密着アクアリウム

(1)

 窓から見る外の景色は真っ白だった。
 何も、今日だけの話ではない。昨年の十二月から順調に雪は降り積もり、アスファルトは一切姿を見せないし、校舎の周囲には屋根から落ちた大量の雪が処理されずに山となって残っている。
 ドドドド、と三階の高さから地面へ落ちる重たい雪が仰々しい音を立てる。今日はいつもより雪の粒一つ一つが大きいし、水分を含んで重たい。
 
「……さむ」

 窓の結露を眺めながら犬飼は一人呟いた。
 放課後の課外授業からちょうど戻るところで、これから教室で勉強しようかと思ったが、こんな寒い日は早く帰った方がいいのかもしれない。夜に近づけば近づくほど、外の気温はどんどん下がっていく。

 大河はまだ教室に残っているだろうか。進学組の犬飼と違って彼は放課後の課外授業がない。
 授業が早く終わる時は、教室で待っていてくれる大河と一緒に帰ることが多いが、今日は長引いてしまったうえに寒い。そのうえこの大雪だ。
 流石に下校しただろう。……今日は、一人で帰ろう。

 暖房があまりきいていない廊下を歩いていると、教室前に一人の女子生徒がいるのに気づいた。向こうも犬飼に気づくと「犬飼くん」と上擦った声で呼んで近寄ってきた。
 あまり話したことはないが、同じクラスの子だった。寒い中立っていたのか、コートは着ているものの手先や鼻先が赤くなっている。

「何?」
「あの、これ……」
「?」
「受け取ってくれる?」

 彼女が差し出したのは、焦げ茶の小さな紙袋。何だろう、と一瞬考えるが、そういえば朝から教室中が色めき立っていた。女子は嬌声を上げてわいわいと賑やかにしていたし、男子は一日中そわそわしていた。
 今日は二月十四日だ。とすれば、これはチョコレート。

「犬飼くん、甘いもの大丈夫?」
「うん」
「よかった。……美味しいかわからないけど、食べてくれたら嬉しい」
「ありがとう」

 このチョコレートがどういう意味を持つのか、義理なのかそうでないのかはさておき、せっかくの好意を無下にするのは申し訳ないと思い、とりあえず受け取った。ロッカーに教科書やノートをしまっていると「まだ話があるの」と言った。
 何となく想像はできた。

「犬飼くんって、……彼女いるの?」

 躊躇いがちに言われた言葉。
 恋人はいるけど彼女ではない、なんて正直に答えたらどんな反応をするだろう。意味を理解できずに困惑するだろうか。

「……いるよ」

 彼女の顔が強張る。女の子のこういう表情は、何度見ても申し訳ない気分になる。

 自分のどこが良いのだろうと思う。愛想は決して良くないし、感情を表に出すことも苦手で、人と話すことも得意でない。大抵は話しかけられなければ自分からは声をかけない。クラスの中でまともに会話するのはほんの数人だ。自分のどこが気に入って、チョコレートを渡してきたのか。

「……そっか。どんな子?」
「……多分、可愛い」
「多分? クラスの子?」
「そう」

 誰なのか調べるつもりなのだろうか。女子に絞って考えていると絶対に見つからないだろうけれど。
 さっきまで緊張していた表情がすっかり沈んでしまっている。無理をするように小さく笑った。

「あ、そうだ、さっき渡したの、義理だから。義理だけど、彼女が気にしたらごめんね」
「いや、大丈夫」
「お返しも気にしなくていいから」

 じゃあ私帰るね、と両腕を擦りながら足早に立ち去る。
 わざわざ犬飼を待って他に誰もいない廊下で渡して、義理でないことは明らかだった。寒い中ずっと待っていたのに、少し気の毒なことをしたかもしれない。でも「いない」と嘘をつく訳にはいかない。――まあ「彼女」という時点で偽りなのだが。

 教室に入ると、廊下よりずっと温かい空気がむわっと押し寄せた。このまま教室を永遠に出たくない。

「おー犬飼、お疲れ!」

 教卓の付近に宇佐美、そして柏木もいた。柏木は明日の朝に使うプリントを置きに来たようだが、宇佐美に掴まったのか。
 二人は意外と仲が良い……というより、宇佐美がむやみやたらに絡みに行くせいか、放課後の教室ではこの二人が会話しているのを見ることが少なくない。
 ニヤニヤしながら、二人の目線は犬飼の持っている紙袋に向けられている。

「お前さっきチョコ渡されてたろ」
「そうなんすよー何でか犬飼モテるんすよー俺より!」

 それでも、不服そうな顔をする宇佐美の手には小さな紙袋がある。

「宇佐美、それ」
「これ? 伊織からもらっちゃった」

 本命であることは容易にわかる。二人はまだ付き合っていないとはいえ、犬飼は前から何度か伊織の方から宇佐美のことで相談を受けていた。
 宇佐美も、本命だとは薄々気づいてはいるのだろうが、おどけたように「いいべいいべ」とにやにやしている。

「それでさっきから宇佐美が俺に自慢してくるんだ、好きな子からもらってよほど嬉しいんだな」
「す、きな子!? 違うから、別にそんなんじゃねーし」
「そのうえ俺にチロルチョコを押し付けてお返しを期待してる」

 柏木の言う通り、教卓の上には申し訳程度に小さな正方形のチョコが載っている。ホワイトデーに高級ブランドのチョコレートを要求されているのか。

「んで、犬飼。『彼女』からはもらったのかよ」
  
 宇佐美がやけに彼女を強調して喋る。さっきの廊下でのやりとりに聞き耳を立てていたらしい。

「もらってない」
「まー、うん、そういうタイプじゃないよね、絶対」
「そういえば今日は誰も残ってないな。仲宗根も。いつもお前ら二人一緒に帰ってるだろ」

 確かに、教室内に他に残っている生徒はいない。この雪だから、課外を終えた生徒も早々と帰ってしまったのだろう、残って勉強している者はいなかった。電車が止まって帰れなくなったら大変なのだ。
 もちろん、大河もいない。

「この天気だし、仕方ない」

 そうは言っても、やはり少し寂しい気はする。まだ教室に残っていることを、まったく期待していなかった訳ではない。もしかしたら一緒に帰れるかも、と思わなかった訳ではなかった。

「犬飼はあげねーの?」
「……俺?」

 まったく考えていなかった。
 そもそも、今日がバレンタインデーだということも、当日になるまで気付かなかった。自分は関係ないと思って、念頭にすらなかったのだ。女性がチョコレートを用意して、想いを寄せる男性に渡すだけだと。だから大河がどうこうだとか、全然期待していなかった。普段通りであればいいと、それだけ。

「……渡すべきなのか?」
「別にもう女が男に、とか関係ないんじゃね。ホモチョコとかあるくらいだし」

 確かに、外国では「女性から男性に」と限定されている訳ではない。日本では女性から男性に、が一般的であるが、別段気にする必要もないのかもしれない。想いを寄せている相手に渡すのならば、誰から誰へなど関係ない。

「でも準備してない」
「うーん……仲宗根は帰っちゃったしなあ」

 学校の近くにちょうどコンビニがあった。
 今からでも間に合うだろうか、と犬飼は思考を巡らす。

4/9 sweet

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