密室アクアリウム
(5)
学校来ないのか。
たった一文打っただけの、寂しいメールを送った。伊織について気になったが、今は追及しないことにした。メールよりも直接会って聞くべき内容だ。この先会うのかは未定だが。
「仲宗根」
風呂あがり、髪の毛も乾いてぼうっとテレビを観ていると、犬飼が音もなくソファの隣に座ってきた。
相手は相変わらずの無表情だったが、おそらく大河に訊きたいことがあるのだろう。昼間も訝しげだった。
観たくて眺めていた番組ではない。リモコンの電源ボタンを押すと途端に部屋が静寂に包まれた。
「宇佐美のこと教えろって?」
無言で頷く。
消えろと言われ犬飼が姿を消している間に、大河の近辺で何が起こったのか。宇佐美とどんなトラブルがあったのか。宇佐美に何をされたのか。
「お前は宇佐美と話したことあるか?」
「何度か。良い奴だ」
きっと誰もが抱く印象だろう。大河も、最初はそういう、誰にでも等しく接する「良い奴」な人物だと思っていた。
「俺はあいつに脅されてた」
脅されていたという事実だけでも十分陳腐だと思うのに、口にするとますます滑稽な感じがした。
「何があった」
自分が酷く情けない。
自分が弱いということを、他人に教えたくもない。けれど、何故か犬飼だけには伝えられる。安心して打ち明けることが出来る。犬飼であれば、同情されたり、不憫に思われることもないと信じていた。きっと黙って聞いてくれる。何より、犬飼には話さなければならないと感じていた。
すべて犬飼に伝えた。音楽室での出来事の後、宇佐美に写真を取られていたこと、それをネタに舐めろと言われて、トイレで渋々行ったこと。それは犬飼が姿を消した日だった。
そして、藤川とのこと。失敗して、追試の時に教室で事件があったこと。宇佐美が苛々して、楽しそうに、時に辛そうにして、大河の身体を触ってきたこと。
あの時のことは、酷い屈辱を受けた時のことは出来れば思い出したくない。恥辱に塗れた思い出だ。宇佐美の顔を見れば我を忘れて殴りかかる自信さえある。
すべて話すと、犬飼は開口して「俺のせいなのか」と呟いた。微妙な声色の変化を感じ取って、少し胸が痛む。
「お前のせいっていう訳じゃ……」
言葉は最後まで続かなかった。確かに、大河もすべての原因をすべて犬飼だと決めつけていた。激しく罵倒したこともあった。犬飼が音楽室であんなことをしたから、と。お前がいるから、と。
犬飼を強く責めていたのは事実だ。
「悪かった。悪かったで済むとは思ってねえけど、謝る」
犬飼が目を伏せて低い声で言った。彼の頭に犬の耳があったなら、しゅんと元気なく垂れているのが想像できた。傷ついているのが確かにわかった。すぐ隣でそんなに項垂れられると、何だか大河の方が罪悪感を感じる。自分も責めすぎだったかもしれないと。
「俺も……悪かった。全部犬飼が原因な訳じゃねえよ。俺が自分でどうにか出来たこともあった。けど、上手く立ち回れなかった。だからこうなったんだ」
だから気にするなと、以前に言ったことと矛盾する言葉をかける。あんなに酷く責めておきながら、なんて都合の良い言葉だろう。こんなもので犬飼の心が休まる筈がない。案の定、目線を上げて大河の顏を見たが、すぐにまた俯いてしまった。
「仲宗根が宇佐美に色々されたのも、嫌だ」
「……ああ」
「俺が傍にいれば何とか出来たかもしれない」
「それは俺も」
「宇佐美も許せないけど、何より自分に腹が立つ」
気持ちを剥き出しに吐露する犬飼の表情は、俯いていて見えない。
いつになく感情的になっている犬飼に、かける言葉がなかなか見つからなかった。何を言えばいいのだろう。誰かを慰めるなどしたことがない。そもそも人と喋ること自体少ないし、相手の心情を慮って話すことは大の苦手だ。相手を思いやる言葉なんて知らなかった。
犬飼が沈んでいるのを見ると大河の気持ちも落ち着かない。ざわざわと風が立って、心が急かす。こんなに不安そうな犬飼は見たくない。
犬飼の手に、大河は自分の手をそっと重ねた。
元気がないのはお前らしくなくて気持ち悪い、なんて言わない。握った手はそのまま、驚きのために上げた犬飼の顔に自分の顔を近づけ、唇を重ねた。
「あ……」
すぐに唇を離した。お互いの息遣いが感じられる距離、目を見て喋るのも気恥ずかしく、大河は視線を伏せた。
「お前が気に病むことじゃねえよ」
犬飼はまだ、何が起こったのか理解できないでいるらしい。まさか仲宗根からキスしてくるなんて、と。少し動揺した様子で「そうか、わかった。ありがとう」と呟いた。
「起こったことは仕方ない。これから、ずっと俺の傍にいれば問題ねえだろうが」
慰めになっているのか分からない上に、自分がこのような言葉を言うなんて、穴があったら入りたいくらいだ。普段の自分だったら、絶対にこんな恥ずかしいことは言わない。けれど沈んでいる犬飼を見るのは、そんな思いをするよりも嫌だった。
突き刺さる至近距離での視線が気になって、何も言わずに犬飼から離れようとしたが腕をしっかりと掴まれた。
「わかった。……一緒にいる」
「……ああ」
犬飼が腕を離す様子はない。どうすればいいのか分からずそのままにしていたら、今度は犬飼の方から口づけてきた。
「ん、……」
犬飼の柔らかい唇が啄むようにキスする。甘えるような仕草を享受しながら、どうしてこのような状況になっているのかと、頭が徐々に冷静さを取り戻そうとしていた。
「犬飼……っふ、んん」
上唇を柔く食まれたあと、ぬるぬると舌が入り込む。止めさせようと名前を呼んだのに犬飼は違う捉え方をしたらしい。大河の首筋に手を添え、更に深く口づける。
舌を絡ませたり、上顎を撫でたりして、気が済んだのかようやく唇が離れたが、ぎゅっと身体を抱き締められてなかなか大河に隙を与えてくれない。
そもそも、どうして犬飼にキスをしてしまったのか。何も考えずにそうしてしまったが、犬飼を元気づける方法ならもっと他にあるだろうと、今更ながら思うのだ。
(いや……犬飼が俺のことを好きって言ったから)
好きな人にキスされたら喜ぶのではないかと。そう思って行動に移したに過ぎない。きっと、それ以上の意味なんてない。ずっと傍にいればいいなんて言ったのも、犬飼が「俺が一緒にいれば」と気に病んでいたから。それだけだ。
ひとまず、犬飼がいつも通りになって良かったじゃないか。犬飼の背中を叩いて身体を離れさせる。
「犬飼、俺は寝る」
「寝る?」
「ああそうだ。お前も寝ろよ」
「この先は?」
「ねえよ。ある訳ねえだろ」
恋人でもないのに。しかも男同士だし。と心中で自分に言い聞かせながら大河は立った。そのまま寝室へ行くが、犬飼はついてこない。
「どうかしてる……」
犬飼との距離の保ち方が分からない。命の恩人だし、いつも見守っていてくれるし。どういった扱いをすればいいのか。
ぼんやりと考えているうちに眠気に襲われて、いつの間にか意識が溶けていってしまった。
68/96 融解