密着アクアリウム
(2)
どうして自分がこんなに悩まなければならないのだろう。
買うか買うまいか、陳列棚の前で既に三十分も悩み続け、大河はしまいには自分の置かれた状況に苛立ちさえ覚えるようになった。
今日はバレンタインデーだった。ついさっきまで自分には全然関係のないイベントだと思っていたのに、偶然にも伊織に遭遇してその考えは揺らいだ。
放課後にばったり出くわした。そしてバレンタインのチョコレートを貰った。義理であることは明白だ。彼女には好きな人がいるし、大河に会ったのはその相手に既に本命のチョコレートを渡してきた後だった。
「大河くんは犬飼くんにあげないの?」
「女が男にやるもんだろ」
「もう性別なんて関係ないよ」
「っていうか何で俺があいつにやらなきゃならねえんだよ」
「だって、付き合ってるじゃん。好きなんじゃないの?」
それまでチョコを渡す必要性など感じていなかった。付き合っているのなら、お互いが好きと分かりきっているのなら、わざわざ渡す意味なんてないじゃないか、と。
そう返したら伊織は「そういうことじゃない」と言い残して立ち去ってしまった。ならばどういうことなのだと問う間もなく。
その後は、必要ないだろうとは思いながらも、何故か足は駅とは反対方向へ進んでいた。辿り着いたのは学校近くのコンビニ。バレンタインコーナーとして陳列棚に並べられた種類豊富な数々のチョコレート。包装はどれも可愛らしく、女性が男性へ贈るために買いそうな商品ばかりだ。
大河にはこれを、レジまで持って行く勇気はない。
ならば潔く帰ってしまえばいいものを、と思うのに、足はなかなか出口へと向かわない。
いつまでも同じ場所に突っ立っていたら不審だろうと、たまに店内をぶらついて、最後にはバレンタインコーナーへと戻ってくる。店員には十分、不思議に思われているかもしれない。
今日は犬飼よりも早く学校を出てしまった。既に課外授業は終わっているだろうが、外はこの大雪である。流石に今日は教室に残って勉強などしないだろう。大河が居残っていないのに気づいて、犬飼も帰っているかもしれない。きっとそうだ。今、チョコレートを手に入れて学校へ戻っても意味がない。
「……」
放課後になって用意しようとしている時点で手遅れなのだ。そう自分に言い聞かせると、大河はようやくコンビニを出る。
ドアを押して外へ出ようとした時、入ってきた客とぶつかった。相手のコートについた雪が大河にも付着する。
「あ、すいませ……あ」
「え」
予想しなかった人物との遭遇に、大河の心臓は跳ねた。先に謝ってきた男は、犬飼だった。
「お前、何でここに」
「少し買うものがあって」
こんなところで会うなんて。
相変わらず雪は降り止むことを知らないようで、犬飼は頭にも白を被っている。かじかむ寒さのために、頬も鼻先も耳も真っ赤だ。
「電車走ってないって」
「じゃあバスか」
「ターミナルまで一緒に行こう」
「……ああ」
「買ってくるから、待ってて」
まさか自分と同じ考えでは、と犬飼の様子を追うと、案の定、バレンタインコーナーで立ち止まって商品をじっくり選んでいる。
どうしよう。あれはきっと大河に贈る分だろう。
犬飼が買うのなら、自分も買った方がいいのだろうか。せっかく買うことを諦めたのに、ここへきて再び葛藤し始める。犬飼がくれるというのに、大河から何もないというのは悪い気がする。
でも、あれが大河の分だと決まっている訳ではない。もしかしたら違う人かもしれない。例えば、家族とか。
ぐるぐると思い悩んでいるうちに、店員の「ありがとうございました」という快活な声が届いた。犬飼がレジ袋を片手に「行こう」と先に外へ出てしまう。
問題が解決しないまま、仕方なく大河も外へ出る。
一歩一歩を踏み出すたびに、ずずっ、ずずっ、と雪が潰れる音がする。短時間で、明らかにさっきよりも地面が高くなっている。防水のブーツを履いていても足裏から染みてきそうで怖い。
傘を差して歩いても、雪が斜めに吹きつけてくるせいで身体の前面は真っ白だ。
これは誰かの、例えば神様の、バレンタインは中止だという意向ではないだろうか。
