密室アクアリウム

(20)

 心に優しく触れるように、唇は表面を僅かに撫でただけですぐに離れた。犬飼の吐息が顎にかかる。

「……最初は、こんなつもりじゃなかった」

 犬飼の言葉に後悔している風はない。むしろ充足感が強く滲み出ていた。

「こういう『好き』じゃなかった。仲宗根とこういうことをしたいとか、思ってなかった」
「……俺だってそうだよ」

 冷たい鼻先が触れ合うような距離で、囁く声が鼓膜を震わせる。大河はむず痒いような感覚を覚えた。犬飼が静かに「俺だってそうだよ?」と疑問符をつけて大河の言葉を繰り返した。覗き込むように瞳を見つめられると顔を覆いたくなる。

「俺だって、お前の手握ったり、キスしたり、するとは思ってなかったよ」

 それも、自分からするなど、絶対にありえないと思っていた。

「仲宗根は、俺のことが好きなのか?」

 好き、とはどういうことなのか。以前に自分から犬飼に口づけたのも、不安がる犬飼を引き寄せたのも、安心させてやりたいと思ったからだ。ずっと一緒にいてやると口にしたのも、そうだ。
 大河自身、犬飼から与えられた温もりだ。
 隣に、傍にいると安心する。心に居座る感情が、恐怖や不安よりも安堵が勝る。
 それが好きということなのだろうか?

「……わかんねえよ」

 犬飼の視線が僅かに揺らいだような気がして、思わず相手の頬に手を添えた。

「けど、お前の傍にいたいって……思った。……これじゃ駄目か」

 顔の中心に熱が急速に集まるのを感じる。それでも視線は交えたまま、逸らさなかった。
 犬飼の視線が眼を越えて脳髄にまで刺さりそうだった。しばらくして犬飼が唇を動かす。

「……充分だ」

 顎をそっと掴まれ、唇は再び重なった。掠めるようなものではなく、今度は深く交ざり合う。僅かに開いた唇の間から犬飼の舌が潜り込んできた。臆することなく大河もそれに自らの舌を絡ませる。

「……っ、ふ」

 鼻から抜けたような声が出る。犬飼の舌は大河の口腔を蹂躙した。歯茎を優しく撫でられると背筋に柔い痺れが走る。以前のように背中を叩いて制止しようとは思わない。もっと犬飼に触れていたいとさえ思う自分に、大河は胸中で困惑した。

「……ん」

 口内を犯す相手の舌先を優しくしゃぶると、犬飼の手が肩まで下りてきた。そっと押され、唇は一度離れる。

「何だよ」
「続けていいのか」
「あ? ……んなこと、きくなよ」
「前は抵抗しただろ」

 犬飼が静かに言葉を紡ぐ。唾液で濡れた唇から低く声が漏れ出るのが妙に艶めかしく、少し不安げに大河にきく犬飼に、大河の心臓は跳ねた。

「それは、前の話だろ」
「今はいいのか。今更だけど無理強いしたくない」
「だから……」

 ここに来て焦れったい犬飼の唇に、大河は思わず噛みついた。以前にしたって、抵抗する自分に構わず強引に最後までしたくせに、と。
 柔らかい唇を噛みながら、相手のネクタイを強引に引っ張り、抜き去った。唇を離す。

「……いいって、言ってんだよ」

 真っ向から直視できず、目線を逸らす。言わせんなよ、とぶっきらぼうに吐き捨てた。

83/96 融解

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