2:子守唄 [ 50/51 ]



 これ以上失えるモノなど、命以外に見つからない・・・

 それすら捨ててしまえば、この願いを聞いてくれますか?

 それとも、この手を汚せばいいのですか?

 ねぇ、神様?






 そんなに俺が嫌いですか?





 小雨が体温を奪う。連鎖反応のように、冷たい滴が頬を伝う度に蘇る真新しい記憶。
−どうして?
 汚れた床に投げ捨てられた身体。
−待ってると、思ってたんだ・・・
 いつものように練習をして、一緒に帰って・・・
−折角・・・
 時間を気にせず傍にいられると・・・
「マヌケだなぁ」
 南が闘っている間、自分はそんなことばかり考えていた。
「・・・ゴメンな」
 空を仰ぐ。鈍い灰色が眼前に広がり、矢のように落ちてくる小雨を顔面に受ける。
−一緒に行くって、何で言わなかったのかな?
 もう、遅い・・・
「行くか」
 下りてしまった前髪を片手で適当に撫でつけ、歩き出す。空いた手には飲み物。
「東方さん!!」
 するどい声に身体が竦む。
「室町。どうした?」
「部長が目を覚ましました」
−また、間に合わなかった?
「東方先輩はいないって言ったら泣きだして、千石さんが宥めてるんですけど、見てられなくて・・・」
−どうしてこうも大事な時に!
 傍に居てやれないんだろう?
「分かった。すまなかったな」
 言葉の途中で駆け出す。雨で濡れた靴底が走り出しをほんの少し邪魔した。
「どうして傍に付いてあげなかったんですか?!」
−それは、いつの話?
「何て声を掛けたらいいか、分からなかったからだ」
 傷つき、汚れたと泣くだろうお前に何を言えば・・・
「すいません・・・」
 気を紛らわせてやれるのか・・・
「本当のことだ。謝るな」
−一人で考えれば分かるかと思った。


 雨粒が拳を大きくし、背や後頭部を容赦なく殴る。それは重力と共謀し重さを増し、風と共犯して何度も瞼を撃った。


 まるで拒絶しろと言うように・・・ 
 目を背けろと言うように・・・



「いてぇ・・・」
 トタン造りの扉を目の前に、一息つく。
−健・・・
 雨の攻撃を受けた肌が赤くなっている。
−お前は、もっと痛いのか?
『ま・・・さ・・・?』
「どう言えってんだよ・・・」
−まだ見つからない。
「雅・・・美・・・・!」
 不意打ちに名を呼ばれ、身体が竦む。
「ほら、南。もうすぐ東方来るから。ね?」
「帰った・・・雅美・・・置いてった・・・」
「帰ってなんかないってば」
「ふっ、っく・・・俺が、っ、汚いから・・・・・・」
「みなみぃ・・・頼むから泣きやんでよ」
 閉じられた扉を越えて耳に届く、掠れた譫言に似た泣き声・・・
−迷うな!
「健!!」
 静かに、けれど速やかに扉を押し開けすすり泣きへと向かう。
 その耳には声が届いていないらしく、譫言のように名を呼び続ける。
「まさみぃ・・・馬鹿っ、野郎・・・」
 泣きすぎで時々むせあげ、それでも頬を伝う痛みの象徴が流れを止めることはない。
「東方、遅いよ!俺大変だっ・・・」
 振り返ったことを、千石は少し後悔した。
「すまない」
 今にも泣き出しそうな東方・・・
−二人で痛いわけ?
「ほら、場所代わるから」
 他人の痛みで、ここまで傷つくことができるものなのだろうか?
−亜久津・・・・りだよ・・・


「健・・・もう泣くな」
「何処だよ・・・雅美・・・」
 何かが壊れたように泣き続ける。近くで呼びかけても、まるで聞こえていない。
「雅美・・・何で、何で?!」
−お前の声が聞こえない。
「いるから。俺いるから!」
−声が・・・
「何で・・・いないんだよぉ!!」
−遠くなら追いかけられるのに、見えるなら待てるのに・・・
「俺は何処にもいかないから」





 どうして貴方が見えないのですか?







