3:暁闇 [ 49/51 ]
寒い季節だった。
『雨ってウザイよなぁ』
スカイブルーの傘の中で跳ねた髪を掴んだ。
『痛てぇよ、バカ!!』
水滴に邪魔されて、触れる機会が少ない天気が嫌いだった。
『健。もしかして結構雨好きなのか?』
白い制服に傘の色がよく映えていて・・・
『あぁ、何か雨の日ってさ・・・』
「東方さん!!聞いてますか?」
肩を叩かれてはじめて景色が視覚される。目の前にはくすんだ灰色の電柱。
「あぁ、悪い。考え事してた」
傘を差しだしてくれている室町は、重そうに三つのカバンを肩から下げている。
「部長のカバン。何でこんなに重いんです?」
「しばらくウチに泊まる予定なんだ。ウチの家族海外旅行に行ったから、夏休みの終わりにならないと帰ってこないんだよ」
興味があるのか無いのか理解しがたい反応。
「東方さん。不躾な質問かもしれませんが、いいですか?」
サングラスに隠れて、表情を読み取る術が見えない。それでも、東方は応じる意志を見せた。
「これから、どうするんですか?」
静かな問いだった。
ふいに訪れた沈黙。
小雨の僅かなノイズじゃかき消せない静寂。
「どうすれば、健にとって一番いいだろうな?」
不味いモノを食べされられた瞬間のような苦笑い。室町はその表情に見覚えがあった。
「俺に聞いても分かりませんよ。部長のことを一番知ってるのは東方さんじゃないですか」
少し棘のある言葉で返すと頭一つ上にある顔が、また同じように笑い直した。
「女相手なら『守る』って言えば済む話なんだろうけど、男のこいつがそれで納得するわけないし、耐えられなくなるだろうから」
「じゃあ、どうするんですか?」
「これからを見てみないと分からないな。今ここで答えても正解かどうか分からない。その通りに俺が行動できるかどうかも分からない」
−何で?
「随分と冷静なんですね」
−俺と変わらないくせに!!
「室町。今これだけは言えるってコトがある」
立ち止まり、差し出された傘から身体が解放された。数歩先で室町が振り返る。その先には、揺るぎ無い視線があった。
「健だけは、絶対に誰にも渡さないからな」
「何の話です?」
明らかに自分に向けられた言葉。一瞬視線が揺らいだのを室町は自覚したが、黒いレンズに守られて東方には見えないはず。
「好きなんだろ?」
単純な答えだった。
「・・・バレてない自信はあったんですけど」
隠す理由がないので大人しく認める。東方に歩み寄り、濡れてしまった肩口よりも背に乗っている南を優先して傘を差しだした。
「東方さん。俺も言いたいことがあります」
『雅美!!』
「何もできなかった。その点では俺も貴方も同じです」
−止められなかった。助けられなかった。たとえ、呼ばれていたのは自分でなくとも・・・
「変わりませんよ」
−もし、助けることができていても・・・
「同じ立場です」
−貴方は、キレイな身体でこの人に駆け寄った筈。
戻らない時刻。落ちない穢れ。止められない涙。
この背に伸ばされることはない傷だらけの腕。
「そうだな。お前の言う通りかもしれない」
選ばれなかった。
ただそれだけ。出逢うのが遅すぎたわけではない。
「でも俺、横恋慕なんて趣味じゃないですよ」
ただ、好きなんです。
「それに俺は、泣きじゃくる部長を止めることなんてできませんから。その辺りは・・・同じじゃないです」
ただ想っているだけなんです。
「さ、早く行きましょう。部長が風邪ひきます」
貴方が笑う瞬間を奪うなど・・・
「もう、泣き顔見るのは御免ですよ」
できないぐらい、好きなんです。
ただ、時々名を呼ばれる瞬間が・・・
その刹那の時を喜んでいたかっただけなんです。
『雨に掻き消されて、嫌いな音が聞こえないじゃん?後ろにいるヤツの足音とか。俺そういうのが気になるタイプだからさぁ、『ザーッ』って音がすると安心する』
『そんなもんか?』
『そんなもんだよ。相変わらず頭固いな雅美』
目を開けるとそこは薄い闇。身体を包む暖かい布地。空調の音。
−夜?
寝起き特有の呆けた目を何度か瞬かせると、少しだけ闇が瞳の水晶体に同調した。
−雅美?
シーツの上を手で探る。いるはずの主の姿がなく、体温すら残されていない。
「・・・雅美」
あるのは残り香だけで、最も強く匂いのある枕に顔を埋めた。
「馬鹿野郎」
−寂しい。
独りにしないで。でも追いかけるのは嫌だ。背中を見ると『来るな』と言われてる気がするから。
「早く・・・」
触れて下さい。偽りでかまわないから、気休めでかまわないから・・・
『汚れてない』
そう言って下さい・・・
明け方独特の闇を携えた光。季節柄本来ならもっと明るい筈だが、前日の雨雲がまだ空を浸食していて人工的な灯りのない室内は真冬の早朝のように暗い。
『同じ立場です』
室町の言葉が頭の中で鳴った。同時に溜息が漏れ、それを掻き消すように電気のスイッチに触れる。
眠っている南を起こさないように豆電球の灯りだけを頼りにして湯を張った洗面器を静かに置いた。
−どう・・・言えばいい?
