密室アクアリウム

(7)

 宇佐美にメールを送ってから一週間が経過したが、状況は変わらず、彼は学校に来なかったし、返信は一向に届かなかった。
 ここまで音信不通が続くと、最初はどうでもいいと思っていたものの徐々に心配になってくる。何か起こったのではないかと。ただの登校拒否でなく、何らかの事件や事故に巻き込まれたのではないかと。

「あいつ生きてんのかよ」
「あいつ?」
「……宇佐美」
「当たり前だろー。親御さんとは連絡とれてるし」
「本人とは連絡つかねえ」
「俺も、まだ会うどころか電話さえできてないわ。……担任として失格だなあ」

 廊下で立ち話をしながら、柏木が自責するように小さく笑う。いつもの飄々とした感じはなく、自信なさげな様子は、彼を一回り小さく見せた。

「どんな事情があるのかだけでも知れたらなあ」
「……そうだな」
「仲宗根も心配か?」
「別に」

 片づける仕事があるからと、柏木は両手に抱えたプリントの束を持って立ち去った。宇佐美のことが気にかかるとしても立場上、それだけに集中する訳にはいかないのだろう。
 よく眠れていないのか、目は重たそうで、その下にはクマがあった。宇佐美が登校するようになれば、それも解消されるのだろうか。

 昼休みに、再び屋上へ行ってみることにした。最近は雪や雨が降ったり天気が落ち着かなかったが、今日は珍しく快晴だ。久しぶりに青い空を見た気がする。
 前回は天気が悪かったから伊織はいなかったのかもしれない。今日のような天気ならもしかしたら、と期待をして向かった。

「……」

 冬の風が身体に吹き付ける。誰もいない。
 寒さに震えながら「伊織」と名前を呼んでみても現れない。

 フェンスの向こう側、中庭を見下ろしてみても、地面に厚く積もった雪と、粉を被った木々の姿しかない。
 出会った時のことを思い出すと今でも背筋が冷たくなる。普通に歩くように空中へ足を運び、落下し、すぐに聞こえた残酷な音。臓腑が剥き出しになり、目も当てられない姿。生花の香りと異様な悪臭。
 からかっただけ、と彼女は言ったが、大河にとっては性質の悪い悪夢でしかなかった。

「彼女にはもう会えないかもしれない」
 
 犬飼が唐突に呟いた。

「どうしてそう思うんだ?」

 緩やかに風が吹く。冷たい空気の匂いしかしない。

「彼女は現世に未練があったから、上手く死ねず、ここにいた。けどもう未練がなくなった」
「手紙が宇佐美に渡ったことか。……だから消えたんだな」

 屋上から外には出られないと言っていたが、あの日、校内の廊下で伊織に会ったのは、最期にどうしても大河に礼を言いたかったからだろうか。
 好きな人に告白して、振られて、その後どうしてか虐められるようになって、自殺。短いうえに、幸せとは程遠い人生だったのではないだろうか。
 最期は宇佐美に手紙を渡せて嬉しそうにしながらも、やっぱり死ななければよかったと後悔しながら消えていった。永遠に。
 
「感謝はされたけど複雑な気分だな。あいつ本当に死んだのか」
「……死んでも留まっているのは良くないことだ」

 犬飼はいつの間にか大河の隣で、フェンスに背中を預けていた。はっとして犬飼を見る。

「本当はここにいたらいけない」

 耳を澄ませばやっと聞き取れるほどの声で呟く。
 大河は躊躇しながら口を開いた。

「お前の未練は?」

 交通事故でトラックに撥ねられて命を失った犬飼の、まだこの場所に留まっている理由は。何をすれば本当に死ぬことができるのか。何をしたら、犬飼は大河の前から消えてしまうのか。

「俺が死んだ理由」
「……どういうことだよ」
「仲宗根」
「あ?」
「お前を最後まで守ること」

 不意に肩を引き寄せられ、身体を抱かれる。そよ風に抱かれているように、触れた感じはどこまでも優しい。

「お前を守り通すまで死ねない」
 
 きゅう、と心臓が締め付けられるような感覚がした。驚きなのか痛みなのか、それ以外なのか大河には分からない。
 仲宗根を救おうとしたけど、それがばれて、殺された。以前にそう言った男に、どうしても引っ掛かるものがある。

「何でそこまで俺に執着するんだよ」

 言葉を交わしたのだってほんの数回きりの、ただのクラスメイトだ。そこまで思い入れがある関係ではなかった。

「何の関わりもなかった。ただのお人好しで助けようとしてるんだったら、おかしいだろ」
「仲宗根は覚えてないかもしれない。……俺はずっと、昔から、お前のことが好きだった」
「どういう……」

 唇を塞がれる。追及して欲しくないことなのか、すぐには放してもらえなかった。
 犬飼と高校以前に会ったことなど、一度もない筈だ。中学生や小学生の時に記憶を巡らせてみても、その中に犬飼孝弘という名前など登場しない。
 犬飼の言っていることは本当なのか。
 唇が離れると、犬飼はふっと目を伏せた。

「俺たちは前に会ったことがあるのか」
「覚えていなくてもいい。気にしないで」

 犬飼の身体が離れていく。風が少し強く当たるようになって寒い。
 何故かこのまま風と一緒に消えていきそうな気がした。

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