密室アクアリウム

(17)

 どうしても、と言う犬飼の母親に気圧されて、昼食までご馳走になった。しばらくゆっくりした後、「またいつでも遊びに来てね」と優しい声を背に犬飼家を後にした。時刻は午後二時を回っていた。
 家族が帰ってきているかもしれないと思ったが、進路の話をする気分には到底なれなかった。
 駅までの道、一人で歩いた。来る時は二人だったのに、今は隣に誰もいない。いっそう寒くなったような気がした。
 
 電車に乗り込むと、大河はボトムのポケットから写真を取り出した。幼い頃の自分と犬飼が写っている。アルバムに二人の写真は何枚もあったので、一枚だけと頼んだら快く渡してくれたのだ。「あの子のこと、いつまでも忘れないでいてあげてね」と。

「……犬飼」

 ポツリと名前を呟く。乗客はほとんどおらず、車両内は広々としていた。誰も大河を気にする者はいない。

「犬飼」

 名前を呼んでも犬飼は現れなかった。どうして出てこないのだろう。本当に必要な時こそ、そばにいてくれない。
 聞きたいことが山ほどある。沢山ある筈なのに、まだ頭の中で整理できておらず、何を問い質したいのかも判然としない。
 
 昔のことをすっかり忘れていた。小学校に上がる前のことを鮮明に思い出せる筈がない。
 教えて欲しかった。前に会ったことがあるのかと聞いたが、誤魔化さないで真実を伝えて欲しかった。幼い頃、友達だったと――それを知っていれば。

「……」

 知っていれば何だというのだ。犬飼の口からそれを聞かされても、大河はピンとこなかっただろう。犬飼の家に行き、母親の話を聞き、写真を見て思い出したのだ。

 写真の中の幼い犬飼は笑っている。初めてみる笑顔は年相応にあどけなく、愛らしい。今の無愛想からはまったく想像できない。別人では、と疑うほどだ。
 どうして今は、笑わないのだろう。

(俺も、同じか)

 大河はそっと瞼を伏せた。ガタン、ゴトン、と心地よい振動が身体に伝わってくる。



 夢の中の自分は小さかった。目線の高さが極端に低い。身体を見下ろせば、地面との距離も異様に近かった。
 ブランコに座り、ゆらゆらと揺れる。前方に、ベンチに座った女性が二人、談笑していた。視線に気づいたのか小さく手を振った。
 春の暖かい日差しが身体に降ってくる。花壇の周りに黄色い蝶が飛び回っていた。今まで二人でそれを追いかけていたのだと、どうしてか唐突に思った。
 二人というのは、自分と、左隣のブランコで揺れている子どもだ。

「――――」

 ぱっちりとした二重瞼が印象的な、幼くとも端整な顔立ち。彼が大河に向けて言った。
 うまく聞き取れなかったが、大河はしっかりと頷いた。
 彼は大河へ向けて手を伸ばしてきた。細く、頼りない腕だ。開かれた手のひらも幼い子どものそれで、ぷっくりと柔らかそうだった。
 大河は彼の手をしっかりと握った。温かかった。



 電車が大きく揺れる振動で目を覚ますと、正面の窓からの光が目を刺した。項垂れていた頭を上げる。差し込むのは太陽だけではなく、雪を被った田畑の白さだ。
 寝起きの頭はぼんやりとしている。根拠もなしに電車はまだ着かないという確信があった。再び瞼を閉じようとした時、気づいた。握られた左手が温かい。

「おはよう」

 心地よい声音が鼓膜に響いた。左に首を巡らすと、いつもの無表情がある。くっきりとした瞼から覗く黒い瞳は大河の姿を捉えている。
 すとん、と何かが胸に落ちてきた。

「勝手に、いなくなるんじゃねえよ」

 責める風でもなく、本当に気が抜けたような声が出た。犬飼が現れないことへの不安や苛立ちよりも、今隣にいることへの安心感の方が大きい。
 もしかしたらこのまま会えないのではないか、と一瞬でも考えた自分は、すぐにいなくなってしまった。

「悪い」

 悪びれた感じはまったくなかったが、そんなことはどうでもいい。謝罪は求めていない。

「一人にはしないよ」

 その一言だけですべてが満たされる気がした。再び窓の外に目をやると、日光が雪に反射してきらきらと輝いていた。窓には光の粒が見える。膝にかかる日差しは温かい。
 大河は目を閉じた。左手はまだ温かいままだ。

80/96 融解

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