密着アクアリウム

(1)

 この手を許容している理由は、言ってしまえば至極単純なものだ。冷たくて気持ちがいいから。たったそれだけだが、それを唯一の理由としてこじつけるまでに、まったく葛藤がなかった訳では決してない。けれどあったと言えどもほんの一握り程度だった。それほどまでに夏の暑さというものは、人の思考を鈍らせる。

「……珍しいな」
「あ? ……俺が、大人しくしてちゃおかしいのかよ」
「そうとは言ってない」
「じゃあ黙ってろ」

 場所は少し異質だったが、そんな些細な条件を捻じ伏せてしまえる程には「犬飼の手が冷たい」という理由は大河の中で大きな割合を占めていた。少し視線を横にずらせば、今いる細路地から抜けた大通りでは大勢の人が犇めき合っている。夏にしかお目にかかれない、華やかな女物の浴衣がちらちらと視界に入ってはすぐに消えていく。遠くから太鼓の音が空気を震わせ、拡声器越しの野太い声が空高く響く。たこ焼きや焼きそばの良い匂いが鼻を掠めた。

「――」

 熱気で火照った身体をクールダウンさせるためにかき氷を食べた。同じような冷たさを纏った、しなやかながらも骨ばった手が首筋を辿る。普段はやめろと顔を顰めることが多いこの所作も、今だけは許容した。寧ろ気持ち良くて振り払う気にはなれなかった。

 夏は人を開放的にする、という言葉は何ら間違っていない。その通りだ、と思った。でなければ、こんな、いつ人目に晒されるかも分からない場所で、公共の場でやるべきでない行為を許したりするものか。

「音が……」

 犬飼が大河の胸板に手を滑らせながら何か低く呟いた。喧騒に紛れて最後まで耳には届かない。触れる冷たい体温を甘受しているうちに、ずんと胸を穿つような鼓の音が徐々に近づいてくるのが分かった。祭の山車が、大通りに入ってくるらしい。

「うるせえな……長く聴いてると具合悪くなる」
「それは、仕方ない」
「山車の上の甲高い女の声も」

 祭って感じがするだろ、と言いながら犬飼が首筋に噛みついてきた。触れる唇の温かさがうざったい、と思ったが肩甲骨を撫で回す手がひんやりと気持ちいいから何も言わずにいた。

 市で毎年お盆に商店街を封鎖して行う夏祭りに誘ったのは犬飼の方だった。お互い浮かれたイベントには興味がないと思っていたので、誘われたのは少し意外だった。
 最初はあまり気乗りはしなかった。犬飼と二人で歩いているのが知り合いの目に留まるのは気まずい。学校の同級生は大河が誰かとつるんでいることなんて思いもしないだろうし、まして連れが犬飼だとは想像もしない。学校では互いに不干渉を保っているのだから。男二人だけというのも何だか気持ち悪いし
 結局、全部奢ってやるという懐の広い言葉に負けて付き合った訳だが。

「っおい……首やめろ」
 
 飽くまで大河は、冷たいのが気持ちいいから許容している、という建前でじゃれ合っているつもりなのに、犬飼はそれ以上を求めるように触れてくる。首筋に顔を埋める相手の体温やら髪の毛やらが時折、不愉快。別に犬飼の手がひんやりしていなかったら、路地に抜けてこんな行為に及んだりはしなかった……と思うのだ。
 偶然にも触れた手の平が、かき氷のように冷たかったから。うっかり――まあいいかと、思っただけなのだ。

「しょっぱい」
「な、舐めんな……! やっぱお前、離れろ」

 ぐいぐいと相手の身体を押してみるが、逆にがばりと抱きつかれてしまう。こうなると今までの涼しげな空気は皆無で、触れた身体から体温が流れてくる。肌蹴ていた襟元や首元を強引に剥かれ、上半身はほとんど外気に晒された。

「熱い……!」
「暴れたらまた汗掻くぞ」

 暴れさせているのはお前だ、熱いから離れろ、と散々主張するが、犬飼は大河の目元やら頬やらに唇を落として軽く音を立ててみせるだけで、聞き入れる気配はない。だからといって熱いからやたらに抵抗する気も起きない。口で主張するだけだ。そうしている間に額に汗の粒が浮いて、項にもじんわりと滲んできた。最初に涼しいと思ったのは、どこへ行った。

