密着アクアリウム

(1)

 目の前が見えなくなるくらいの豪雨の中でも、その姿だけは輪郭をもってはっきり目に飛び込んできた。

「何やってんだよあいつ……」

 黒く頑丈そうな傘を差した犬飼の姿を認め、大河は頭よりも先に身体が動いていた。透明なビニール傘で太く重い雨を防ぎながら、足元で雨水をパシャパシャとボトムの裾に跳ねさせ校門の方へと近づく。スニーカーの中はとっくに水浸しで、足を踏み出す度に爪先は不快で堪らなかった。

「こいつに何か用かよ」

 不機嫌を隠しもせずにその集団に声をかけると、黒く大きな傘が振り返った。犬飼はひとりではなかった。犬飼と向かい合って、三人の柄の悪い生徒ーー制服を着崩し、髪を派手に染め上げた連中がビニール傘を差しながら佇んでいた。制服からして他校の生徒だし、明らかに犬飼の友人ではない。

「仲宗根……」

 雨がビニールを叩きつける音は激しく、犬飼の声は耳を澄まさなければ消え入ってしまいそうなほど低い。大河は犬飼の腕を掴み三人から離れるように後ろへ引いた。

「何もされてねえよな」
「ああ」
「お前を待ってたんだよ、仲宗根」

 真ん中の男が苛立ったように言った。傘の下から見えた相手の顔は、確かに見覚えがあった。加え、その顔面を殴りつけた記憶もある。派手に崩れ落ちて鼻から鮮血を噴き出していた。

「……んだよ、やり返しにきたのか? 仲間も連れて」
「一人じゃ敵わないってわかったからな」
「だっせえな」

 雨粒の向こう側から人でも殺しそうな眼光が突き刺さる。今にも飛びかかってきそうな剣幕に、「面倒くせえ」という悪態を喉元で飲み込んだ。

「犬飼、帰れ」

 普段は駅まで一緒に歩き、そこで別れるのだが、今日はいつものようにはいかないようだった。犬飼は、大河にしかわからない程度に眉根を寄せただけで、軽く息を吐いた。

「……仲宗根は?」
「俺はこいつらに付き合うから、また明日な」

 犬飼の返答も聞かず歩き出す。水溜まりを踏む小気味よい音を、連れ立って三人分背中で聞きながら。


 犬飼を巻き込む訳にはいかなかった。どうして三人が犬飼に絡んでいたのかは知らないが、犬飼は進学組だ。真面目な犬飼が不真面目そうな連中と一緒にいるところを教師や他の生徒に見られるのは気が咎めたし、問題に巻き込んで彼の不利に働くようなことも絶対にしたくなかった。

 雨の日で普段より人通りは少ない。公道だけでなく、いつもは子供が遊んでいる学校近隣の公園にも人の影は見えなかった。
 濡れて泥になった地面を踏みながらその中に入ると、無言で背後の三人がついてくる。大河は緩慢に振り返って正面の男の顔を睨めつけた。

「俺に用事なら、最初から俺のとこ来いよ」
「お前に直接行ったって、相手してくれっかわかんねえ。あの優等生っぽいイケメン、お前と仲良いみてえだしな」
「ああ?」

 だから、犬飼を取り囲めば大河が庇って相手をしてくれると思ったのだろうか。実際間違いではないが、どうして大河と犬飼の仲を知っているのか。

「いっつも一緒に帰ってんだろ? すげえ訳わかんねえ組み合わせだけどな」

 確かに、犬飼と自分とでは不思議な組み合わせだろう。いかにも真面目な風貌で背筋がしゃきっと伸びた優等生の犬飼と、柄も人相も悪い不良の自分とでは。

「何で知ってんだ。てめえストーカーかよ」
「さあ。でもこれで、あのお友達に話通せばお前とやれるってことがわかった」

 男の口元が描いた緩い弧は、酷く癪に障る。大河は自身のこめかみに力がこもるのを意識した。

「……あいつに手ぇ出したらぶっ殺すぞ」
「おお、こわ。まあ、そうならないように……仲宗根が最初から相手してくれればいいんじゃねーの」

 以前は、憂さ晴らしのため毎日のように喧嘩に明けくれていた。自分から喧嘩を売るようなことは滅多になかったが、相手から吹っかけられたものを無視する訳にはいかないと、自身へ向けられるあからさまな悪意に応じてきた。今は喧嘩そのものを、ゼロとは言えずとも意識的に避けている。その理由は一概に、犬飼を巻き込まないためだった。
 だが犬飼を危険から遠ざけるための行動が、かえって犬飼を、大河を呼ぶためのダシにしてしまっているのだろうか。

