密室アクアリウム

(11)

 窓側の席の環境はいい。というのも、夏は開けた窓から涼しい風が入り込むし、冬は暖房が近くにある。快適、とまではいかないが、冷暖房設備が十分とは言えない学校の中では最もマシな位置であるに違いない。
 左側から緩やかな熱がじわじわと体に染みわたるのは心地いい。朝のHR前とあって、眠気を誘ってくる。もちろん大河はそれに抗わない。

「よく寝るな」

 前の席に横向きに座って話しかけてくる犬飼の穏やかな声音さえ、眠りの世界へ誘ってくる。
 素直に机の上に伏せて眠りの世界に入ろうとした時――教室の戸が大きな音を立てて開かれる。

「っはよー!」

 昨日、聞いたばかりの声。腕の隙間から視線を投げやると、寒さで顔を真っ赤にした宇佐美が教室の前に立っていた。

「宇佐美っお前! 何でこんなに学校休んでんだよ!? 仮病か!?」

 宇佐美の友達が席を立ち上がるや否や駆け寄り、掴みかからん勢いで責める。

「仮病じゃねーよ! ほんとに体調良くなかったんだっつーの」 
「本当かよ。何で連絡返してくれなかったんだよ」
「悪い、忘れてた!」
「忘れる訳ねーだろ!」

 驚くクラスメイトたちがわらわらと宇佐美のもとへ集まる。久しぶりの登校だというのに、理由を邪推するような生徒も腫れ物のように扱う生徒もはおらず、まるで昨日も会ってきたかのような雰囲気だ。
 明日行く、という言葉通り、宇佐美はようやく学校に来た。伊織や藤川のことで自分の中で踏ん切りがついたと、昨日話していた。

 宇佐美は、大勢の人から慕われている。大河を脅して弄んだのも宇佐美の一面だが、こちらの姿の方が彼にはしっくりくる。
 微睡み始めた意識も、急に騒がしくなったせいでどこかへ吹っ飛んでしまった。

「解決したのか」

 犬飼の問いかけに小さく頷く。
 宇佐美を許した訳ではない。しかし、一応落着したと言えるのではないか。宇佐美が藤川をどうするのかは分からないが、そこは大河の関係するところではない。昨日ようやく話をつけたのだ、宇佐美との一件からは手を引くことにした。

「ホームルーム始めるぞー、お前ら座れー……って」

 鐘が鳴るとともに教室に入ってきた柏木は、宇佐美を見て一瞬硬直した。

「宇佐美!? どうした!?」
「どうしたって、俺が学校来たらおかしいっすか」

 雷に打たれたように衝撃を受けた柏木は、それ以降言葉を発することなく無言で宇佐美を抱き締めた。

「にしきんキモイ!!」
「キモいっていうな! 心配してたんだぞ!」

 宇佐美から離れた柏木は、よれたスーツの袖で目元を拭った。宇佐美が登校してくれて本当に、泣くほど嬉しいようだ。それを見た宇佐美は顏を引き攣らせて柏木から一歩後ずさる。

「先生……そんなに俺のこと好きだったの……きも」
「ふざけるなっ本気で言ってるんだぞ!」

 微笑ましい光景に周囲の生徒がクスクス笑った。そろそろ恥ずかしくなったのか、柏木はわざとらしく咳払いすると教壇に立った。教室に散らばっていた生徒も席に座る。
 
「宇佐美昼休み職員室な!」
「ええー」
「絶対来いよ」

 まじかよー面倒くせーとぼやきながら机に伏した宇佐美のその態度は、本心ではないだろう。いつも通りの、教室内での宇佐美の顔をしているものの、本当は柏木に多大なる迷惑をかけて申し訳なく思っているのを大河は知っている。
 担任として生徒が登校拒否をしているという状況は非常に心配だろう。抱える悩みも大きいだろう。昨日の帰りがけ、宇佐美はそのことを気に病んでいた。にしきん大丈夫かな、元気かな、と。
 宇佐美は本来、周囲に気を配れる男だ。柏木に負担をかけていることを気にするくらいなら、軽口を叩くのを止めればいいのに、と思う。

 柏木は普段通りHRを進め、朝の連絡をし始めた。手にはB5のプリント用紙がクラスの人数分ある。

「進路相談の紙配るぞー、余ったら前に持って来い」

 また面談があるのか、と大河は顔を歪めた。教師と生徒二人の個人面談ならまだしも、進路相談なる面談は親も交えた三者面談だ。気が進まない。
 以前にも一回あったが、その時は母親を交え、まだ未定ということでよく家族で話し合ってくださいということになった。大河が一人暮らしをしていることもあってか――進路に関してそれ以降何も話していない。

「日程はまだまだ先だが、しっかり読んで、親に渡すのも忘れるなよー」

 プリントが前から順に渡ってくるが、犬飼の前の席から止まってしまったようで、大河は「面倒くせえな」と呟いた。枚数が足りないのか、前の奴がもたもたしているのか、と苛ついていると犬飼が振り向いた。

「とってやれ」
「……あ?」

 数秒の思案の後、そうかと大河は納得した。
 犬飼は大河の前の席に座っているが、本当にいないのだ。
 前に身を乗り出して腕を伸ばす。自分の腕がすっと犬飼の首を貫いて向こう側の紙を掴む光景を見ると、不思議な気持ちになる。やはり犬飼は幽霊だ。
 最近二人でいる時は、犬飼は透過などしない。触れると必ず実体があった。

 そういえば、犬飼の席はいつまで経っても撤去されない。年度が終わるまでこのままなのだろうか。大河には犬飼の姿が見えるが、実際は一つ前の席はぽっかりと空いたまま。
 前を見つめていると、視線を感じたのか犬飼が振り向いた。

「どうした」

 何でもねえよ、と緩く首を横に振ると犬飼はまた元に戻った。
 渡った進路相談の紙を一瞥し、鞄にしまう。実家に連絡しなければならないと思うと気が重くて仕方なかった。

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