許す。できるまで風呂入ってこいよ。汗かいてるだろ?」
頷くだけの返事をし、浴室へ向かおうと身体を起こすも、腰に回された腕が立ち上がることを許さない。
「雅美?」
「・・・一緒に入るか?」
背後から抱きすくめられ、体重を預ける。首だけを後ろへ向けると、またキスをされた。
「止めとく」
クスクスと笑って目の前の顎のラインに額を押しつける。くすぐったかったらしく東方は身を捩り、やっと南の身体を解放した。
ベッドから立ち上がる気配を感じながらタオルと着替えを持ち、浴室へと足を運ぶ。
ためらないながら衣服を脱ぎ去ると勢い良くシャワーのコックをひねった。
出だしでまだ温い湯を身体に浴びながら己の肌を恐る恐る見つめる。
−夢じゃない・・・
これが、悪夢なのだと夢うつつに願った。
−どうして?
蹴りつけられた腹部は青く腫れていて、触れるとピリと傷む。
−何で?
これはきっと夢で、東方と過ごす幸せに溺れるなという警告なのだと・・・
−汚い!
信じてはいなかった。でも、分かりたくなかった。
−戻りたい・・・
こみ上げる嗚咽。
−ダメだ・・・
東方に聞こえないように己の二の腕に噛み付き、堪える。
どうしようもなく痛みは身体を苛んだが、南はひたすら力を込めた。
−雅美、どうして?
漏れだした息が悲鳴のように・・・とても小さな悲鳴を創り出す。
−何でだよ?
湯気と涙で視界が曇る。息苦しくなっても、顎が疲れても、腕に力が入らなくなっても・・・
涙が止まるまでひたすら己を痛めつけるしかなかった。
水の膜に肌を隠すタイルに座り込み、音漏れしないようにシャワーの真下に座り込む。
−好きだって、汚れてないって言ったくせに・・・
どうして・・・この躯を穢すのですか?
何が理由ですか?
何処に必要性を見いだせば良いのですか?
何故・・・
こんなにも汚いのですか?
「健。お早う。朝だぞ」
「ん・・・」
「起きろ。飯作る間に顔洗ってこい」
「・・・あぁ」
ここ数日。同じテンポで目覚めがやってくる。東方が頬を撫でる感触で目を開け、瞼に落とされるキスで意識を覚醒させる。
「お前、起きてるか?」
「起きてる・・・」
壁に寄りかかるようにして洗面所へと歩く南に声を掛けるが、あまり安心して見ていられるような足取りではない。
「・・・健」
ボサボサの頭が階下へと消えて行くのを見送って東方は欲情的に溜息をついた。
「雅美、お前寝てるのか?」
「・・・?寝てるけど」
台所に立つ東方の背後で呟く。朝食の内容を知りたいらしく、肩口から背伸びをして覗き込んでいた。
「火傷するぞ」
調理の為汚れてしまった掌を適当に布地に撫でつけながら、南の額に己の同形をぶつける。
「お前顔色あんま良くない」
不安げに俯いてしまった南を抱き寄せて東方は苦笑した。
「じゃあ、今日は健が晩飯作ってくれないか?」
コクンと頷くだけの仕草。
「俺、健の作るシチュー好きなんだけど」
甘えるようにねだってみると、南は少しだけ安心したように笑って身体を押しつけてくる。
−悪いクセが出たな。
いつもいつも、南は東方の顔色を伺うようなところがあった。悪い意味でなく。普段は我が強い方だが、気遣うことができない訳ではない。
−自分の方が痛いくせに。
少しでも東方が怒りや戸惑いを見せれば途端に不安にかられている。
今までずっと・・・
−言ってるんだけどな。
過ぎるほどの意志表示をしてきた。それでも南は不安を消さない。
今回のことより前からずっと。
−俺のだ。絶対誰にも渡さない。
ここ以外にあり得ない。
ずっと、好きになった時から決めていた。
「ほら、みそ汁冷めないうちに食おう」
お前以外の傍にいる自分を思い描くことすら、とうにできないでいる。
深夜、東方の腕の中で南は目を覚ました。
いつも通り横には自分より二回り大きな体が横たわっている。
−何処にも、行きたくない。
心臓の音を聴こうと、目を閉じたまま胸元にすり寄る。すると、身体を包んでいた布地が、ふわりと浮いた。
−・・・?
意識が覚醒する気配なく、迷い無い腕が背に回る。
「大丈夫。ここにいるから」
宥めるように筋張った指先が髪を梳いた。そのまま額にキスをされ、腕の力がキツクなる。その間南は瞳を閉じたままされるがままだった。
「もう、恐くないから」
耳元で呟かれ、身体が反応しそうになるのを抑えて南は静かに待った。
「・・・はぁ・・・・・・」
疲れたような、でも何処か安心したような溜息が鼓膜をくすぐり、その吐息の動きはすぐさま後をついた寝息に掻き消された。
−ずっと?
今朝、東方が寝不足な気がしたのは直感。
−もう、何日?