「健!俺を見ろ!!」
 横たわる身体と背もたれの間に無理矢理膝を押し入れて己の身体を支える。
−拒絶しないでくれ。
 擦り傷の目立つ両腕を押さえて顔を近づけた。
「嫌だ!!触るな!!」
 相手が東方だということが分かっていない南は、逃れようと暴れ出す。
「雅美!!雅美!」
−受け入れてくれ。
「畜生」
 唸るように呟いて、叫び狂う唇に己を重ねる。柔らかく、触れるだけの口づけを繰り返すと、針金のように強ばっていた腕からユルユルと力が抜け、恐る恐る濡れた瞳が東方を捕らえた。
「雅・・・美?」
「俺が分かるな?」
 濡れた髪から落ちた滴が頬を打つ。それは涙のようにも見えた。
「うっ・・・く・・・」
 悔しそうに顔を歪めて頷く南に、東方はもう一度口づける。
「遅くなってゴメン」
−捨てないで・・・
「まさ、み・・・・・ぁ・・・・・っ!!!」
 がっしりとした首に腕を絡めて引き寄せ、叫ぶようにまた泣き出す。
「ゴメンな」
 耳が痛くなるほどの泣き声に心臓が痛くなる。自分も泣きたくなる。それでも東方は恋人の瞼に、額に、唇に。できるだけ優しくキスを落とす。
「もう、恐くない。何処にもいかないから。な?」
 返事の代わりに腕に力を込めた相手を起こし、腕の中に納める。
「シャワー浴びような」
 東方の肩に額を押しつけていた南がしっかりと頷くの確認し、軽々と抱え上げる。
「東方先輩。これ・・・」
 壇が手早く南のカバンからバスタオルを取り出し、東方の肩に掛ける。
「ありがとう。悪いな。手間かけさせて」
 淡く部員に微笑みかけて、南を抱えたままシャワー室へと消えていった。


 ゴメンナサイ・・・どうかこの穢れた身体を許して下さい


「さ、二人が戻ってくる前にここ片付けよう」






 雨が笑う。ザアザアと汚れた音で叫び笑う。


「俺、自分でやる・・・」
 脱衣所で衣服に手を掛けた東方を制するように南が口を開いた。
「お前に、見られたくない」
 小刻みに震えながらそう告げる唇に優しく触れて、諭す。
「ちゃんと、俺がお前の身体キレイにするから」
「キレイになんかなるわけない!!」
−今更・・・
「なるさ。だから大人しくしててくれ」
 どうやったら戻れると?
「無理だ・・・」
 もう『お前だけ』じゃない。
「健。好きだ。それだけは、大丈夫だから」
−狡い。
 もう、流れるような手の動きに総てを任せるしかなかった。



「うわっ、あ・・・!」
 滝のように勢い良く降ってくる温い湯。その下で東方が身体の中を探る。
「ひっ・・・ぅ、あ・・」
 内側を指で押し広げられ、白い粘液が内股を伝った。
「もうすぐ終わるから」
 むせかえるような石鹸という名の浄化物の匂い。それが妙に勘に触った。
ー無駄なのに・・・
「うっ!くぅ・・・っ」
 酷く無意味なこの行為。何が変わるというのだろうか?
「雅美・・・まさ・・・っ!」
 埃を流したって、精液洗ったって、擦り傷治って、痣が消えて、掴まれた腕から跡がなくなっても・・・

−戻れねぇよ・・・
 
 一人しか欲していなかった。それなのに・・・
「ちょっと、滲みるかもしれない」
 他の身体などいらなかったのに・・・
「いっ!ぁ・・・あ!」
 たった数十分前なのに・・・
 時が戻るはずもなく、波のように押し流されるばかりで・・・
「嫌だ!も・・・止めてくれ!」



 これ以上この醜い体を暴くな。




「もう少し我慢。な?」
 制止しようと伸ばす腕を無視した強い力が最奥に湯を流し込む。重力に沿った流れが内壁を掠め、バタバタと古びた床に濁った粒を落とした。
「ふっ、う・・・っく」
 せめて総てを視界から遠ざけようと、キツク目を閉じ、東方の体温を感じようと必死に首を引き寄せる。
「嫌だ・・・嫌だ、もう、嫌だぁ!!」
 頬を伝った涙が、首元で湯と同化し広がる。その直前を東方は舌ですくった。
「・・・ぁっ!」
 浅ましい・・・まだ感じようとする躯。無理矢理にこじ開けられ、その事実を知られたというのに、それでも愛撫に応えようとする。
「健。顔上げて」
 憎くてたまらない、この身体。
「雅美・・・嫌だって言ってる!」
 何が嫌かって?全部だ。
「頭と顔洗ったら終わるから」
 掌に溜めた湯が目元から頬を流れる。額を指がなぞり、そのまま髪を梳いた。




