密室アクアリウム
(8)
天気の良い日が数日続いたが、週末になると本性を現したように崩れた。清々しい色の空は雲に覆われ、質量のある雪が絶え間なく降った。大河のアパートの前にも雪が厚く積もり、アパート会社の職員がたまに雪かきをしに来る。
冷え切っているせいか、外だけでなく部屋の中さえも澄みきっている気がする。積もった雪が雑音が吸収して、外から音は聞こえない。
朝からずっと静寂に包まれていた。昼を過ぎても、人の足音すら届かなかった。
「お前、寝てんのか」
リビングのソファに腰掛けたままずっと動かない犬飼に背後から声をかけると、ゆっくりと首が振り返った。起きてる、と静かに返す。考え事でもしているのか。
犬飼はいつも退屈そうに見える。ただ、そう見えるだけで本人はどう感じているのか分からない。幽霊だから学校へ行く義務もないし、食事をする必要もないし、睡眠をとる必要もない。大河が授業を受けている間は犬飼も机に座って教師の話を聞いているが、大河が夜眠っている間、何をしているのだろう。
「今、何してんの」
犬飼の隣に腰掛ける。相手は大河を一瞥して、それからまた正面を向いた。
「……何も」
「暇じゃねえの」
沈黙は肯定を示していた。
「……食事も睡眠もいらねえなんて楽でいいけど、つまんねえだろうな」
犬飼は黙っていた。
――やっぱり死ななければ良かった。
唐突に、伊織の最期の言葉が頭に浮かんだ。苦しみのあまり自殺に至った彼女の後悔。
犬飼はどうなのだろう。
「……なあ」
「何」
「死ななきゃ良かったって……思ったことねえの」
また暫くの沈黙の後、犬飼は「仲宗根と一緒にいられるのは嬉しい」と呟いた。
「けど、それだけ」
「それだけ?」
「楽しいのはそれだけ」
「……あとは?」
「生きていた時にやっていたことが今は必要ないから、退屈だ」
「後悔はそれだけか?」
「……いや」
それ以上は何も言わなかったが、大河は僅かながら感じ取っていた。
退屈だとか、死んでからの後悔がそれだけな訳がない。死んでから感じたことだけではない筈だ。
単純に、まだ死にたくなかった、と。もっと人生を生きたかったと、思っているのではないか。
以前に、死ぬ時は怖かったかと聞いた。その時は覚えていないと言っていた。
大河の勝手な想像だが、やはり恐ろしかったのではないかと思うのだ。トラックに轢かれ、意識が消える瞬間。大河自身も、死ぬのは怖い。怖くない人間がそうそういて堪るかと思う。
どれだけ死にたくなるような状況に陥っても、大河は死にたくないと叫ぶだろう。今なら。
「……別に、飯食えない訳じゃないし、眠れない訳じゃねえんだろ」
「? ああ」
「だったら、生きてた頃と同じようにしてもいいんじゃねえの」
生活してねえ奴と一緒に暮らしてんのは俺も気持ち悪いんだよ、と悪態を吐く。
もっと生きたかったと悔やむのは構わないが、犬飼に退屈を感じて欲しくない。死んでいても、生きているように振る舞ったっていいのではないだろうか。
「好きな食い物なに」
「……ハンバーグ、とオムライス」
「子供舌かよ」
普段大人びて見える分、意外だ。
高校に入学して以来、自炊をしているが、それは自分が生活するためだった。誰かが食べたいと思うものを、その誰かのために作るのも、もしかしたら悪くないかもしれない。
「ケータイ、光ってる」
「あ?」
テーブルの上に放置していた携帯電話を、犬飼が取って寄こす。新着メールが一件だ。差出人は――。
「宇佐美……」
「学校以外の場所で会いたい」と。
文面はその一文だけだった。
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