密室アクアリウム

(16)

 今まで誰に対しても心を開いてこなかった。小学生の頃から人を信じられなくなった大河はいつも一人だった。誰も近寄ろうとはしなかったし、大河自身も誰にも近寄らなかった。言葉を交わすのは、言い掛かりをつけてくる連中だけだ。
 家族さえ好きになれなかった。中学に入ると喧嘩をして問題ばかり起こす大河に、当然、両親は厳しかった。親の言うことは一切耳に入れなかった。出来の良い妹を比べられるのは腹が立った。口論をして母親に手を上げ、それからの家族関係は最悪だった。
 それでも両親は、周辺の低偏差値の学校ではなく、遠くのそこそこの高校へ入学させようとした。大河の将来のため、という理由の他に、大河を遠くに置きたいという理由もあっただろう。
 高校に入っても一人を貫いた。他人と戯れる気は毛頭なかったのだ。周囲は大河を怖がり誰も話しかけてこないので好都合だった。誰ともつるまず、つつがなく高校生活を送る――筈だった。

「孝弘は、初めて出来た友達です」

 こんな、どうしようもない出来損ないの人間を、守りたいと言ってくれる。好きだと言ってくれる。
 犬飼は死んでいるが、唯一心を開ける相手だ。大切な相手。

「孝弘のこと……好き?」
「……はい」
「良かった。そう言ってくれる人がいて」

 母親は指先で目元を擦った。

「聞いても何も話してくれないから、友達いないんじゃないかと思ってたの。君みたいな子がいてくれて良かった」

 犬飼に心配してくれる家族がいると知って大河も安心する。

「何だか昔を思い出すわ。小学校に上がる前にも、お友達が家に遊びに来てくれたの。ピアノ教室のお友達なんだけど」

 そう言えば以前、小学生の頃にピアノを習っていたと聞いた。幼児の時に始めて、小学校までピアノ教室に通っていたということだろう。
 伊織から預かった手紙を置いてこようと音楽室へ行った時、犬飼は滑らかな手つきで練習曲を弾いてみせた。長く筋張った手が鍵盤を叩くのを見て、本当に何でも出来る男なのだと知った。
 大河も幼い頃、母親の意向でピアノ教室に通っていた。自分の意志で始めた訳ではなく、一か月弱で止めてしまった。その頃にはすでに根気というものが欠如していた。

「初めて出来た友達だって、喜んで……」

 遠い昔を思い出し、母親の言葉は最後まで続かなかった。年齢を感じ取れる口元に力を入れ、彼女は強引に笑みを作った。

「ごめんなさいね、年を取るとどうも」

 箱から抜いたティッシュで涙を拭く彼女を見て、自分はこんなに泣くことは出来ないと思った。生前の犬飼を知らない大河は、彼の死をここまで嘆くことは出来ない。
 あるいは、犬飼が本当の意味で死んだ時、涙を流せるだろうか。

「あの時の孝弘は、今の、今までの孝弘とは全然違ったもの。無邪気にはしゃいだりもしてたのに、お友達が教室をやめたらとても落ち込んでしまって」

 涙を拭きながらおもむろに立ち上がった母親は、引き出しの中を漁って別のアルバムを出した。黄ばんだ表紙が年月を感じさせる。
 今とまったく違う犬飼には興味がある。彼の笑顔など大河も目にしたことがない。
 よれたページを一枚一枚捲る。生れたての、母親の腕に抱かれている写真。水が顔にかかって大泣きしている入浴中の写真。初めて自分の足で立った写真。元気に家の中を走り回る写真。
 赤ん坊の写真から始まり、幼少期へ。どれも、今の本人からは想像できなく無垢であどけない表情を浮かべている。
 
「懐かしいわ……想像できないだろうけど、孝弘にも可愛い時期があったのよ」

 次のページを捲る。鼻がすっと通った端整な顔立ちは、五、六歳の頃で既に表れていた。今と違うのは、笑っているところだ。ピアノ教室の友達だろう、家のキーボードの前で二人で鍵盤を弾きながら、楽しそうに遊んでいる。

「ああ、これね。友達が遊びに来て、一番楽しそうな時……」

 何故か大河はその一枚から目が離せなかった。右手で鍵盤を叩き、左手でピースサインを作った子ども二人。顔面をくしゃくしゃにして笑う犬飼と、その隣で口は笑っているものの目が細く切れているせいかレンズを睨んでいるように見える子ども。
 自分に顔立ちが似ている。

「孝弘が通ってた教室って、ケーキ屋の隣の、個人で経営してた」
「あら知ってるの? 迎えに行った帰りに時々買ってたわね。今は教室もケーキ屋さんもないけど……」
「俺も通ってて」

 写真に目を落としながら、大河の鼓動は早まっていた。まさか、そんな、と頭の中で過去の記憶を蘇らせようとする。すっかり忘れていた――幼児期の友達の名前など、憶えていられない。家に遊びに行く仲の友達がいたということすら記憶に留まっていないというのに。
 
 犬飼の隣で笑っている子どもは、自分だ。
 犬飼はずっと覚えていたというのか。本当に短い間だけ仲良くしていた自分を、高校生になっても覚えていたのか。
 大河の頭の中で記憶と思考が交錯する。ずっと昔から好きだったと犬飼は言ったが、まさかこんなに幼い頃から。大河の方はほとんど覚えていないというのに。
 幼い頃の「好き」など、ただ遊んでいて楽しいとか、それくらいのものだ。犬飼はその気持ちを十年以上も持ち続けていたというのか。移り変わる時の流れに飲み込まれることなく。何故、昔の「好き」から今の「好き」に変わったのか。

「仲宗根君?」

 声をかけられてから、自分が呆然としていたことに気づいた。
 動揺が顔に出ていることは分かっていたが、大河は口を開いた。

「これ、写真に写ってるの……俺です」

 母親は瞠目して、しばらく黙っていた。それから目尻の皺を深くして「また来てくれてありがとう」と言った。

79/96 融解

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