密室アクアリウム

(18)

 電車の中でも、アパートに着くまでの道も、終始無言だった。息遣いさえも雪が吸収してしまうので、二人の間には本当の静寂が佇んでいた。
 帰宅するとすぐに暖房をつけた。フローリングは氷のようにひんやりとし、足裏をつけるのも躊躇するほどだ。屋内にも関わらず、吐いた息は白い。

「お前、本当に寒くねえの」

 大河はコートを着たうえにマフラー、手袋までつけているのに、犬飼は学校のブレザーだ。幽霊だから寒くても暑くても関係ないのだろうが、この真冬に軽装備を目の当たりにすると顔を顰めたくなる。

「あまり」

 そういう犬飼の顔は、言葉の割に青白い。具合が悪そうに見えるが、これが彼の標準だった。
 暖房をソファの近くまで引っ張り、重たい腰を下ろす。犬飼も隣に座ったところで、大河は「なあ」と唐突に話を始めた。

「お前、昔会ったことがあるって、言ってたよな」
「ああ」
「俺も思い出した」
「……そうか」
「何で言ってくれなかったんだよ」

 別に怒っているつもりはなかった。自分でも驚くくらいに、一体何年ぶりに出したのかというほどの穏やかな声が口から出ている。犬飼は「ごめん」と呟いた。

「言っても覚えてないだろうと思った」
「確かにそうだけど……お前はずっと覚えてたのかよ、俺のこと」

 幼い頃に友達だった男のことなど、十年以上も覚えていられる筈がない。

「いや……俺も、すっかり忘れていた」

 それが当然なのだと分かっていたのに、何故か大河の心は僅かに軋んだ。

「仲宗根が教室をやめたあとも、俺は小学校まで続けてた。でも、やる気は全然出なかった。惰性で通ってた」
 
 惰性で通っていたにしてはあのピアノの上手さ。少し嫌味に感じるが、やはり犬飼は何でもそつなくこなしてしまう。

「仲宗根がいないのに、ピアノなんて続ける意味がない」
「……俺かよ」

 犬飼が一瞥する。仲宗根はポケットから、犬飼の母親からもらった写真を取り出した。それを犬飼の膝の上に置くと、彼の視線は下に落ちた。

「……家に行ったんだな」
「分かってんだろ。お前がどこにいたかは知らねえけど」

 自然と、拗ねたような口調になってしまった。
 犬飼が墓の前で姿を消した時、本当に、深い穴に落ちてしまったような不安に見舞われたのだ。

「道を通った時、母さんがいるって分かった。そしたら身体が勝手に、向かった」
「何で、急にいなくなった」
「……見ていられなかった」

 犬飼の手は、いつの間にか写真の縁を強く握っていた。爪が食い込んで、皺になる。はっとして犬飼の顔を見るが、俯いていて表情は見えない。

「久しぶりに会った。……辛そうだった」
「お前の母さん、泣いてた」
「弱ってる姿なんて、俺は一度も見たことなかった。あの人はいつも笑ってたんだ」
「……」
「強かったあの人が泣くところなんて見ていられない」

 普段は聞けない、犬飼の心情。犬飼の口から滞りなく言葉が零れ落ちるのを、大河は黙って聞いていた。

「あの人を悲しませてるのも辛いけど、……あの人が悲しんでるのを見て、自分の死を思い知るのも、嫌だった。俺にはもう家族はいない。……一人だ」

 感情の感じられないいつもの声ではない。大河には、犬飼が今にも泣きだしそうに聞こえた。
 それから犬飼は何も喋らなくなった。無機質な、時計の針が動く音と、暖房の低い唸り声だけが聞こえる。部屋の温度は徐々に温かくなってきた。息を吐いても白くはならない。

 目を瞑ると、夢に見た幼い頃の記憶が浮かび上がった。ブランコに乗りながら、犬飼が屈託のない笑顔で言う。

「ずっと一緒にいよう」
「……え」

 犬飼が、驚いたようにゆっくりと大河に目線を移した。

81/96 融解

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