湯に浸けていたタオルを絞る。風呂上がりの髪から滴った水滴がピチャンと音を響かせた。
−静かだな・・・
帰り着いた後、ベッドの中で南はうなされ続けた。時折薄目を開けては涙を流し、その度に手を握り、落ち着いた寝息が聞こえ始めたのは一時間前。
−身体、拭いてやらないと。
身体は睡眠を欲している。それは分かっているが、今そんなコトも言ってられない。頬を軽く叩き、睡魔をほんの少しだけ遠ざけてからベッドの上に視線を移した。
「・・・?」
掛け布団が揺れた。寝返りなどの類のせいではないのは動きで分かる。
「健。起きたのか?」
もぞ、と僅かな反応。
「何か飲むか?それとも軽く食べておくか?」
きゅ、と布団の端を握りしめ何かに耐えるような仕草。そこで異変に気づいた。
「どうした?嫌な夢でも見たか?」
布地の上から背をさする。僅かに覗いた黒髪を指先で梳き、中を覗き込もうと顔を近づける。
「・・・・ウソツキ・・・・・・」
籠もった体温が熱気に変わり、それは音声と共に頬をくすぐった。くぐもった声は微かに震えていて、堪えきれずに鼻をすする音が鼓膜をつつく。
「何でだ?」
−今だけでいいのに。
「約束・・・っ、したのに!!」
−どうして?
「起きていなかったら許さない!そう言った!!」
−ワガママを言ったのは分かってる。
「ちゃんといるって言ったくせに!!」
−でも、今だけはどうしても聞いてほしい。
「ウソツキ!!」
−何でもう少しいてくれなかった?
目覚めて、すぐ貴方の手を握りたかった・・・
「いつ目が覚めたんだ?」
返答はない。激しくなった嗚咽に合わせてベッドが軋む音だけ。
「俺が戻ってくる前に起きたんだな?」
痙攣を繰り返す気道に無理矢理空気を押し込んだせいで南は、ひっひっ、と数回連続で悲鳴ともつかない音をならした。
「ゴメンな。寝てたから・・・」
「俺が起きるまで待ってろよ!!」
−違う・・・
「そうだな。悪かった」
違うんです。
「うるさい!!」
−そうじゃない・・・
「健。ゴメン。顔見て話そう。な?出てこいよ」
そうじゃないんです。
「絶対許さない!!」
−許して・・・
この身体を許してください。
「喉乾かないか?何がいい?」
すすり泣きをしばし無言で聞いていた東方は一旦ベッドに背を向け、自室に備え付けの小さな冷蔵庫に手をかけた。南が来ると分かっている日はいつも彼の好みのモノを入れてある。それを手にとって振り返ると、こっそりこちらを伺っていた黒目がちの瞳と目があった。
「・・・これでいい?」
ボトルを掲げ笑いかけると、また潜り込む。子供と追いかけっこをしている気分になって東方は苦笑した。
「健。そろそろ顔見せてくれないか?」
布団を掴んでいた手が諦めたように布地の中へスルスルと引っ込む。たわんでいたそれがゆっくりと元の形を作ろうとする直前を指先でずり下げて顔を露わにした。
「ほら。起きて」
ノロノロと起きあがった手にキャップを外したボトルを持たせると、よほど喉が乾いていたらしく勢い良く飲み干す。
「ゴメンな健」
謝罪の口づけをしようと頬に手を伸ばした。瞬間・・・
「ひっ!!」
大きく顔を逸らし、両腕で庇う。東方が恐かったのではない。急に触られそうになったのが恐怖の対象だったのだ。それは東方にもよく分かった。
床を転がる空のボトル。
「あ・・・」
またも泣き出しそうな表情になった南に、東方は笑いかける。
「ちょっと、ビックリしたな」
控えめに手に触れ、撫でてやると大粒の涙が微かな衝撃を皮膚の上に起こした。
「ゴメ・・・俺、ちが・・・」
「ん・・・気にしてないよ」
「雅美・・・」
やり場のない東方の手を唇へ導く。筋張った人差し指を立たせ、南は自らの唇に辿らせた。
「ここだけは、お前だけだから」
貴方だけ。
「キスされそうだったけど、ここだけは守った。ここだけ、まだキレイ」
貴方だけです。
「それと、俺・・・イカなかった。だから、俺がイク時の顔もお前だけ」
貴方にだけです。
「全部は・・・無理だった・・・ゴメン雅美」
貴方だけにです。
「汚れて、ゴメン」
貴方だけなんです。
「バカだよな・・・男のくせに」
自らに嘲笑を向ける為歪めた口元。
「俺は汚れたなんて思ってないから、健がいくら汚れたって泣いても俺の考えは変えられない」
「でも・・・っ!!」
「何で自分の首締めるようなコト言うんだ?そんな必要無いだろ?」
「っ・・・・ふ、ぅっ・・・っく・・・だって・・・」
涙で濡れた唇にキスをする。指先で触れて開かせ、舌を差し込む。
「んぅ、っん・・・」
何かに憑かれたように絡んだ舌の感触が、また次の絡み合いを求めて動き出す。
「っ・・ん、ん・・・」
頃合いを見て口づけを終えようと東方が舌の動きを弱めた瞬間、首筋に引力を感じ、途端引き寄せられた。
−どうか・・・
息継ぎも忘れ、髪を撫でてやることすら頭から抜け、キスに夢中になる。
−もう泣かずにすむよう・・・
互いの感触を感じることに没頭していた。
酸欠なのか、快感のせいなのか・・・南は頭の芯が痺れを帯びるのを感じた。そっと目を開けると今度は恋しい人が己に触れているのだと確信し、安堵に揺れる。
−お前だけ・・・
この身体が否応なしにだらしなく感じてしまうのは・・・
−お前だけ。
外は闇。暁の闇。もう朝は来ていいのに、雲が邪魔をする闇の世界。まるで・・・心・・・・
一つ不安が去れば、また新たな痛みがやってくる。
再び目を閉じ快楽に堕ちる。
何も要らないと・・・
−暁闇−END
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