密室アクアリウム
(3)
「仲宗根がそう強く望むなら」
消えもするし戻ってもくる、と目の前の幽霊は力強く頷いた。まるで淡々としている様子に、大河は言うべき適切な言葉をなかなか見つけられない。
それは実は恐ろしいことなのではないか。犬飼が消えるも消えないも大河次第ということだ。死者を好き勝手に呼んでいいものか。
「自分の意志はねえのかよ」
「ある」
「じゃあ」
「本当は、ずっと傍にいて守りたかった。けどお前が失せろって言うならどうしようもなかった」
嫌われたくなかった、と相変わらず抑揚の少ない声で呟いた。淡々と放ったその言葉は、第一印象では下手な演技に聞こえるかもしれない。けれど大河は知っている。犬飼は、本当のことしか言わない。
「……悪かった。消えろって言って。ただの八つ当たりだ。上手くいかないことを、自分が悪いのにお前のせいにしてた」
食器を静かにテーブルに置きながら、自分の身勝手さを噛み締める。不幸の原因を自分ではない誰かにしなければ自身を保てないほど、弱かったのだ。もちろん、今も弱い。今まで生きて来て、強かった時なんて一瞬たりともない。
「邪険にして悪かったよ」
「……ああ。別に、怒ってない」
「なら良かった。……だから」
だから、これからも傍にいて欲しい。
そんな告白のような甘ったるい台詞など、口に出来る訳がない。
唇の隙間から遣る瀬ないため息のようなものを吐きながら、大河は食器を持って立ち上がった。
「だから、何だ」
「何でもねえよ」
「言いかけるな。気になるだろ」
「まったく気になってない感じの平坦な声で言うな。何でもないって言ったら何でもないんだ」
「釈然としない」
「ずっとそのままでいろよ」
今日は珍しく執拗に追及してくるなと思いながら素っ気なく背中を向け、シンクに食器を置きに行く。乱暴に置いたつもりはないのにガチャン、と耳障りな音が鳴った。蛇口から水を出すと、リビングでただ座っていた筈の男がいつの間にか隣に立っていた。
「気配を消すな。びっくりするだろうが!」
「仲宗根は怒ってるのか」
「はあ? 何で俺が怒るんだよ……てか、どうした」
「何が」
シンクの淵にかけた手に、何故か犬飼が手を重ねてくるのを訝しげに見遣る。そのまま視線を滑らせて相手の顔を見ると、案の定というか、表情がないために意図が読み取れない。
「お前、変だぞ。しつこい」
「仲宗根が素直に謝ったから、俺も素直になってみようと思った」
「それによく喋るな」
「素直になったんだ」
それならばもう少し表情に色をつけたらいいだろうに。重ねていた手を徐々に上で移動させ肩を抱くというような行動だけで示されても困る。蛇口からの水が食器を溢れてシンクを叩く音を聞きながら、大河は頬が引き攣るのを感じた。
「なあ、これは何だ。今はそういう流れじゃねえだろ」
「そういう?」
「勘違いすんなよ。昨日は、まあ……止むを得ずだったし不可抗力だったけど、やったからって俺とお前は恋人同士でも何でもねえ。しかも男同士だし、お前はもう死んでる。明らかにおかしいだろ」
「俺は仲宗根が好きだ」
よく躊躇いもなく言えると、感心すらする。ストレートな告白の言葉に不本意ながら動揺していると顔が近づいてくるので、「違う!」と叫んだ。
「何が」
「お前が俺のことを好きなのは分かった。けど、それだけでこういう流れになるのは違うだろ」
「……仲宗根も、俺のことを好きじゃないといけないってことか」
そういうことだよ、と言いかけそうになったのを寸前で飲み込んだ。違う。そういう問題ではない。
今日の犬飼は扱いにくい。
「とにかく俺から離れろ。不必要に触るな。俺は洗いものを片づけて風呂に入る」
「俺も入る」
「幽霊が風呂に入る必要はねえだろうが」
手を乱暴に振り払い、とにかくリビングで大人しくしてろ、と鋭く睨んで訴える。犬飼は素直に戻って行ったが、大河の内心は平静ではない。
(調子狂う……)
掴んだ茶碗を危うく落としそうになった。
66/96 融解