クレイジーとメディスン、救済
(2)
アイドリングをしていなかったから当然だが、冬の夜の車内は冷えていた。助手席に乗り込めば乾いた風は防ぐことが出来たが、硝子を伝って冷たい空気が入り込んでくる。身体がぶるり、と震えた。
「ほら」
「……さんきゅ」
差し出された温かい缶。バタン、という運転席のドアを閉める音と同時に受け取れば、手の平にじんわりと温もりが広がった。たったそれだけで、安堵した。
「で、何、有田を殴ったの? お前ら友達じゃなかったっけ?」
遠藤の軽自動車が、正面から温かい風を吐き出し始める。それに当たりながら、須賀は言葉を探す。
何と説明したらいいのだろう。流石に遠藤には、ただムカついたから殴った、とは言えない。だからといって、本当の理由も言えない。
原因は、シンナーであると。言える筈がない。
プルタブを開けることもせず、黙って缶を握り締める。
「……馬鹿にされたから、ムカついて殴った」
「病院に行くような怪我させるほど殴ったのか? 馬鹿にされて?」
「許せないことだったんだよ」
「お前、そういう奴だっけかなあ」
ドキリ、と一瞬だが心臓が跳ねた。
頭に血が上りやすいのはシンナーを吸っていたせいで、自分があそこまで有田を殴り続けるとは思っていなかった。きっといつか勝手に頭が冷えて、我に返るのだと思っていた。けれど、警察が来るまで殴るという行為は止まなかったらしい。
本当は、こんな人間じゃない。と思いたい。
遠藤に、呆れられただろうか。有田に怪我を負わせてしまった罪悪感もあるが、一番は、遠藤への不安だ。
彼は、唯一、須賀を須賀として見てくれる。二年生の時に、進級が危なかった須賀を救ってくれたのは遠藤だ。常に孤立していた自分を、毎日学校に通わせたのも彼だ。
最初は鬱陶しくて仕方なかった。あまりに執拗に構うものだから、一度殴ったこともある。それでも遠藤は懲りなかった。懲りずに、自分を構い続けた。
「寂しかったら素直に甘えろ」という言葉に絆されてしまった時、何だ自分は寂しかったのかと妙に納得した。
「ちゃんとした理由があるんだろ? 俺にだけ話してみろよ」
シンナーを止めろと言われて殴ったと、言える筈がない。遠藤だから尚更だ。今度こそ絶望されるに違いない。絶望されたら、自分はもうどうしたらいいのか分からくなるだろう。それだけ今は、遠藤に執着している。
「お前になんか話す訳ねえだろ。それより早く車出せよ」
「……冷たいなあ」
遠藤が苦笑して、ハンドルを握った。
こうして何度、後悔しているだろう。甘えろという言葉に絆されながらもその言葉に乗っからず、突っぱねる自分。いま見て貰っていることに安心し、いつか見放されることを恐れる。きっとその日は近い。薬物乱用していると知ったら、彼は。
窓の外で電灯が高速で移動するのを追っていると、だんだんと息苦しくなってきた。須賀の周りだけ酸素が薄くなっているように、息は上手く出来ない。
遠藤といる時なのに、まずい。身体がシンナーを求め始めると決まって最初に現れる症状だ。自然と呼吸の間隔が狭まり、荒くなる。口に手を当てて隠そうとしても、須賀が苦しそうにしているのは運転中の遠藤も気づいてしまったようだった。
「っ、……ぅ、…っ」
「……おい、大丈夫か? 具合悪いのか? 車酔いするタイプ?」
うるせえ、と言い返すことも出来ない程、気分は悪い。何かがせり上がってくる。気持ち悪さに耐えるのに必死で、遠藤が車を脇に止めたことすら知らなかった。
「吐く? 外出る?」
そうじゃないと言いたい。けれど言葉は出ない。遠藤の心配そうな視線。視界がぐにゃりと歪んでもとに戻ると、悪鬼のような顔をして笑う男が隣にいて、額から汗が垂れた。
「ひっ……!」
「マジで大丈夫か……? うわ、すごい汗だな。タオル……」
「や、めろっ!」
差し出された手を払ったのは、遠藤が包丁を持っていたからだ。それで須賀を刺す気なのだろう。にへら、と嗤ったその顔のまま、須賀を殺す気なのだ。そうとしか思えない。
冷や汗が頬を流れて太腿に落ちる。短い髪の毛から伝ってきた粒が目の中に入って沁みる。握り締めた手が痛い。頭を預けた硝子が冷たい。近寄る遠藤が、怖い。
「おい、須賀……」
「来るな!」
ほとんど悲鳴だった。遠藤は依然として須賀に刃の先を向けており、へらへらと笑っている。は、は、と短く呼吸を繰り返しながら、須賀は恐慌状態でドアを開けようと必死だった。
早く外に出て逃げなければならない。でないと、この男に殺される。
しかし、取っ手に手をかけて引いても、カタカタと空虚な音が鳴るばかりでドアは開かない。隣の男が、意図的にロックを掛けているのだろう。須賀を外に出さないように、閉じ込めるために。
「須賀、落ち着け、どうした」
「くそ、……来るな! みんな、そうやって、俺を殺そうとする! 俺が、こんなだから、邪魔だから……!」
「須賀!」
男の怒声に肩がビクリと震える。もはや恐怖しか感じない。
その時、思い出した。制服の内ポケットに、大事なガーゼを忍ばせていることを。