「仲宗根」
「! お、前」

 腰に当たる硬い熱は、犬飼のものだ。興奮した雄を遠慮なしに押し付けてくる。確かにこんな状態になっても仕方ないかもしれないが、この細い路地で、人目につくかもしれない場所で、事に及ぶ度胸はない。
 往生している間にも、犬飼が大河の浴衣の帯を解き始めて焦った。

「おい馬鹿かお前こんな所で出来る訳ねえだろっ」
「……? じゃあ何で仲宗根はここに来たんだ」

 そう言われれば言葉に詰まった。考えてみれば、この頭も湧きそうな熱帯夜に、じゃれ合いで終わる訳がない。本当は、自分でも分かっていたのではないか。
 今更になって周囲の喧騒が気になり始めた。路地からも、いくつもの大きな山車が大通りを引かれて、その上で半纏を纏った人々が躍り歌う様子が見える。観客が犇めき、細い路地を浴衣の女性の後ろ姿が塞いだ。

「聞こえたらどうすんだよ」
「太鼓の音で何も聞こえない、声出しても大丈夫だ」
「…声は出さねえよ、絶対」

 負け惜しみをOKの合図と受け取ったのか、犬飼は再び首筋に吸い付いてきた。汗ばんで不愉快だろうに厭う様子はまったくない。弱く吸い上げながら、帯を完全に取り去った。さっきまで冷えていた手は今は熱く火照っていて、下着の上から大河の股間を握った。

「起ってないな」
「っ…お前だけだろ」

 言い張っていられるのも今のうちだけかもしれない。下着の上から淫らに揉みしだく手の動きに、やはり息は上がってしまう。辛うじて肩に引っ掛かっていた紺の浴衣が地面に落ちたのは意趣返しにと犬飼のそこへ手を伸ばしたからだったが、夏の夜空のもとで下着一枚という倒錯的な格好は、更に気分を高揚させた。犬飼の手が亀頭を握ると、先端にじわりと蜜が滲んだのが分かった。

「ん、っ」
「落ちたけど、寒くないか」
「寧ろ熱い……っての」

 浴衣なんて脱がされやすい服装、何が何でもしてくるんじゃなかったと、今更ながら後悔する。決して大河の意思で着てきた訳ではない。
 犬飼に頼まれただけでは絶対に着なかった。犬飼の母親に「是非」と言われて断れなかったのだ。犬飼の家に迎えに行くのではなく、どこか別の場所で待ち合わせにしていれば、着ないで済んだだろうが。

「浴衣……」
「ん、あ?」
「よかった」
「うるせえ」

 いきなり何を言うか、この男は。こっちは着たくて着た訳ではない。
 大河は投げやりになって、犬飼の下着の中に手を突っ込んだ。一瞬、相手の身体が硬直したがすぐに何事もなかったかのように、大河のものを弄び始めた。

「っく、そ……」
「下着、すごいことになってる」
「わ、かってる…ッ」
「染みが」
「うゥ……あ!」

 根本を、ぎゅうと圧迫されると高い声が出て慌てて大通りの方を見遣ったが、誰も気づく様子はない。安堵して俯けば、布を押し上げて恥ずかしい形に変形した性器の先端が顔を覗かせていた。割れ目から透明な液体がとめどなく溢れ出て、黒のボクサーに怪しげな染みを作る。羞恥が込み上げ目を一度固く瞑った。

「っ…」

 犬飼の雄も完全にいきり立って、ぬるついた液で濡れていたが、彼自身は息を乱していないのが悔しい。自分ばかり追い立てられている。負けじと先端に爪を立て抉るように引っ掻けば、相手は少し息を詰めた。
 このまま先にいかせてしまおうかと思った矢先に、唐突に下着をずり下げられて屹立した雄が勢いよく飛び出た。顔がかっと熱くなる。

「……、」

 犬飼が何か呟いたが、わっしょいという掛け声と太鼓と笛の音が聴覚をすべて支配しているせいで読み取れない。何を指摘されたのかと、気分は悶々としてくる。ただ、下肢で広がる卑猥な水音がいつものように届かないのは助かった。
 唐突に唇を塞がれた。熱く濡れた唇。相手の舌は、さっき食べたかき氷のイチゴシロップの味がした。恐らくピンク色に染まった舌が、億劫になって引っ込む大河の舌を嬲る。

2/9 左手に水風船、右手に熱

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