密室アクアリウム

(6)

 数日経ったが、宇佐美から返信はなかった。担任の柏木と連絡を取らないくらいだから、大河の方へすぐに返事を寄越す筈はなかったが、どうしたものだろうと思う。
 やはり伊織のことだろうか。手紙に何が書かれていたのかは知らないが、幽霊からの手紙を読んで思い悩むところがあったのか。
 犬飼と二人で伊織に会いに屋上へ行ってみたが、彼女は現れなかった。ただ、霙に近い雪が降り積もって、灰色のコンクリートをべちゃべちゃに濡らしていただけだ。乾いた風は身を切り裂くように冷たかった。
 
 午後から雨が降り出した。雪が積もっている中での雨など最悪だ。溶けた雪が気温で凍って、アスファルトはつるつると滑る。次第にそんな心配もさせないような、酷い豪雨に変わった。雷も鳴り始めた。風も強い。
 朝、傘を差して登校したのだが、午後からの暴風で骨が折れてしまった。犬飼は幽霊だが、妖怪ではない。傘に変身できる訳がない。少しでも雨がマシにならないかと学校の昇降口で暗い曇天を見上げていたが、いっこうに弱くなる気配はない。帰宅する生徒の中には強風の中、頑張って傘を差して歩く生徒や、諦めて濡れながら走って行く生徒もいる。
 大河も諦めて、雨に打たれながら帰ることにした。電車の中では、大河のように頭からびしょ濡れになっている人も少なくなかった。

 自宅近くの公園は、土と雪が混ざり合って地面がぐしょぐしょになっている。あの時のように、茶色い泥が白い雪を汚している。大量のウサギの死骸が転がっていたという事件現場を足早に通り過ぎ、アパートの部屋の前に着く頃には下着までもぐっしょり濡れていた。

 部屋の中まで濡らさないように玄関でコートや制服を脱いで雨粒をほろっていると、気づけば犬飼がタオルを持って立っていた。いつの間に部屋に入ったのだろう。白いタオルを受け取ろうとする前に犬飼がそれを大河の頭に被せた。

「いぬ」
「黙って」

 わしゃわしゃとびしょ濡れの頭を拭かれる。自分でやるからと訴えようとしたが、頭がガクガク揺さ振られて舌を噛みそうだったため、大人しく犬飼の好きにさせた。
 子供でも犬でもないのに、どうして世話を焼かれなければならないのか。不満に思うと同時に、以前の自分だったらやめろと強く言って強引に振り払うことだってしただろうに、と自分自身の変化を思い知らされた。

「犬飼、もういい」
「風呂にお湯、入れたから」

 いつの間に。
 礼を言う隙もなく鞄とコートを奪い取られ、強引に脱衣所まで押される。服まで脱がされそうになったから流石に「自分で脱ぐからお前あっち行ってろ!」と怒って追い払った。

 冷たい雨のせいで身体は冷え切っていた。手の指先など皮膚が白くなるほどで、関節を曲げるのも一苦労だ。肌に張り付く服を脱ぎ捨て、急いで熱いシャワーを頭から被る。冷たい身体には痛いくらいだった。
 熱い湯に浸かるとまるで天国だった。末端からじわじわと温かさが伝わって、自然と溜め息が漏れた。

「あいつ……」

 色々と手伝ってくれるのはありがたいが、大河はもう子供ではない。一人暮らしだって二年が経とうとしているし、身の周りのことは自分でしっかり出来ている。子供扱いされると腹が立つ。
 何度も命を助けてくれた。それはこれからも望むことだが、面倒を見て欲しいとまでは思っていない。
 そこで、ふと思った。
 どうして犬飼は自分のことを助けてくれるのだろう。

「……そういえば何も聞いてなかったな」

 根本的な問題だった。
 以前に犬飼は、大河に危険が迫っているのを察知して助けようとしたと喋っていた。そして、死んだとも。
 死んだ以降も大河のことを気にかけ、救ってくれる。大河のせいで死んだと言っても過言ではないのに。家族でも親友でもなく、仲が良い訳でもなく、ただのクラスメイトに過ぎないのに、どうしてだろう。

「……」

 考えれば考えるほど不思議だ。何の関わりもないただの一人の男のために、犬飼はこんなにも尽くしてくれる。この風呂場で溺死しかけたところを救ってくれた。公園で殴られ死にかけそうなところを救ってくれた。決して容易いことではない筈だ。それとも、幽霊だから、大河一人の命など簡単に救えるものなのだろうか。

『仲宗根が好きだから』

 そんなことも言っていたと思い出して、困惑した。
 わからない。考えてもきりがないことだ。

 バスタブから立ち上がると、少し立ち眩みがした。早く身体を洗って、夕飯を作りに行こう。
 風呂場から出た後、脱衣所にバスタオルを持って犬飼が待ち構えているなどとは思いもしなかった。

69/96 融解

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