混乱する手を何とか動かして、白いガーゼを取り出した。ガーゼにはシンナーが含ませてある。吸引して楽しむことは出来ないが、その科学的な芳香を嗅ぐことは出来る。
咄嗟にそれを鼻と口に押し当て、思い切り吸い込んだ。たちまち、吸引する時と同じようなバナナの芳し香りが鼻腔に広がった。
瞬間的に安堵したが、長くは続かない。呼吸もまだ息苦しく、生きることが辛くなる程だ。
隣の男は、爛々と光る目で須賀を凝視していた。隙を窺っているのか。
どうして殺そうとするのだろう。隣の男だけではない、常日頃から、色んな人間が悪魔のような顔をして、自分を殺そうとする。もう、意味が分からない。何も考えられない。考えたくない。生きていたく、ない。こんなに苦しいのであれば、死んだ方がマシだ。
顔が冷たくて、手で覆うと液体で濡れた。何故泣いているのかと衝撃を受けた瞬間に「須賀」と呼ぶ声がした。
「なん、……ッ」
「須賀」
「……、ふ、…っん」
唇が、熱いと思った。涙で濡れた顔はとても冷たいのに、何故か唇だけ熱い。現実に目を向けると、遠藤の二つの目が、目の前にあった。
何だ、これは。
「ん、っ……――」
酸素で満たされていく心地がする。何か温かい蠢くものが、口内を蹂躙する。よく分からない。ただ、必死に追った。
「須賀! しっかりしろ!」
遠藤が叫んだ。須賀の肩を両手でしっかり抱いて、揺さぶる。焦点の定まらない瞳で正面を見るが、シルエットはぼうっとして不明瞭だ。何度か瞬きを繰り返せば、遠藤の顔だと分かった。悪魔のような、真っ黒い顔ではなく。
浅く短い呼吸が徐々に落ち着きを取り戻し、正常なペースへと戻る。それでも心臓はドクドクと脈打っていた。両手は白くなって震えていた。太腿に涙がぼろぼろと零れて冷たかった。嗚咽まで漏れ出した。
「須賀、これは?」
湿ったガーゼを手にした遠藤の手が目の前に現れる。明らかな不審の眼差しに眩暈が止まない。
やってしまった、と。
まだ肩で呼吸をしながら、足元に大きな穴が開いたような絶望感に包まれる。すべてが終わった気がした。
「っ……」
「須賀」
もう駄目だ。隠し通すことは出来ない。吐き出してしまって、軽蔑されるしかない。今、選べる選択肢はそれしかない。
嗚咽が収まったころ、須賀はようやく口を開いた。
「……シンナー、やってんだ」
顔を見ることが出来ない。口から出してすぐ、目をフロントガラスの方へ逸らした。反応が、沈黙が怖い。硝子に映る遠藤の顔が暗くてよく見えないことだけが、唯一の救いだった。
遠藤は、何と言うだろう。今すぐ止めろ。いつからやってるのか。そんなものに手を出しているとは思わなかった。もっと酷い侮蔑の言葉か。
反応を待つのが辛い――そう感じていると、突如、エンジン音が鳴り出した。それでもやはり遠藤のことは直視できなくて、黙って前を向いていると黒の景色が動き出す。
どこへ行くつもりなのだろう。警察に送り返すのだろうか。こいつはシンナーに手を出している、と突き出すのか。
そういえば、あの警官は気付いた素振りを見せた。須賀からほのかに香る臭いに気づいたようだった。指摘される前に遠藤が現れたから良かったものの……今は、遠藤によって警察に連れて行かれそうだ。
もう終わりだ。ゆくゆくは鑑別所、少年院か。そうなったら、もう遠藤には会えない。言葉すら交わせない。
嗚咽が折角収まったのに、また鼻の奥がツンとしてきた。目頭が熱くなって、水分の膜が出来上がる。泣くのは耐えた。ぼやけた視界で、電灯が移り変わるのを見つめる。走行音と、鼻を啜る音だけが聞こえていた。
「ほら、降りろ」
突き放したような言葉で、我に返る。遠藤が外から助手席のドアを開けて待っている。背後には、やはり警察署があった。それでまた、引きつつあった涙が溢れた。
募るのは後悔だけだ。どうして、シンナーなんかに手を出したのだろう。大事なものを奪っていくだけで、何も与えやしない。一時の快楽を手に入れた気分に浸り、驕っていただけだった。
「須賀、顔上げろ」
「…、っうっせえ、な……今…」
「おい泣くなよ」
「うるっせえ」
車から降りないまま、顔を拭う。冷たい風が吹きつけて、頬に鳥肌を立てさせる。そのせいか、涙はますます溢れて止まるところを知らない。頭を乱暴に撫でられて、ようやく相手を見た。
遠藤が、慈愛に満ちた表情で笑っている。……そうだったらいいなと、逆光で見えないのに、思う。
「須賀、お前、俺のこと超好きだろ」
「何で今……そんなこと」
ああ、本当に終わってしまう。声が漏れそうになるのを、奥歯をギリギリと噛み締めて耐える。砕けそうだった。
「安心しろ。俺は、お前を見放したりしないよ」
須賀を心の読んだように、優しい言葉を降り注ぐ。少し屈んで、まだ助手席に座ったままの須賀の身体を抱き締めた。冷たい風とは正反対に、悲しいほど温かかった。
「だから、一緒に頑張ろう」
一緒に戦って行こうと囁いて、遠藤は身体を離した。
差し出された右手を、掴むことしか須賀には出来なかった。
...End
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