「終わったぞ」
 栓を閉じる音と共に、水音が聴覚から消え去った。
「・・・」
 バスタオルが頭に被せられ、撫でるように水を拭き取られる。
「雅美・・・」
 顔を拭う布地に導かれ、視線が絡む。
「別れたかったら・・・言ってくれ。もう嫌だろ?こんな・・・」
 汚れた己。
「好きだよ。それじゃ、ダメか?」
 こんなに優しくされる価値など無い。
「でも・・・!」
 言葉を口づけによって遮られた。
「健。本当に好きなんだ」
 嘘のない言の葉。でも・・・
「・・・違う」
「?」
 傷一つ無い、キレイな身体。力強い肢体。
「俺は、こんなにキレイじゃない!!」
−汚い!!
「痛っ!」
 両手で何度も東方を引っ掻く。首元から鎖骨の辺りまで紅い線が引かれた。
「違う!俺と違う!!お前は俺だけなのに!!・・・何でっ!!」
−他のモノなんて。
「健・・・」
−逃げようがないじゃないか。
「・・・ゴメン。もう俺の身体、お前だけじゃない」
 決定的な一言だった。
 心の何処かで思っていた。これが何かの間違いであればいいと。
 でも、膝を抱きかかえ苦悩している恋人に・・・
「・・・」
 何の間違いがあるというのだろうか?
「だから・・・だから!もう、見ないでくれ!!」
−汚い!要らない!こんな躯いらない!!
「ふっ、うっ・・・」
 嗚咽を堪えようと、自らの腕に噛み付く南。痛みに眉をしかめながらも、キツク歯をたてていた。
「バカ!止めろ!!」
 慌てて口をこじ開け、腕の傷を確かめる。深くついた歯形。出血はしていないが、皮膚の内側で毛細血管が紅く悲鳴をあげている。
「こんなコトして何になる!」
 痛みを和らげてやろうと、再びシャワーの栓をひねり水をかけながら、さすってやる。そんな東方の腕にすら南は爪をたてた。
「触るな!!放っておいてくれ!何でっ!?俺は・・・俺・・・」
 悲鳴のように叫びながら、頭を抱える。かける言葉が見つからない。
「健・・・」
−ずっと思ってた。
「お前だけがよかったのに」
−他なんて考えたこともない。
「雅美。いつも肝心なこと言えないけど、俺ちゃんとお前だけって思ってた」
 身体を貫かれる瞬間も想っていた。
「ゴメン・・・ゴメン・・・俺汚い」
 この腕が恋しいと・・・
「汚いなんて思ってない」
 大きな手が噛み締めた唇に触れた。
「謝るのは俺の方だ。もっと早く着いてれば、止められたのに。ゴメンな」
「う・・・・っ」
 左右に首を振って否定する南。
「雅美は・・・悪くない・・・っ!」
 たとえ、穢れようとも・・・
「健。ゴメンな」
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!!」




 貴方が好きです



 愚かですか?


 汚れ物の分際で、と思いますか?



 恋をする資格は在りませんか?


 キレイになりたいです




 叫び声は薄い壁を超え響く。
「何か、聞いてられないよね」
 オレンジの髪を掻き上げ、千石は室町と目を合わせて呟いた。
「そうですね・・・」
 当たり障りのない言葉を返し、窓の外を見た。雨足は穏やかさを取り戻しつつも、歩みを止めていない。
「千石さんだったら、どうします?」
「どっちの立場?」
「東方さんです」
 タバコの煙を仰ぐように、だらしなく背もたれに項を預ける千石。
「室町君。ちょっと無神経じゃない?」
 窘めるように薄く笑う。
「すいません。軽率でした」
 頭を下げるのと同意に視線を落とした室町には目をむけず、千石は呟いた。
「どうするだろうねぇ・・・分かんないや」
 自問自答のように視界を閉ざし、瞼を突き抜ける光を皮膚の下で見つめた。
−どっちかというと、亜久津側かな?
「室町君。南のカバンからハンドタオル取って」
「は?」
「いいから、いいから」
 首を傾げながら従う室町からそれを受け取ると同時に、後方で空気が動いた。
 誰も言葉を発そうとしない。けれど緊張感が伝わる。
「片づけてくれたのか。皆、悪かったな」
 落ち着いた声音。
「・・・ありがとう」
 東方に軽く促され、南が口を開く。危うくも理性を取り戻した佇まいに空気が少し緩んだ。
「東方。補欠の奴らは自宅に帰らせたから」
「そうか、手間かけたな」
 千石に淡く笑いかけて、東方は長椅子に深く腰掛けた。
「健。ほら」
 同時に南の手を引き、腿の間に自分より小さな身体を抱きかかえる。
「千石。そのカバンの下にメニュー表があるから取ってくれ」
「俺を顎で使うなんて高くつくよー」
 茶化した口調で大人しく従う。
「雅美・・・俺横に座る」
 東方の腕の中で僅かに南が身を捩った。
「どうした?」
 部員達の視線が南には痛い。同情、戸惑い・・・異質なモノに向けられるそれがたまらない。
「・・・とにかく離してくれ」
 本格的に逃げ出そうとする身体を更に強い力で引き寄せた。
「ダメだ。ここにいろ」
「でも・・・」
 益々皆の視線が突き刺さるのを感じるが、逃げようがない。仕方なく、南は東方の肩口に顔を埋めた。
−見るな・・・
「健?」
−俺は見せ物じゃない。
「ほい。東方」
 先程室町に取らせたタオルを東方の頭に被せる。
「うわっ!何すんだ千石!」
 南の腰に回した左手はそのままで、利き手ではぎ取ったタオルから目だけを覗かせて千石と視線を合わせた。
「・・・」
 言葉無く千石は南を見やり、東方にニッと口元を歪めて笑って目くばせをした。
「・・・」
 軽く微笑んで東方は肩口に埋まった目元を隠すようにタオルを掛ける。
「何だよ?」
「いいから、そのままでいろ」
 袖口を掴んだそれが震えるのを宥めるように、自らの掌を甲に重ねた。
「2、3日俺達部活休むから、その間のコトは千石と室町に任せる」
 