寒気が肌を刺す中で、二人は到底口を開く気にはなれなかった。一度言葉を発してしまったら、もう寒い寒いしか言わなくなるのは分かりきっていた。それくらい凍えていた。そして大河は、無事に帰宅するまで何事もなく、普段通りであればいいと願う。
ターミナルに着いたのは、ちょうど大河の乗るバスが一分前に出た頃だった。犬飼の乗る線も、あと二十分は待つことになる。
外よりはましだが、それでも暖房はほとんどきいておらず震えるくらいには寒い。人は疎らだった。その中でも老人や学生がほとんどだ。
大河の使うバスの乗り場前の長椅子に腰掛けると、バレンタインの広告が視界に映り込んだ。ちょうど近くの壁に堂々と張りつけられている。「大切な人に贈ろう」という文字が飛び込んでくる。
バレンタインの話題はなるべく避けようと思っていたのに、犬飼も広告に気づいたようで「チョコ貰うまで、今日がバレンタインだって気づかなかった」と呟いた。
「お前……貰ったのか」
「一個だけ」
「誰から」
「クラスの中村さん」
「……ふうん」
おそらく義理チョコではない。中村という女子が、結構な頻度で犬飼を見ていることを大河は知っている。それに以前、女子の集団が恋愛話をしているのをうっかり耳に入れてしまったことがある。その中で、中村は犬飼のことが好きだと話していた。
「彼女いるのかってきかれた」
「そいつ、お前のこと好きなんだろ」
決して平常心ではなかった。心に何かもやもやしたものが溜まって気持ち悪い。
けれどそんな心は絶対に見せないように、平静を装って、ただの世間話のように、言葉を返した。
「よく分からない。何で俺なんかにチョコくれたのか」
もし大河と犬飼のどちらかが女だったら、付き合っていることを、お互い好き合っていることを周知できるのに。男同士のために、時折歯痒い思いをすることがある。男女だったら、堂々としていられるのに。
このもやもやは嫉妬だ。
「で、何て答えたんだよ」
「いるって。可愛い子」
「嘘つくなよ。彼女いねえだろ」
「いるよ。可愛いし」
犬飼が、大河の冷たい手を握り込んだ。酷い乾燥でカサカサした犬飼の手も大して温かくなかった。
ただ、顔が少し熱くなった。
「彼女じゃ、ねえんだけど」
「ああ」
少ないとはいえ人目を気にして手を離そうとするが、さらに強く握られる。
「……冷てえから、離せよ」
「大丈夫、すぐ温かくなるから」
そうしてしばらくの間、そのままでいた。
ターミナルの中にいる人々は、寒さのあまりにマフラーに顔を埋めて歩き、他人の様子は気にしていないようだった。
不意に時計を見た犬飼が、はっとしたようにコンビニのレジ袋を取り出した。その中の小箱を片手で差し出した。
やはり大河宛てだった。
「いつもありがとう」
いつも無表情の犬飼が、口元で僅かに微笑んだ。滅多に見れないものに、心臓が鳴る。
「な、んだよ。改まって」
感情が顔に出ていないことを、大河は心から願った。
「日頃の感謝を示そうと思って」
準備不足で申し訳ないけど、と付け足す。
それを言えば、大河の方こそ何も用意なんかしていなかった。バレンタインは好意を示すためだけにあるものではないのに。伊織の言った言葉の意味に気づいて、やっぱりコンビニのものでもいいから買っておけば良かっただろうかと、後悔した。
取りあえず礼を言って、ありがたく受け取る。帰ってから開けよう。
大河から渡すものがないことだけが、ただバツが悪かった。
「悪い、俺は何も……」
「別に、物がすべてじゃない」
気にしなくていい、と犬飼が言った時、隣の乗り場にちょうどバスが到着した。犬飼の家の方向だ。立ち上がろうとした犬飼の腕を、咄嗟に掴んで引き寄せていた。唇と唇がぶつかる、乱暴なキス。
「だから、これで」
犬飼は珍しく目を丸くして驚いている顔は面白かったが、恥ずかしさを隠すように「早く行けよ」と追い払う。急いで乗り場に向かう犬飼の姿が見えなくなると、大河は自分の顔を手で覆った。
何て恥ずかしいことを。しかも人が少ないとはいえ公共の場で。
自分の行為に内心で身を捩っていると、コートのポケットの中でケータイの着信音が鳴った。メールだ。差出人は、たった今立ち去った男。
『ホワイトデーでも良かったのに』
それに続く「でも嬉しかった」という文面に、大河はバスが来るまで悶えるはめになった。
5/9 sweet