密室アクアリウム

(13)

 大河は、犬飼に包丁を手渡したことを大いに後悔していた。

「ちゃんと見ながら切ってんのか!? 切るのは指じゃねえ、玉ねぎだ!」

 慢心だった。勉強も運動もできた犬飼なら料理も難なくできるだろうと思ったが、実際包丁を握らせてみたら酷い有様だった。
 玉ねぎに向かって刃を下ろしている筈なのに、次に切れているのは犬飼自身の長い指。これではいつになってもハンバーグが出来上がらないと見た大河は、この不器用な男から包丁をふんだくった。
 肉だねの形を作るくらいは出来るだろうと思ってやらせてみても、犬飼の手の中で形成されたのは綺麗な楕円ではなく、……何かだった。形容できない。
 結局、大河一人で作った。犬飼はただ傍に棒のように突っ立っていただけだった。

「料理上手だな」
「お前が下手すぎるんだよ」

 リビングのテーブルの上の料理を目の前にして、大河は重い溜め息を堪えた。
 別に料理上手でも何でもない。手際は良くないし、味付けの加減も適当だ。一人で暮らすために必要最低限の技術を身につけざるを得なかったに過ぎない。
 少々焦げた部分もあるが、ふっくらと焼き上がったハンバーグが柔らかい湯気と食欲をそそるような匂いを発している。それに白いご飯に豆腐とわかめの味噌汁。品数はいつもそれほど多くない。
 犬飼の真っ黒な瞳がじっと見ている。まるで飼い犬が合図を待っているようだ。食えよ、と言うと犬飼は新しい箸を持って「いただきます」と呟いた。それを見て大河も味噌汁に箸をつける。

「……美味い」
「お前の母さんの方が美味いだろ」
「ああ」
「……」
「ソースいらないくらい、味が濃い」
「悪かったな……」

 包丁すらまともに握れない犬飼には言われたくない。

「味は濃い目の方が俺は好きだ」
「そりゃ良かった。けど高血圧で死ぬぞ」
「もう死んでる」

 犬飼はまるで生きているように、大河と同じようにご飯を口に運び、咀嚼する。犬飼の分を作ったのは大河だが、食事をする幽霊など聞いたことがない。つい彼が幽霊だということを忘れて、普通の人間だと錯覚してしまいそうになることは少なくない。
 
 大河は、死んだ後の犬飼しか知らない。その前に彼と言葉を交わしたのは修学旅行くらいで、生前の犬飼のことはほとんど知らなかった。先日、好きな食べ物を聞いたばかりだ。

「家でもよくハンバーグ食ってたのか」
「母さんがよく作った。父さんも好きだったし」
「三人家族?」
「弟もいる。春から高校生」

 犬飼とはずっと一緒にいるが、家族の話は初めて聞いた。それ以前に、まともな会話すらしてこなかった。交わすのは必要最低限の言葉で、友達同士がするようなものは一切――そもそも大河に友達などいたことはなかった。

 犬飼は、友達なのだろうか。死んでいることを除けば最も近しい相手だが、得体の知れないものから守ってもらうという名目で、四六時中共に行動しているだけだ。学校でも、自宅でも。これが友達という関係かは分からない。
 犬飼は、大河のことを好きだと言っていた。友達として、という意味ではない。
 キスも、不可抗力とはいえセックスもした。
 自分たちの関係は一体何なのだろう。……いつまで続くのだろう。

「仲宗根?」

 犬飼の呼びかけにはっとした。箸も動かさず、ぼんやりしていたらしい。犬飼も箸を止めてじっと見つめている。

「あ……いや、お前は、進路は決めてたのか」
「……進路」
「難関大に進む予定だったって聞いた」
「そのつもりだった」
「将来は?」
「弁護士」

 大河とは歩く方向が九十度ほど異なる世界だ。テレビドラマでよく見かける存在だが、実際に聞くと現実味がない。
 犬飼とは頭の作りや脳細胞の数がまったく違う。犬飼なら、生きていたら良い大学へ行って良い弁護士になれたかもしれないし、大河などとはつるまずに今も一生懸命勉強していただろう。
 ――このような関係にもならなかっただろう。

76/96 融解

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