−眠い・・・
 
 タオル生地の繊維の間から注ぐ淡い光。閉じこめられたような錯覚を起こしそうになり、触覚だけを頼りに東方の体温に安堵を覚えた。

−ダメだ・・・

 手際よく練習メニューの説明をする東方の声音。声帯の振動が肺を揺らし、身体を突き抜けて南の頬をくすぐる。


−頭、痛てぇ・・・


 打ちつけた後頭部の痛みと睡魔の狭間で視界が揺らぐ。何とか意識を保とうとするのだが、瞬間的に首に力が入らなくなり、全身の力が抜ける。

−ヤバイ。

 慌てて首を座らせ、布の壁の向こうのやり取りを必死に聞き取る。
 ふと、壁が僅かに隙間を作り、東方が覗き込ん だのが見えた。
「健。眠いのか?」
 濡れた髪を太い指が梳く。それだけで眠気が倍増し、瞼が意志とはかけ離れて重い。
 返事をしたくとも、喉すら動きが鈍く言うことを聞かない。
「寝てていいよ。疲れただろ?」
 もう意識はほとんど遠い。周りのざわめきは聴覚が受け付けない。それでも東方の声だけには感覚総てが反応する。
「イヤだ。起きて待ってる」
 眠りの世界は独りだから。
「少し寝たほうが身体楽になるから」
−また目覚める瞬間・・・
「・・・・何処にも・・・・・」
「行かない」
 この温もりを感じていたいから。
「本当か?」
「あぁ、約束」
−独りを思い知らされるのはイヤだ。
「起きて、いなかったら・・・許さないからな・・・」


 暖かい場所にいたいです。


 規則的な寝息が鼓膜をくすぐる。深い眠りに陥っているのが分かるが、東方は赤子をあやすように南の背をトーン、トーンと叩く。時々さすり、身体がずり落ちないように抱き直す。
「寝ちゃったねぇ、何か可愛いや」
 ピクリとも動かない南を見て、千石が淡く笑んだ。
「それ、起きてる時に言ったら殴られるぞ」
「経験済み?」
 二人して苦笑して、南を見つめる。
「大人しく甘えてる南、初めて見た」
 千石の呟きに苦笑して東方は寝顔を覗いた。
「そうだな。あんまりさせてくれない。嫌いらしいからな。不謹慎だけど嬉しいよ」
 生乾きの髪に頬を寄せて、目を閉じた。
 その表情を何と表現すれば良いのだろうか?
 我が子を初めて抱く若い母親のようでいて、憂いを知った表情。
 その奥にある憤りと・・・困惑。
「皆、亜久津を見たら俺に知らせろ」
 雨は気紛れに囁きを変える。
「あいつだけは許さない」
 時に叫び、時に癒し、時折奪い・・・
「殺してやる・・・」
 総ては神の命のままに・・・


 雨の子守唄は神の気紛れに翻弄されるヒトへの償い・・・

「絶対だ・・・」








 恵みの雨を下さい・・・
 ヒトはそれを求めるのだから



子守唄−END−

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