あんな僅かな身じろぎで反応を示した身体。その眠りは相当浅いのだと分かる。もしくは・・・
−嘘つき。
寝ていなかったのだ。恐らく・・・あの日から・・・
−バカだよ、お前。
そうさせたのは自分。
−バカ野郎・・・
東方を起こさぬよう、南はじっと朝を待った。唯一安らぎを覚えたのは傍らの規則的な呼吸だけ。
「雅美。今日俺、下の居間で寝る」
入浴を終え、濡れた髪を適当に撫でつけている恋人に南はそう告げた。
先に風呂を済ませていた南は既に自分の分の枕と薄手のタオルケットを小脇に抱えている。
「何でまた急に?」
「ベッド狭いし、寝にくいんだよ」
用意していた返答を事務的に告げ、何か聞き返されないうちに階下を目指す。
「健。ちょっと待てって!狭いの嫌なら俺が床で寝るから」
荷物ごと抱きすくめられ身動きが取れない。
「一人で寝たいって言ってる!!」
思いの外大きかった声に東方の身体が一瞬竦む。その隙に抱きすくめていた身体は足早に去ってしまった。
消えない人影
朱に染まる眼前・・・
掴まれた肩
そしてまた夜に殺される・・・
住人でもないのに勝手にエアコンをつけるのは図々しい気がして、蒸し暑い中頭から布団を被った。
静かに横たわっていると、熱帯夜の気温がじわじわと肌を汗ばませる。
−大丈夫。何ともない。
何度くらいあるのだろうか。などと下らない考えが過ぎる。それを打ち消すようにキツク目を閉じ、熱さに耐えた。
・・・ピピッ。
妙に可愛いげのある電子音が、サァッと風を送り出す。人工的な空気の匂い。
−余計なことばっか・・・
タオル地の上から冷気が身体の余熱を奪い、下がりゆく温度と中の空間に時差が生じるのを感じた。
「健。もう寝たか?」
問うているくせに声音は確信じみている。南はノロノロと起きあがり、東方のいない方向を見つめながら呟いた。
「何だよ。俺もう寝たいんだけど」
「エアコンつけたから寒くなるだろうと思って」
「いらねぇ」
「ダメだ」
強制的に夏布団が掛けられた。次に横たわっていたソファの背もたれが倒される。ベッドにもなるタイプらしい。
「これで寝やすいだろ」
淡く、戸惑ったように笑う東方。
「健。やっぱり上で寝ないか?」
握りしめられた手が熱い・・・
「一人になりたい」
「でも、お前・・・」
「さっさと行けよ!!」
荒げた声に我に返る。
−違う!!
ただ・・・
「何かあったら、起こせよ」
東方は苦く笑ってキスをしただけ。
「おやすみ」
何も言えない南の身体を布団の中に納め、もう一度キスをして行ってしまった。
−ただ・・・
甘えてばかりでいたくなかった。
対等でいたいと願っただけなのに。
俺の何がいけませんか?
・・・分かっています。
寝苦しい。
室温は快適。しかし、睡眠に落ちる瞬間黒い影が意識を引きずり回す。
−誰もいないんだよ!
分かっているのに目を閉じた闇の中に更に濃い黒さを持つ人影が現れて、身体の上に覆い被さってくる。
−もう。止めてくれ・・・
何度も何度も繰り返す。目を閉じれば影が現れ、目を開ければ誰もいない。
「もう、イヤだ」
誰に言うでもなく呟き、タオルケットを丸めて抱きしめた。子供じみているが、しがみつくものがあれば不思議と安心する。
−平気だ。
いつまでもあの腕の中で眠れるわけがない。分かってる。
−雅美・・・
永久なんて無いのだから・・・
「・・・?」
必死に眠ろうと布団にしがみつく。その手に暖かい何かが触れた。
−寝ろって言ったのに。
握りしめた指先がゆっくりと解かれ、大きくて暖かいそれが自分のと絡まった。
−意味ねえじゃん。
額にかかった髪を撫でる掌。寝息を確かめるように近づいた頬。
その心地よさに自然と睡魔がやってくる。あとは落ちるだけ。
−情けねぇ・・・
落ちる墜ちる堕ちる・・・
どれくらい眠っただろうか?
さほど経っていない気がした。
−眠・・・
時刻を確かめようと目を開けたその時、向かいの食器棚が真っ赤に染まっていた。
「なっ・・・・!」
ただ紅く、血塗られたでもなくただ紅く、炎でもなくただ紅く、ただ・・・塗り固めたように紅い。
−火事!!
反射的にそう思い身を起こす。けれど、そこから身体が動かない。
違和感。
−何だよ、コレ・・・!
たった一度の瞬きで紅は消えた。総てが元通り。
−ふざけてる。
何も起こっていなかったのだ。
可笑しいのは己の眼だけだった。
−いやだ。こんなのは俺じゃない。
不思議と冷や汗というものは流れない。ただ動悸だけが激しく、落ち着こうと息をつく。
「うっ、は・・・!!」
乾いた喉の奥で空気の塊が異物感をわき起こらせ、同時に埃が気管の繊毛を張り付かせ咳き込んだ。
苦しい・・・
「ちくしょぉ・・・」
肌も喉も乾きを訴える。それ以上にやりきれないものが渦巻く。
血液の流動がこめかみを揺らし、鼓膜に響く。
もう、何に怒りをぶつければいいのか分からない。亜久津の行為か、己の弱さか。それとも・・・
「雅美・・・雅美、捨てないで」
−戻るから。
貴方が好きな自分に戻ってみせるから。
−戻りたいから。
眠ろうと身体を倒す。けれども・・・
−誰だ?!
黒い影・・・名など無い。ただの影。亜久津じゃない。分かってる。
「何でだよ」
見知らぬ影。ただ眠らせまいとする虚像。汚れた身体を見定めるように覗き込んでくる。
「くそっ・・・」
怒りを投げつける箇所は己。二の腕に嫌というほど歯を立てる。
痛みから解放してもジンジンと肌は苦痛を訴え、内から這い上がってくる痛覚が生を教えてくれた。
「独りじゃ寝れねえよ・・・」
貴方がいないと、眠ることすらできないんです。
「バカだよなぁ」
貴方に言えていない言葉があります。
「今更後悔してんだ。ダセぇよな」
一度も言えてない言葉があります。
「好きだ・・・」
言っておけば良かったと。
「好きだよ。雅美・・・」
聞こえませんよね。
−雨催い−END
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