「……好きなだけ相手してやるよ」

 申し訳程度に雨風を凌いでいた傘を捨てた途端に、冷たい粒が横から殴りつけてくる。反射的に目を眇めると同時に、相対していた男の拳が正面から躍りかかった。

 三人の男が地に伏せる頃には、大河も全身が雨と泥に塗れていた。視界も足元も悪い環境では、三人を同時に相手するのは一苦労だ。

「ってえ……」

 口元を触ると指先に血が付着する。赤色は雨に流されてすぐに消えてしまったが、殴られて切れたらしい箇所はピリリと鋭く痛む。口内も切れたようで濃い鉄の味がした。
 痛むのは口元だけでない。喧嘩中、傘を武器にして向かってきた馬鹿に、地面に倒れているところを殴打され、脇腹や脚が滲むように痛い。

「さむ……」

 おまけに、長時間雨風に晒された身体は氷のように冷えきっている。こんな悪天候の日に、よくも喧嘩などふっかけることができるなと、転がっている男たちの心持ちに感心せざるを得ない。
 顔やシャツに張りついた泥が不快で仕方ない。早く帰って風呂に入ろう。足元を見ると、差していたビニール傘は骨が折れて使い物にならなそうだ。ひとつ身震いしてその場を後にする。

 自宅の最寄り駅のホームに降り立ち、大河は目を剥いた。ほぼ屋外と称していい待合室に、先ほど見たばかりの黒い傘。

「お前……帰ったんじゃねえのかよ」

 天から降る雨が大河の額を激しく打つ。バケツの水でも被ったかのように全身ずぶ濡れになった大河の頭上に、大きな傘がかかった。短い前髪から滴る雨粒が睫毛の間を縫って目の中に入り込もうとするのを、瞬きで遮る。

「帰る訳ないだろ」
「何で……」
「心配だから」

 そう言う犬飼の身体も濡れそぼっていた。この豪雨だ。もとより傘は百パーセントの効果を発揮しない。
 息も触れ合う距離から見た犬飼の顔はいつにも増して青白く、血色が良かった筈の唇も褪めた色に変わりつつある。何の感慨もない無表情だ。近距離で伝わる筈の体温もなく、ただ傘の下に入ったふたりの身体を冷たく鋭い風が吹き付けるだけだった。

「お前の方が心配になるくらい顔色悪いぜ」
「かなり寒かったからな」
「だったら帰ればいいのに」
「多分仲宗根は傘を捨ててくるから、俺がいないとびしょ濡れだと思って」
「ここまで濡れるともう傘なんて意味ねえよ」

 犬飼の黒い瞳が大河の顔をまじまじと見つめてくる。そうだな、と呟いた彼は細く長い指で大河の唇に触れた。

「っ……」
「怪我をしてる」
「珍しいことじゃ、ねえだろ」
「……ああ」

 投げやりに言うと、犬飼は静かに目を逸らした。薄い唇が動くのは見えたが、銃弾のような雨の塊が傘を叩く音で、掻き消されてしまう。

「何?」
「……、家まで送る」
「送るったって……むしろ、送ってもらって、びしょ濡れのお前を帰す訳にいかねえよ」

 犬飼の家はここから遠い。その濡れた格好のまま電車で過ごしたら確実に風邪を引いてしまう。

「だから、寄ってけば。着替えくらいは貸すし」

 そのまま帰してしまったら、大河の方が心配でならないのだ。行くぞ、と問答無用で歩き出すと、犬飼が傘を持つ腕を伸ばしてついてくる。足元の水溜りが跳ねた。
 黒い傘の下にふたり並んで、肩を濡らしながら終始無言で歩いた。

6/9 rainy day

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