密着アクアリウム

(2)

 玄関に入ると、狭い足場はすぐ水浸しになってしまった。犬飼はまだマシだが、大河の制服からは着衣水泳をしたのかと問いたくなるほど水が止めどなく滴り落ちる。

「さみ……」
「制服、酷いな」
「一応替えがあるからいいけどな……。お前、先に中上がれ」

 制服が湿っている程度の犬飼を促し、大河はとりあえず身体に張り付いたシャツを剥ぎ取った。飽和状態のシャツは両手で絞ると滝のように水を滴らせる。泥が跳ねたスラックスの裾をまくり、靴下も脱いでフローリングに上がると急いでバスルームの脱衣所まで走った。

「犬飼」

 来い、と声をかけながらシャツを洗濯機の中に放り込む。スラックスも脱ごうとベルトに手をかけるが、かじかんんだ手はうまく働かない。そうしている間にも裾から滴る水が床を濡らすので、大河は風呂場の床に足をつけた。指先と同じように冷えた足は、普段の冷たさを感じ取れない。

「お前も、床濡れるからこっち来いよ」

 自由の利かない手をベルトのバックルにかけながら視線を上げると、犬飼も濡れて張り付いたシャツを心なしか忌々しそうにしながら脱ぎ始めた。玄関から風呂場に至る道も、脱衣所の床も、ふたりが歩いた跡はあとで掃除をする必要がありそうだ。

「酷い天気だな、梅雨も過ぎたってのに」
「ああ」
「お前、鞄の中は大丈夫なのかよ」
「わからない」

 もとより持ち物の少ない大河は多少濡れたって構わないが、教科書や辞書が沢山詰まっていそうな犬飼の鞄は、濡れてしまったらまずいだろう。それなのに大河の家までの道中、ふたりでひとつの傘に入っていたため、犬飼の肩にかけた鞄はしっかりと雨の矢を受けていた。

「多分、乾かせば大丈夫だ」
「適当だな」

 感覚のなかった指先が、やっとまともに動くようになってきた。引き抜いたベルトを浴槽の縁にかけるが、犬飼はいまだシャツのボタンを外すのに手間取っていた。第三ボタンまで開いた胸元は可哀想なほど寒そうで、大河は思わず手を伸ばしていた。

「ほら、貸せ。そんなもたもたやってたら風邪引いちまう」
「……悪い」

 小さくて厄介なボタンをひとつひとつ外していくごとに露わになる肌はいつにも増して青白く、雨の中を長時間待っていたことが窺える。屋根はあるものの横から雨風が吹き付ける駅の待合室で、ただ黙って電車から大河が降りてくるのを待っていたのかと思うと、胸が締めつけられるような感覚がした。

「……悪かった」
「何で仲宗根が謝るんだ」

 俯いていた視線を上げると、犬飼の真っ直ぐな瞳が怪訝そうな色をしている。

「俺のせいであいつらに絡まれてた」
「別に乱暴された訳じゃない」
「いつ危険な目に遭うかわからねえ」

 自分に私怨を持つ輩の数など、大河はいちいち把握していない。連中のうちの誰かが、大河と仲の良い犬飼を盾に使うかもしれない。もしそんなことがあれば、大河が最も怒りを矛先を向けるのは何よりも自分自身だ。

「それに、この寒いのにわざわざ俺を待ってる必要なんてなかった」

 犬飼は受験生だ。いくら優秀で頭脳明晰をいえども、それが毎日集中して授業を受け、弛まぬ努力を続けることによって保たれていることを大河は知っている。油断などできない大事な時期に、体調を崩してしまったら。

「俺のせいでお前が風邪引くなんてのは嫌だからな」
「もし俺が風邪を引いても、それは仲宗根のせいじゃない」
「俺を待ってたんだろうが」
「俺が勝手にやったことだ」

 犬飼は案外に頑固だ。当然のことのように言う犬飼に見下ろされると、いくら大河が何を言ったところで彼の中の考えは変わらないのだろうなと思い知ることが多い。

「……仲宗根の方が、風邪を引きそうだ」

 目の前のシャツの裾を掴んだままの手を、やんわりと捉えられる。手首に触れた指先は酷く冷たく、大河は僅かに身を竦めた。

「俺のことはどうでもいい、話をすり替えんなよ」
「ずっと、傘も差さずに外にいて、喧嘩してたんだろ」

 氷の手が頬に添えられ、耳の裏から背筋がゾクリと震えた。静かな言葉の影に、咎めるような調子を感じ取り、大河は眉を顰める。

「それは仕方ねえだろ。相手しなきゃあいつら帰らねえし」
「……そうだな。仕方ない」

 頬に添えられた手はそのままに、犬飼の親指が大河の唇をなぞった。切れた箇所はまだ乾かず、微かな痛みが生まれる。
 犬飼の顔が近づいて、唇が重なった。互いに目は伏せなかった。

「ふ、……っ」

 唇も褪めた色そのままに温度がなく、ただ雨に濡れていた。僅かに開いた唇の隙間から侵入してくる舌は裏腹に熱い。身体が冷え切っている分、いつもよりそう感じた。

7/9 rainy day

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