密室アクアリウム

(1)

 瞼の裏に明るい陽光が透けて見えて、眉間に皺が寄った。眩しさを遮ろうと、目元を腕で覆う。カーテンが開けっ放しの窓から容赦なく差し込む光は、雪に反射して白く光る。
 仰向けから体勢を変えて横を向けば、見慣れた顔がそこにある。手を伸ばせば届く距離に、伸ばさなくても、鼻先が触れ合う距離に、犬飼がいる。
 穏やかな朝だ。

 抱き合いながら寝た。犬飼に背を撫でられながら眠りについた。まるで母親にあやされる赤ん坊のように。

「……さむ」

 昨日は興奮のあまり寒さなど微塵も感じなかったが、当然ながら暖房のついていない部屋は寒い。身震いし布団を顎まで引き寄せ、暖を求めるように犬飼に擦り寄れば、男の瞼がゆっくりと持ち上がった。

「……はよ」
「おはよう、…………」

 再び目を瞑ると、細い睫毛が陰を落とす。
 閉じても線の残る、くっきりとした二重。緩やかに弧を描く優しげな眉。筋の通った形の良い鼻。滑らかで柔らかい唇。
 端整な顔のパーツひとつひとつを間近で眺めながら待っていたが、犬飼の目は閉じられたままだ。

「おい、起きろよ」
「起きてる……」

 目が薄く開かれる。眩しそうに何度か瞬きを繰り返すと、甘えるように大河の首筋に顔を擦りつけてきた。くすぐってえ、と頭の上に呟く。

「お前、寝たのか」
「え?」
「眠ったのかってこと」
「ああ……そうだな。いつの間にか」

 以前も、眠る犬飼を背中に感じながら床についた覚えはあったが、こうして幽霊の目覚めの瞬間を目にするのは不思議な気分だ。

「変な幽霊だな」
「仲宗根が、生きてた時と同じように過ごせばいいって、言ったから」

 だからこれからは毎日飯も食うし、眠るし、風呂にも入る、とまだ寝惚けているような声で、首元で喋る。

「仲宗根と一緒に」
「は……いや風呂は一人で入れよ」
「寝るのは、一緒でいいのか」
「ベッド一つしかねえだろ……ソファで寝るのもアレだし」

 だいぶ絆されてきていると思わないこともない。けれど、それでいい。犬飼と一緒に食事をし、眠る。たまには一緒に風呂に入ってもいい。何をするにも、一人でするより、犬飼と一緒の方が、きっと楽しい。
 ふ、と思わず笑みが零れる。

「今、笑った」
「……あ?」

 犬飼が顔を上げる。

「笑った」

 大河は、ただ瞬きを繰り返した。自分が、笑う?
 指摘されて、初めて気づく。一体何年ぶりだろうか。決して人を馬鹿にするような笑みではなく……唇の端を引いて、息を漏らしたのは。

「ああ、そうだな」
「何で笑ったんだ」
「さあ、わかんねえ……楽しいから、かな」
「楽しい?」
「お前も、笑えよ」

 寝起きの無表情の犬飼の頬を、両手で摘む。見たこともない変な顔が何だかとてもおかしくて、思わず声を出して笑った。それこそ、声を立てて笑うなんて、自分ではないようだ。

「おい……仲宗根」
「お前もいつも能面みてえだからな……笑ったとこ見たことねえ」

 頬の皮膚を掴んだまま、無理やり上へ持ち上げる。昔の、写真に映る子どもの頃の犬飼は、口角と頬骨をきゅっと上げて、楽しそうに笑っていた。笑顔は、それしか知らない。

「仲宗根、手……放してくれ」
「こっちのほうが、いい顔してるって、面白くて」

 頬を掴んだままからかっていると、犬飼がのっそりと起き上がり、肩を押される。仰向けの状態になり、顏の横に犬飼の腕がある。
 陽光を背にした犬飼の顔は少し翳っている。その薄暗さが昨日の熱すぎる夜を想起させるようで、大河は一瞬どきりとした。
 犬飼の肩にかかっていた布団がずり下がり、白い肌が剥き出しになる。二人とも昨日から裸でいたことをようやく思い出した途端、寒気が襲う。

「……さみぃんだけど」

 犬飼は何も言わずに大河の身体を抱き締めた。布団の代わりになるように、肌と肌をぴったりと隙間なく密着させて。触れ合う素肌が心地よく、大河は目を伏せた。

「仲宗根」
「ん」
「どこか行きたい」

 よく通る声が、鼓膜ではなく肩の骨に直接響く。

「それ、どういう意味だ」
「そのままの意味なんだけど」

 どこかに行きたい。犬飼の発した言葉を頭の中で反芻する。

「二人でどこか行こう」
「遊びに……ってことか?」
「そう」

 犬飼の首筋にかかる艶のある黒髪の毛先を見つめながら、大河は少し茫然とした。
 遊びに行く。犬飼と、自分と、二人で。

「……」

 そんなこと、考えたこともなかった。犬飼が言うとも思ってなかった。
 まるで、友達か、恋人がするようなこと。

「どこかって、どこだよ」
「どこでもいい。仲宗根と一緒なら」

 犬飼とは四六時中、一緒にいる。生活の範囲内で、常に、傍にいる。どこかに二人で遊びに行くなど想像もつかない。――でも。
 案外、悪くないかもしれない。

「わかった……考えとく」

 そう言うと僅かに距離が開き、顔が見えるようになる。表情に変化はないがどこか嬉しそうな気配で、唇と唇が触れた。表面を軽く撫でる感触が気持ち良く、大河は口端から息を漏らして笑った。

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