密室アクアリウム

(12)

 リビングのテーブルに一枚だけ置かれた進路相談用紙。一番上の名前欄だけが記入され、それ以下は余白の状態だ。大河はソファに腰掛けたまま、上から用紙を睨みつけていた。
 進学が就職か。選択肢は一つしかない。今の大河には、進学など奇跡が起きない限り実現しえないことだ。そもそも、高等教育が終わってまでも勉強などしたくない。現在でさえ学校で毎日授業を受けるのに辟易しているのだ。
 進路は就職。しかし職種は何に丸をつけようか。正直、働ければどこでもいい。そのようなことを書こうものなら柏木に一喝されることは目に見えている。

「面倒くせえ……」

 難しいことを考えていると頭ばかりでなく身体まで凝り固まってくる。仰け反るように背骨を解すと、犬飼の顔が逆さまに映ってドキリとした。

「……いたのかよ」
「ずっと一緒にいたけど」

 確かに、そうだ。学校でも下校中でも常に隣にいたのだ。突然消える訳がない。進路の問題について集中するあまり気配を感じなくなっていた。
 普通、四六時中一緒にいたらそれが友達でも恋人でも息が詰まるものだ。しかしどういう訳か犬飼との距離感は大河にとって心地よく、邪魔だとは感じなかった。

 立ち上がり伸びをすると、キッチンへ向かった。
 時刻は五時三十分。今日は夕飯はどうしようかと冷蔵庫の中を覗くと、今朝、冷凍庫から移した合い挽き肉が目に入った。
 料理のレパートリーがさほど多くない大河には、挽き肉といえばハンバーグしか浮かばない。
 お買い得だからと普段より多いグラム数のものを買ってしまっていたせいか、一人で消費しきれる気がしない。いつも思うのだが、一人分の料理を作るのは大変だ。犬飼の分も作ろうか。

「ハンバーグ好きだって言ってたな」

 犬飼は死んで以降、何も食べていない筈だ。食べる必要がないのだから。大河自身、食べることは特別好きではないが、人生から食を奪われてしまったら生きる喜びが半減するような気さえする。
 それに一人暮らしを初めて随分経つが、自分だけのために何か料理を作るのは酷く作業じみた行為だった。とりあえず腹が満たせればいいとだけ思って自炊をしていたが、たまには自分以外の誰かのために作るのも悪くないだろう。
 リビングでテレビを観ている犬飼を一瞥すると、キッチンの戸棚の上にあるものを取ろうと背伸びした。手に触れた固い感触は、引き出物が入っているような紙箱だ。それを手前に引き出すと上から埃が舞ってきて大河は顔を顰めた。
 埃の被りすぎで灰色になった蓋を取ると、中には新品の食器がこじんまりと収まっていた。外装とは違い真っ白に輝いている。
 一人暮らしを始める際に、両親が実家から持ってきたものだった。貰いものだそうが、あまりにも高価そうで大河にはもったいなかった。結局使われずに長い間、棚の上で眠っていた。

「犬飼」

 リビングに呼びかけると、足音も立てずにキッチンへやってきた。

「ハンバーグ作ったらお前も食うだろ」
「……ハンバーグ」

 オウム返しする犬飼をそのままに、大河は冷蔵庫から挽肉、玉ねぎ、卵を取り出して料理の準備をし始める。パン粉もまだ残っている筈だ。もしかしたら湿気ているかもしれないが。

「俺がこの間言ったからか」
「違えよ。俺が食いたいから作る。お前はついでだ」

 ぶっきらぼうに言い放って、シンクの蛇口を捻る。手を洗っていると、隣に犬飼が立ってのが分かった。

「俺もやる」
 
 こいつ料理なんてできるのか、と一瞬驚いて疑いの視線を向けてしまった。しかし、誰かのために作るのではなく、誰かと一緒に作るのも悪くない。邪魔だけはするんじゃねえぞ、と告げて犬飼に包丁を手渡した。

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